OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

“信念の人”が苦手です

2010-01-31 15:00:00 | Weblog
明日が、年末調整で作成した書類を、各関係市町村と税務署に提出する期限の日です。で、今日は朝から、プチプチと電卓を叩いていたのですが・・・ある数字の並びになると、どうも打ち間違えてしまう自分の癖に悩まされました。たとえば「×××73××」という数字だと、わたしの場合、何故か手が「×××37××」って打ちたがるんですよね。分かっていて注意しているんですが、それでもやっちゃうんですよね。どうしてなのかなぁ~、我がことながら理解できません(^^;。

ところで、突然ですが“信念の人”って好きですか?わたしはねぇ~・・・なんだか苦手なんですよね、融通のきかない信念の人が。

もうずいぶん昔のことになっちゃいましたが、たしか中学生の頃、『塩狩峠』という映画と『小林多喜二』って映画を、比較的短い期間に続けて観たんです。

『塩狩峠』は三浦綾子さんの小説を映画化したもので、恋人の影響でクリスチャンになった国鉄勤め主人公が、その恋人との結婚式の日に暴走列車に乗り合わせてしまい、わが身を車輪の下に投げ出して列車を止め、大惨事を防いだ物語だったと思うんですが・・・たしか、これは学校で見せられたと記憶しています。

『小林多喜二』は、最近『蟹工船』で再注目されている小林多喜二さんが、軍国主義が色濃くなっていく時代の中で厳しい共産主義者弾圧をうけ、警察の激しい拷問の末に命を奪われた経緯を描いていたと思います。これはたしか、西宮市の子ども向けイベントかなにかで市役所で見せられた気がします。

両方とも、尊敬に値する人物を描いた映画なんですが、かなり暗く、しかもちょっと残酷なシーンもあり、中学生に見せるのはどうかとも思うものなんですが・・・とにかく、当時のわたしは、大人たちにそれを見せられたのです。

で、これらの映画を観て、わたしが強く思ったことは、大人たちの期待に反して「自己犠牲だとか信念だとか、そういうやたらと素晴らしいものはウザイ」ってことだったんですよね(爆)。

なんていうのかな・・・強い信念をもっている人って、なにかと行き過ぎるような気がするってことかな・・・だから、塩梅が良くなくて、ショッパイって感じかな。

だってね・・・信念の人の周りにいる人たちって、けっこう迷惑していること、多いと思うんですよ。回りが見えていなかったり、斟酌してくれなかったり、とにかく融通がきかなくて、急がば回れ的な判断が出来ないものだから、周りの人に我慢させたり、面倒かけたり、心配かけたり泣かせたりしていること、多いと思うんですよね。

だからね・・・本当に信念を通したいなら、むしろ清濁併せ呑む人間になれ、大方のことに対してちゃらんぽらんであれって、そう思うんです。どうしても譲れない大切なことって、そう多くはないでしょ。だから、最終的にそこを貫くためには、たいていのことは適当に流されていればいいって、そう思うんですよね。

とにかく、まっ、捻くれた人間なので、普通なら感動すべきもので文句たれちゃいますが・・・なんか、信念によって不幸になる人を見るの、すごく嫌いなんですもん。それによって周りの人が泣いているのを見るの、もっと嫌ですし。

それに対して、芯の部分はものすごく強固で熱くて、でもそれを取り囲んでいるものはふわっふわっで、印象はかなりテキトーな感じなんだけど、実は何ものにも支配されず流されていないってのが、わたしにとってのヒーローの条件なんですよね。

って、オチがない話でしたが・・・中学の頃のことを思い出しつつ、そんなことを確認したのでありました(^^;。

吐露

2010-01-29 18:21:06 | Weblog
Amazon.co.jpからのメール。デップの初主演映画『クライ・ベイビー』のスペシャルエディションDVDを1500円で販売しますが、いかがですかって。1500円かぁ~、悪くない値段なのかな。でも『クライ・ベイビー』は、持っていたと思うほどの映画ではないのだよね(爆)。『クライ・ベイビー』の廉価DVDを販売するくらいなら、『ギルバート・グレイプ』を再発売して欲しいぞ!だって、あれは名作だと思うもん。個人的には、レオナルド・ディカプリオの出演作の中で、彼が一番輝いている映画だと思っております(^^)。

でも、若い頃のデップを評価しないってことではないのですよ。本人が話題にされることを嫌がっているアイドルTVドラマの『21ジャンプ・ストリート』の頃の彼だって、可愛くて好いと思ってますもん。でも、『クライ・ベイビー』は・・・やっぱ、あれは別に手元に持っていたい映画ではないです、残念ながら(^^;。

というのは、毎度のことながら、本題とは全く関係ない枕で・・・今日は「話すと考えが纏まるね」って話です。

昨日も、とある金融機関さんとお話しました。前々から、別件では何度かお話をしていたんですが、なかなか好い方だと思っていて・・・それで、昨日、今度は個人的な事業計画や資産管理について、お話しすることにしました。

と・・・彼がとっても聞き上手だったのと、もともとワタシがお喋り女であることが相まって、かなりの長話になり(^^;・・・しかも、直接の商談とは関係ないプライベートなことなんかも、お互いに話し合ったりしたのでした(^^)。

とね、やっぱり、頭の中がスッキリするんですよね。一人で自分の頭の中でだけ考えている時って、人と対話しているより、はるかに集中してるし熟考しているはずなんですが・・・独りよがりになっていたり、堂々巡りになっているものなんでしょうね。対話といっても、相手からアドバイスをもらうわけでも、論理的誘導をしてもらうわけでもはないんですが、ただ雑談しているだけで、自然に「あっ、わたし、そういうことがしたかったんだ」って、明確に自分の気持ちを認識できたりするんですよね。熱く語っている自分の言葉を耳から聞いて「ああ、そうなんだ」って、そう気づくんですよね。

だから、籠もって考えてばかりじゃなく、誰かを相手に思いを吐露するって、すごく大切だと、そう感じた時間なのでありました。

フリーで働くということ・・・

2010-01-28 13:26:09 | Weblog
一昨夜、TVの電源を入れたら『カンテツな女』という番組が始まったところでした。NHKの「勤労女子ドキュメント」番組で、HPの解説によると「深夜0時。多くの人が眠りに落ち、あるいはテレビの前でくつろいでいる時にも、懸命に働く女たちがいる。夜を徹して働き、朝を迎える女、名づけて“カンテツな女”。そんな働く女性の心のうちに迫るべく、時々刻々、ふと見せる表情や仕草、言葉をヒントに、次々と疑問をぶつけ“カンテツな女”の心を裸にするのが、この番組『カンテツな女』だ」そうです。

で、一昨夜は、ショーウィンドーのディスプレイを仕事にしている女性が取り上げられていて・・・その仕事には、前々から少し興味があったので、そのまま見てみました。

すると・・・その方は、大学を卒業されたときからフリーで働いていると仰っていて・・・それを聞いてからは、わたしの興味の的が、ディスプレイのお仕事のことではなく、フリーで働くってことになってしまいました。「どこの組織にも属さず、いきなりフリーになって、この人はいったい、どのように仕事を確保していったんだろう」って、テーマをそのことに絞って番組の残りを見てしまいました。

きっと、どの職種もそうだと思うのですが、組織に属さない人間にとって、クライアントの確保、あるいは販路の確保が、何よりも大変なんですよね。組織に属して実績や人脈を築いた上での独立ではなく、はなっからフリー、あるいは全く別業種からの転身の場合、ほんとにそれが悩みの種なんです。

もちろん、クライアントの確保と販路の確保、両方が必要である場合は多くないと思います。クライアントからの発注で仕事をする場合は、納品先はもう決まっていますから、販路の確保は必要じゃありません。自分で売り先を見つける場合は、自分発信の製作作業になりますから、クライアントは関係ありません。けど、必ず、そのどちらかが確保できなきゃ、何を作っても、それは自己満足、趣味でしかなく、仕事とはならないわけです。仕事とは、自分の作ったものにお金を支払ってくれる人がいて、はじめて成り立つものですから。

と、つまり、何度も言いますが、お金を払ってくれる人を確保するってことが、製作それ自体に勝るとも劣らない重要事項なんですが・・・製作をする人って、営業的な行為を苦手に感じている人が多いと思うので・・・ほんと、成功が難しいと思うわけです。

だから、上記のディスプレイのお仕事をしていらっしゃる女性は、どんな風にクライアント開拓をされたのか、それが知りたくて、この番組を最後まで見てしまったのでありました。でも結局、その日にディスプレイをした銀座のお店のお仕事に限っては、そのお店で普通にバイトをしていたのが切っ掛けで任されるようになったと分かったものの、なんの実績もない、学校卒業したての頃に、どのように仕事を得ていたかについては、何も教えてもらえませんでした・・・残念。

たぶん、フリーで働く多くの人が、かつては組織に属していた経験をもち、その頃の実績と人脈を利用して、お仕事をしていらっしゃると思うんですよ。そういう経験なしに、フリーで仕事をする人が多い業種ってありますかね。ああ~、小説家さんとかは、そうかもしれませんね。彼らの場合は、何らかの賞に応募して選ばれるってことで、実績と人脈を一気に得るわけですかね。ああ~、画家さんも同じですかね。やっぱり何とか展入賞みたいなことが切っ掛けで販路が開けるんですかね。でも、そういう芸術芸術した分野じゃなく、もっと商業ベースの細かい仕事となると・・・みなさん、どうしていらっしゃるんでしょうね・・・。

いつもの話題だと、基本的に『話したいだけ 答えはいらない』っていうスタンスなんですが・・・今日は、ぜひとも答えが欲しいと思っています。でも、考えても考えても・・・答えが見つかりません・・・ああ~、どうしたらいいんでしょう(^^;。

天の配剤

2010-01-26 19:40:08 | Weblog
若いタレントさんの年を聞くたびに、「あっ、藍那と同い年だ」とか、「裕太より一っこ下か」とか、娘や息子の年と比べてしまいます。そして「早生まれだと、学年は上か」なんて、学年にまで拘ってしまいます。年が一緒ならどうなんだ、ましてや学年が一緒ならどうなんだって・・・自分でも馬鹿馬鹿しく感じられるんですが、反射的に考えてしまいます(^^;。

という話とは、まったく関係ないのですが・・・天の配剤って言葉、ありますよね。意味は、因果応報みたいなことだったと思います。良いことをしていたら報われ、悪いことをしても報いをうける・・・そういうことだったんじゃないかと。

けど・・・それが分かっていても、なんとなく「配剤」というより「配材」的なイメージをもってしまうんですよね。天は、役割をもって人を配するみたいな。つまり、天啓みたいなことなんですが・・・。

わたし、既存の宗教の神や仏に信仰帰依をしていません。なんというか・・・人格神を胡散臭く感じてしまうんです。なので、その存在意味や意義は認めているんですが・・・信仰は出来ないわけです。けれど、そのくせ“意志”ということは考えてしまうんですよね。もっと平たく言うと“方向性”でしょうか。だって、わたしたちの世界には、何かしらの秩序や法則があるでしょ・・・だから“意志”のようなものの存在を、完全には否定しきれないような気がして・・・。じゃあ、その“意志”を持つものが、人格神に当たるのではないかといわれると、ちょっと困ってしまうんですが・・・わたしの中では、まったく違うんですよね(爆)。

なので、ほんと、自分でも矛盾していると思うのですが・・・人格神は否定するくせに、われわれの世界において、天による配材作業的なことが行われているのではないかと・・・そう疑ってしまうところがあるんです、わたしには。

わたしのイメージによる天の配材作業って、絵を描いたり、音楽を作ったり、小説をかいたりするのと似ていて・・・○○なイメージを作るために、この色を持ってきたらその横にはこの色を持ってくるとか・・・小説に猫を登場させたら、必ず鼠をキャスティングしてドラマを作るとか・・・基本的な旋律をベースに、それを飾ったり壊したりして曲を構成するとか・・・そういうことと同じように、人間が社会の中に配置されている臭いがする時があると・・・。

この感覚って、単なる錯覚、あるいは刷り込み・・・そういうことなんでしょうかね。わたしの中に、そう思いたい何か理由があるんでしょうかね・・・ふむ。

底が浅いっす(^^;

2010-01-25 22:27:11 | Weblog
先日のオフ会で、読書に関して「何を読めばいいか分からなくなっちゃっているのだ」と愚痴を言ったところ、アゴタ・クリストフの『悪童日記』はどうかと薦められました。「きっと気に入ると思う」って。

わたし、けっこう捻くれた人間だと思うんですが、友人知人による「きっと好きだと思うよ」は、何故かよく当たるんです。今まで、本を薦められることは少なかったのですが、映画なんかで「きっと」と薦められたものは、大抵すきでした。そんなに分かりやすい人間なのかな(^^;。

出会って間もない人には、かなり誤解されるんですよ。ほら、わたし、話が理屈っぽいでしょ。中身は何にもないんだけど、ありそうな口の利き方するじゃないですか。だもんだから、難しい本読んで、アート系の映画観て、そんな自分に思いっきり酔いしれているように思われるんですが、しばらく付き合っているうちに、すぐに底の浅さを看破され、好みも把握してもらえちゃうんですよね(^^;。

そうそう、仕事で出会った人には、酒はザルで、煙草はヘビースモーカーで、ブラックコーヒーをがぶ飲みしながら仕事しているイメージだと言われます。一昔前の豪快なキャリアウーマンのイメージってことでしょうか・・・何だか、今の時代には、やたらとカッコ悪い女性像ですが(爆)。でも、実際は、お酒こそ少々嗜みますが、煙草は吸えませんし、コーヒーは砂糖とミルクで珈琲牛乳状態にして飲んでますし・・・しばらく付き合った人からは、差し入れに甘いものを頂くようになります(^^;。

とにかく・・・初期のイメージと実際の人間性に甚だしいギャップがあるものの、しばらく付き合うと、かなり簡単に理解されてしまう人間であることは確かなようなんです。

けど・・・実は、わたしはわたしのこと、未だに「よく分からない奴だなぁ」って面白がっているんですよ。それはきっと、わたしほど、わたしに興味を持っている人が居ないってことだと思うんですよね。人でも物でも出来事でも、興味を持てば持つほど分からないことが増えるでしょ。

あれっ・・・ということは、わたしの周りの皆は、実はわたしに全く興味がないってことになりますか?あいや~・・・それは、ちょっと淋しいかも(^^;。タレントさんのように、興味を持たれすぎるのはウザイと思うのですが、多少は興味を持って欲しいなんて、わがままなことを思う、わたしなのでした。

人間の根っこって何処にあるんだろ(^^;

2010-01-24 13:14:34 | Weblog
三寒四温って感じですね、最近のお天気。まだ春には遠い気はしますが、ふわっと暖かい日が寒い日の合間にやってくるので、過ごしやすいような、むしろ過ごしにくいような(^^;。

比較的暖かい日も、まだまだ寒い日も、家の外に出ると、母が植えた野菜の苗が元気に成長している姿に出会います。もちろん寒さに弱い野菜もあるのですが、カチカチに凍った土の上に、青い葉っぱを茂らせている野菜を見ると、この強さはどこから来るのだろうと思います。

それに、野菜でも野の草でも植物たちって、たとえ寒さで葉っぱは萎れてしまっても、あるいは枯れてしまっても、根っこは土の中で元気に生きているんですよね。それもまた、凄いことだなって思います。

ところで・・・人の心のことなどを話すとき「根っこがシッカリしているから大丈夫」というような表現をすることがありますが・・・人の心の根っこって、どこにあるんでしょうね。植物だと根っこは土に埋まっている部分だと思うのですが、人の心の根っこって何に埋まっているんでしょうね。つまり何から隠れ、何に守られ、何を吸収してるんでしょうかね。

物体的な見方をすれば肉体に埋まってますかね・・・昔の人が心の在り処だと思っていた心臓も、ここのところ注目されている脳も、肉体の中に納まっていますものね(^^;。

心理学っぽく考えると、乳幼児期とかですかね。子どもの頃の体験が、心の地力を作るっていうような言われ方も、よく耳にしますものね。

けど・・・なんかそういうことでもなく・・・心には根っこがあるような気がしなくもないんですよね。でも、それがどこにあるのか、どんな形をして、どんな役割を果たすのか、なぁ~んにも分かりませんけどね(爆)。

どうするのがベストだったろうか・・・

2010-01-23 17:59:10 | Weblog
今日は、旧フォーラムのメンバーとの新年会。でも、なんやかんやで三人しか集まりませんでした(^^;。けど、楽しかったです・・・いっぱい、おしゃべりして(^^)。自分ばっかり喋るお子ちゃまな行動、いいかげんに直さなきゃと思っているのだけど、なかなか直りませんねぇ。それを許して付き合ってくれる、よい仲間に恵まれて、感謝しなくちゃいけませんね(^^;。

で、みんなと別れて、電車で最寄の駅まで帰ってきて・・・エスカレーターを上ったら、そこに年配の男性が一人、うずくまっていました。で、そばには大きな血溜まり。あわてて駆け寄って「大丈夫ですか」って聞いたら、しっかりした声で「大丈夫です」と答えはするのだけど、首筋あたりにも血が・・・。「でも、救急車、呼ばなきゃ」と、わたしが言ったら、その人は「もう駅の人に呼んでもらってるから・・・大丈夫だから」とのこと。たしかに、遠くでバタバタと動き回っている駅員さんの姿も垣間見えたので、「なら・・・」と、わたしはその場を立ち去りました。遠くで微かに聞こえていた救急車のサイレンの音が、みるみる大きくなってきました。

でも・・・それから家に帰るまで、いえ今も、ずっと考えています・・・救急車が到着するか、駅員さんが戻ってくるまで、おじさんに付き添っていた方が良かったのでは・・・いくら大丈夫だと言われても、あんなに大量の血を流している彼を一人にしたのは間違っていたのでは・・・。

わたしが彼の立場なら立ち去って欲しいと思った・・・と、わたしの心の片側が言います。ほんとに、それはそうで・・・わたしなら、知らない人に手数をかけている自分の状態に、怪我以上のストレスを感じてしまうから・・・。

けど、わたしの心のもう片側は・・・お前は、なんて薄情な人間なんだと、わたしの行動を非難しています。

ふむ・・・どうだろう・・・ほんとうに、あの時、わたしがとるべき行動のベストは何だったろう・・・ふむ・・・ああ、今日は、気持ちよく眠れそうにはありません。

それにしても・・・おじさんの怪我の具合は、どうだったんでしょう。血は、かなり出ていたけど、意識もハッキリしていたし、出血も止まっていたように見えたし、大丈夫とは思うんですが・・・それに、どうして、あんなところで怪我をしたんだろう・・・躓くなどして倒れたのかな・・・。

分からないなぁ~シリーズ(^^;

2010-01-22 22:32:56 | Weblog
年末年始、書くほうのお仕事をサボっていたので、この一週間は、取材に出ては記事を書いて納品、取材に出ては記事を書いて納品を繰り返し、ちょっぴりお疲れです。特に昨日は、小雨の京都を朝から夕方まで歩き続けたので腰が痛くなってしまい、片足を引きずりながら家に帰る破目に。今日もまだ、腰と足が痛いです(^^;。

ところで・・・ネットでは、何かにつけアンケートが花盛りですよね。でも、アンケートって、本来、企業とか政府機関などの為の意識調査というか市場調査というか動向調査のようなものの為になされていたものですよね。一般の人が、それをどうして楽しむのかなぁ~、わたしにはちょっと分かりません(^^;。

そういえば、以前にも、雑誌のランキングのこと「分からないなぁ~」って言ったことありましたね、わたし。いわゆる人気ランキングに対して「どうしてランクをつける必要があるのか分からない」って。その時に言ったことも、今回と同じようなことだったと思います。人気ランキングって、ランキングされる側のタレントさんなどにとっては気になるデータになると思うし、そのタレントさんをCMに起用したり番組等にキャスティングする企業にとっては重要なデータになると思うけど、ファンサイド、視聴者サイドには、まったく意味がない気がするのに、どうして雑誌などで頻繁に企画するんだろうって。だって、好きな人のこと、他の人が好きだと思っていても、嫌いだと思っていても、自分にとっては何の関係もないことですよね。みんなが好きだから私も好きになるとか、みんなが嫌いっていうから私も嫌いになるとか、そういうことじゃないですものね。

けど、雑誌以上に、ネットではアンケートや、それに基づくランキング企画が多いこと多いこと。それって、参加意識が生まれるとか、そういうことなのかなぁ。

もちろん、自分が理解できないことだから必要がないと言いたいわけじゃないんですよ。分からないので、口調は非難がましくなりがちですが・・・自分の感性の欠如とかズレを確認したいだけなんです(^^;。

NPO法人を立ち上げたとき、公的機関のアンケートには出来る限り回答するように義務付けられたという記憶があるんですが・・・たしかに、けっこうアンケートが送られてきて、同じようなことを年に何度も回答して・・・それに関しては、まあ、多少、お金の無駄遣いを懸念しつつも、きっと何かしらの役には立つんだろうとは思っているんですが・・・一般の人がアンケートによるランキング結果を見て楽しむ傾向には、なんだか不思議な気がするのでありました。

関西の皆さん!明日のラッパ屋公演、ぜひ観にいってください!!是非!是非!!

2010-01-19 23:33:22 | Weblog
今夜、ラッパ屋の公演『世界の秘密と田中』を見てきました。すごく面白かったです。今年見たお芝居の中で一番面白かったです。おっと、今年の初観劇が『世界の秘密と田中』だった(爆)。けど、それがマジで、初感激になりました(笑)。

けど、どうやら、チケットの売れ行きがかんばしくないようなのです。こんなに面白いお芝居なのに、関西の皆さん、きっとご存知ないのだと思います。知っていらしたら、絶対に見逃さないはずですもの。

もし、今回の関西での公演が成功しなければ、今後、ラッパ屋さん、関西公演をしてくださらないのじゃないかと思うと、なんとしてでも明日の客席をいっぱいにしなければと焦っています。

藍那は、東京に見に行ってもよいくらい楽しかったと言っていましたが、わたしには東京に行くほどの機動力がないので、できるだけ関西公演をして頂きたいのです。なので、みなさま、明日の夜、お時間がある方は、ぜひぜひサンケイホールブリーゼに行ってくださいませ。絶対に後悔はさせませんから!!

複製を愛好する理由とは?

2010-01-18 17:36:37 | Weblog
明日は、藍那とデートです(^^)。まず、近鉄阿倍野で書道展を見て、それから梅田に戻ってラッパ屋のお芝居を見ます。どちらも、すごく楽しみです(^^)。

ところで・・・肉筆複製画ってありますよね。贋作じゃなくて、著作権が切れた名画などを、ちゃんと技術のある画家さんが模写して販売する複製画。大抵は受注販売のようですが・・・そんな肉質複製画を注文する方って、いったい何を求めていらっしゃるんでしょう。

いえ、非難しているのではないのですよ。正直に言って「分からない」とは思っていますが、だからといって「駄目」だと思っているわけじゃなく・・・そう、「知りたい」と思っています、どうして肉質複製画を好まれるのか、その理由を知りたいって。

勝手に推測する理由としては、オリジナルが好きで好きでたまらないけれど、とうてい手元に置くことなどできないから、せめて肉筆複製画を購入しようと考えたとか。安く買える無名画家のオリジナル作品より、腕のある複製画家が模写した有名画家の名作の方が魅力的だと思えるからとか。特に絵画に拘りがあるわけじゃなく、名作の複製が、見た目の雰囲気も値段もインテリアとして程よいから選んだとか。それ以外に何か理由があるのなら、ぜひぜひ知りたいなぁ~って思うんです。

不穏当な言い方になるかもしれませんが、わたしは犯罪としての贋作の方が、まだ作る側の気持ちも買う側の気持ちも理解できそうな気がするんです。作る側としては、まずお金でしょ。でなきゃ、偉そうな薀蓄を並べるくせに実は何も分かっていない美術界の実力者や、本当は絵に愛などもってはいないくせに愛好家ぶって有名画家の名前に大金を積むコレクターに一泡吹かせ、思いっきり嘲笑ってやりたいとかね。そういう理由なら、ありかなと・・・問題発言ではありますが・・・そう思うのです。

けど・・・複製の愛好に違和感を感じてしまう自分のことを、ちょっと俯瞰して見てみると・・・もしかしたら、不必要なオリジナル絶対主義に囚われていて、超ウザイ奴なのかも、とも思うんですよね(^^;。

それで考えたのは・・・どうして「ものまね」って面白いんだろうってことだったりします。複製画を愛好するのと、ものまねを楽しむのとは、ちょっと感覚が違うかもしれないけど、オリジナルじゃなきゃ価値がないという考えが偏狭なんじゃないかなという問いかけにはなりますものね・・・ふむ。

たとえば、美術品の修復を仕事にしている方たちと、肉筆複製画を製作する人とでは、オリジナル作品に対する向かい合い方って違うんでしょうかね。どちらも、高い技術と、独自の鋭い感性をもった人じゃなきゃ出来ない大変な仕事だとは思うんですが、なのにあえてオリジナルの作品を生み出す仕事ではなく、修復や複製を仕事にしようと思ったのか・・・その理由、是非とも聞かせてもらいたいですよね。

たとえば、役者さんなんかも、ある意味、ものまねであり複製である部分をもった職業だと思うんだけど・・・演じる対象と自分との関係を、どのように捉えてらっしゃるんでしょうかね。

何が何でもオリジナル、オリジナルにしか価値が無い、そう頑なになるのもどうかとは思うのですよ。だって、オリジナルを下敷きに作品や商品が生み出されることを拒否したら、文学だって絵画だって音楽だって、そもそも芸術といわれるものは生まれ得なかったのではないかと思いますしね・・・ふむ。

けれど、やっぱり、なんていうか、ふむ・・・。ああ~・・・やっぱり、わたし、不必要なオリジナル絶対主義に囚われていますかね(^^;。

あっ、そうそう、明日、藍那と観にいく予定の書道展、特別陳列として「幕末維新の書」が展示されているそうですが、有名人の筆って、それこそ腐るほど贋作があるんですって。たしかに、絵画より安易に作れますものね。

ただ、思うんですけど・・・絵画でも書でも、美術館が展示品として購入する場合や、記念館が資料として購入するなら、有名人のオリジナルであることはとても重要な事柄になるとは思いますが、また個人の人でも投機目的なら誰の作品かは重要でしょうが、個人が自分の趣味で何かを買うなら、作者の名前を聞かずに買うか買わないかを決めて欲しいものだと思わずにいられないのですよ。無名の人の作品であっても、それだけの値段で購入したいかどうか・・・欲しいを思うなら買えばいいし、欲しいと思えないなら買わないが良いと思うのです。まず名前ありきでは・・・やっぱり、何かが違うと思うんですよ、違いますかね。

普通の商品でも一緒ですよ。高いから良いって、絶対に違いますよね。高いってことは、希少であるのか、欲しい人の数が多いのか・・・とにかく、高い安いは、そのものの価値ではなく、需要と供給のバランスで決まることですからね。

だから、自分に判断できる基準がないもの、つまり自分が興味をもっていないものに関しては、安いもので十分と思いますし、自分に拘りがあるものなら、自分の基準でその値段が妥当かどうか判断したいですよね。そうすれば、格差が酷すぎる芸術の世界が、もう少し健全に運営されるんじゃないでしょうか。そして、有名作品の複製より、無名の人の作品が売れるようになるんじゃないでしょうかね・・・って、結局、自分の思っている方向へ話を誘導しちゃいましたね、ごめんなさい(^^;。