OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

夢を他人に犯される

2009-08-31 14:58:33 | Weblog
寝不足です。どんなことがあっても、どんな場所ででも寝ることのできる、このわたくしがです。でも、決して、選挙速報&その後の大騒ぎに興奮してのことではありません(爆)。

一度は寝たのです。ベットでちゃんと。でも、途中で目が醒めてしまって・・・それ以降、なかなか眠れなかったのです。

理由は分かっています。夢のせいです。起きる直前に見ていた夢のせいなのです。

怖い夢だったわけではありません。その後、眠れなくなるほど楽しい夢だったのでもありません。悩みこんでしまうほど難しい夢だったわけでもありません。むしろ、奇妙奇天烈なのが当たり前の夢にしては、筋立てのシッカリとした、むしろ平凡な作りの夢でした。ただ・・・なんていうか・・・その空気感に、ものすごく違和感があったのです。

人の夢には、自分の夢ならではの癖があるというか・・・匂いがあるというか色があるというか・・・とにかく、その人ならではのテイストがあると思うのです。が、昨夜の夢には、わたしのそれが臭わなかったんです。夢の世界で行動しながらも、なにか余所余所しい感じが拭えなくて・・・自分の夢が、知らぬ間に他の人の夢に侵食され支配されたような・・・そんな気持ち悪さと居心地の悪さを感じて、目が醒めてしまい、その後、どうしても眠れなかったのです。

けっこう長く生きて、かなりの回数、夢も見てきたつもりですが、この感覚は始めてでした。うっぷ・・・ほんとに、今、思い返しても気持ち悪い・・・。ここで吐き出して、はやく忘れてしまおうっと(^^;。

投票する理由、投票しない理由

2009-08-30 13:09:01 | Weblog
というわけで、改めて、今日の話題です。せっかくですから、選挙および投票のことをお話しましょうか。

われわれが選挙という制度を手に入れたのは、人類の歴史からみれば極々最近のことですよね。特に、庶民であり女子である私が自らの意思を一票に込めて国政に参加できるようになったのは、極々々最近のことです。

でもって、この選挙という制度は、たぶんとても素晴らしいものと言ってよいと、わたしは思います。まだまだ完成形だとまではいえないかもしれませんが、人類が長い時間をかけ、時には血や涙を流し、やっと辿りついた場所だと思っています。

だからこそ、与えられたこの一票は大切にしなくてはいけない。まず自分の為に、そしてわたしの得たこの一票のために血と涙と汗を流した人たちのために、さらにわたしたちの子ども達の未来の為に。

なんですが・・・そんな重い一票だからこそ、この一票をどうしたらいいか、もてあましてしまうというのが、わたしの本心なのです。正直、わたしには重過ぎるんです、この一票が。

投票しない人間を非難する皆さんは、投票しない人間は政治に無関心だと思われているように思うのですが・・・たぶん、無関心ではないけれど、どうしても投票できないでいる人は、けっこう沢山いると思うんです。その人たちの一票を、どうしていくか・・・それを考えていくことも、選挙制度をより完成させていくために大切なことなのではないかと思うんです。小泉劇場的に投票率が上がっても、それでいいのかと・・・たぶん、今回も、小泉劇場と似たような構図だと思うのですが、投票率が高ければ、それでいいのかと・・・そう、あえて問いかけさせていただきたいんですよね。

小泉劇場の時、投票率が高かったのは、野外フェスに参加するのと、さして違わない・・・つまり、多くの人が、選挙のエンターティメント性に惹かれて投票所にいったという要素は大きかったと思うのですが・・・よく言われているように「郵政民営化に賛成か反対か」って二者択一の問いかけが、すごく分かりやすかったというのも大きいと思うんです。

今回も、「郵政民営化」の部分が「政権交代」になった二者択一なので、とても分かりやすく、各人が答えを出しやすい選挙になっています。有識者の人たちや、マスコミは、そう単純に考えずに、マニフェストを読んで吟味して、各党の政策を各部門別に比較検討して、その上で結論を出しましょうと言っていますし、ネットなどでは、自分の考えに一番近い政党を割り出してくれるサイトなどもあるようですが・・・でも、どう考えても、この盛り上がりは、「政権交代を望むか望まないか」の二者択一が分かりやすいからだと思うんですよね。

いえ、決して、二者択一選挙を非難しているんじゃないんですよ。実際、わたしも、二者択一なら迷いながらも答えを出しやすいって思いますから。つまりね、一つ一つの政策に関して、「こうしようと思いますが、いいですか、嫌ですか」って聞いてもらえれば「やって欲しいです」とか「イヤ、やめてください」って言いやすいですけど、賛成の部分もあり反対の部分もあり不明の部分も多数ありの巨大なモヤモヤ・ボールを、どう評価すればいいかってことになると、真摯に向かい合えば向かい合うほど、お手上げだって気分になっちゃうんですよね。だから、一番の目玉になる争点一つで「イエスかノーか」って言われると、ホッとしてしまうんですよね。

で・・・日ごろの対応だとか、マニフェストだとかで、判断材料がある政党の選択だって、それほど難しいのに、個人の政治家となると、どう判断すればいいのか、もっと分からなくなるでしょ。ものすごく重い私の一票を、あの人ではなく、この人に投じる責任を、わたしは背負いきれるのか・・・そんなことを考え始めると、ノイローゼになりそうになります。

今回の選挙について、具体的な意見を、ざっくりと述べるなら・・・今の状況で、自民党に勝たせるのは、どう考えてもマズイだろうと思っています。彼らは、たくさんの失敗を犯しましたから、それに対する責任は、とらせてあげなければなりません。彼らを庇うことは、彼らのためにもならないと、わたしは思います。けれど、なら民主党なのかと考えると・・・・政権交代を望むなら、民主党しかないのが現実なので、「政権交代にYES」なら、民主党を勝たせなければならないと思いますが・・・どうしても、わたしの一票を民主党には入れたくないのです。たぶん、今回の選挙で民主党は圧勝して政権をとるでしょうが、なんとか民主党を増長させないようにしたいとさえ思うくらいなのです(^^;。となると、自民党と民主党以外の政党ということになりますが・・・ああ~。

重く考えすぎなんだとは分かっています。わたしは、票を投じることを、婚姻届を出すくらい重々しく考えているけど、もっと軽く、恋愛くらいに考えると良いのだと思うのです。まずは付き合ってみて、合わなければお別れすればいいと・・・それくらいの感覚で、いろんな人と知り合えばいいと。でもねぇ~、それがなかなか出来ない性格なんですよね。だって、一票を投じるってことは、一時的であれ「由とする」ってことですから・・・それはやっぱり重いことですよ、はい(^^;。

でも、みんながそんなことを言っていたら、選挙制度自体が崩壊しますからね・・・とりあえず、よくは分からなくても、暫定的であっても、一回一回、覚悟をきめて投票しなければならない・・・それが国民の義務なんですが・・・ね・・・。

最初の話に戻りますが・・・選挙制度って、もうこれがマックスの形でしょうかね。もう少し、なんとか改善の余地ってあるんでしょうかね。発想の転換って、出来ないですかね。もっと進化した選挙制度・・・そういう発想があっても、良くはないだろうかと、毎回、選挙の度に思うんですが・・・それって、投票できない自分を正当化して責任転嫁しているだけの意見でしょうかね。

キッチン炎上(^^;

2009-08-30 12:31:22 | Weblog
一昨日、我が家のキッチンでプチ火災が発生しました。前々から、もう限界だと思いつつ酷使していたガスコンロが、ついに「勘弁してくれよ」と、炎上したのです。幸い、燃えたのはコンロだけでしたが・・・ああ~、これから、我が家の食事は、どうして作れば良いのでしょう(爆)。

前にもお話したかと思いますが・・・我が家は、三つの異なるパーツが組み合わされて出来ている家であります。北側の一番古い部分は、昔の民家を移築したもので・・・決して、オシャレな雑誌に紹介されているような立派な古民家ではありませんが、大黒柱や梁などは、昔ながらのドッシリとした木材が使用されており、現在の住宅にはない趣があります。次に古い南サイド部分は、わたしが小学生の頃、我が家が専業農家から兼業農家になり、居住空間より広かった農作業用の納屋や牛小屋部分を、子ども部屋等の居住空間に作り変えたところで・・・特に凝った意匠はないけれど、それなりにシッカリと作られています。そして一番新しいのが、前出の両エリアの中間部分で、わたしの結婚の際に改築したダイニングキッチンとバスルームのエリアなんですが・・・この一番若い部分が、今や最悪の状態になってしまっています。天井からは雨漏り、床には踏むとベコベコするところが数箇所あり、決して安くなかったシステムキッチンは、コンロだけでなく、扉やシンクもガタガタなんであります(涙)。

だものですから・・・燃えたシステムキッチンのコンロを取替えようにも、そこだけってわけにはいかない状況で・・・かなり大規模なリフォームをしなければならなくなること必定。そんな経済的余裕がない我が家としては、このままこのボロヤ屋を労わりつつ、共に暮らしていくしかないと思っているわけです。

それに、頑張ってリフォームしたとしても、また二・三十年で、同じことになると思いますしね。ツキハギの家って、どうしても造りに無理があるんですよ、きっと。となると・・・う~ん、建替えかぁ~、もっと無理な話だわ・・・とほほ(^^;。

とりあえず、子ども達は家を出ていて・・・たぶん、もう、この家に帰ってきて住み暮らすと言うことはないだろうと思うので・・・わたしたち夫婦の代まで、なんとか雨露をしのいでくれればと思います。外からみれば、けっこう豪邸なんですけどね・・・まさに、我が家の資産状況を象徴したような我が家であります(爆)。

というお話を、昨日しようと思っていたら、体調を崩してしまって、早々とベットに倒れこんでしまい、書き込めませんでした(^^;。今朝も、まだ体調は戻ってないんですけど、早朝から「投票に行く!」と言い出した夫に起こされ・・・それから布団の中でボンヤリしていたら、少しは回復したようで・・・これから、別立てで、今日の分の日記を書こうと思います。それでは、引き続き、お付き合いいただければ幸いです、はい(^^)。

人が人を育てるってこと・・・

2009-08-28 13:54:02 | Weblog
なんだかね・・・すごく捻くれていると思うんですけど、今のワタシ、「育てる」って言葉が大嫌いなんですよ。

なんて言いながら、けっこう使ってきたとは思うんですよ。子ども博物館時代なんか、きっと頻繁に使っていたと思うし・・・我が子の成長に関することをコメントする時にも、たぶんイッパイ使っていたと思います。

そうそう、今、思い出しましたが、OBERONの会報に、教育について「作る?育てる?助ける?」ってサブタイトルで何か書いたことがあったですよ。たしか・・・プラトンは教育を染物の仕事になぞらえ、コメニウスは教育を印刷術のようなものだと言ったとか・・・荀子は、人間の本性は教化をうけて矯正され、礼儀を身に付けてはじめて人格が納まると考えていたとか。で、これらは、出来上がりをイメージして、それに向けて人間を成型していく『作る教育』だと。それに対して、ルソーやフレーベルは、人が内にもっている自然の法則に従って自立的に成長するのを妨げないようにするのが教育で、植物を『育てる』のに似ていると言っていたと。中国の思想家でも孟子は、この『育てる教育』派だったようだと。で、ソクラテスはさらに人間の善を信じていて、子ども自身が善く生きようといることを助けるのが教育なのだと言っており、教育とは出産を助ける「助産」のようなものだと表現していたと。そして、孔子の「啓発」という考え方も、ソクラテス同様『助ける教育』なのじゃないかと。

なんだかちょっと、信長・秀吉・家康の「泣かないホトトギス」的ですかね(^^;。

でも、とにかく、当時のわたしは、こんな風に一生懸命「教育とは何ぞや」と考え、「正しい教育の在り方」を見つけようと頑張っていたんですね。でも、今のワタシは・・・ふむ・・・「教育」って発想自体に反発を感じている感じなんですよ。なんだか、盗んだバイクで走り出しそうな意見ですけど(^^;。

頭では分かっているんですよ、教育の重要さ。だから、改まったところで議論しろと言われたら・・・『育てる教育』から入って『助ける教育』ができる社会を目指しましょう的なことを言うと思うんですよ。必要とあれば、心にもないことを本気モードで訴えかけられる、立派に汚い大人ですからね、わたし(^^;。でも、心の中にある、ものすごく素直な感情は「人を育てるだと?お前は自分を何様だと思ってるんだ!神にでもなったつもりか!!」って感じです(^^;。

「幸せにする」ってのも同様なんですが・・・「人が人を育てたり、幸せにしたり、そんなこと出来るわけないだろう」と、それが本音なんですもん。成長することも、幸せになることも、みんな自分自身でしか出来ないことなんだって、もっと、そこを押さえて考えるべきだろうって、そう思わずにいられないんですもん。

とはいっても、自分一人では成長はできないこともよく分かってるし、自分一人で幸せになれないのも承知はしているんで・・・そいうい意味では、周りの人の存在って、ものすごく大きいとは思っているんですが・・・「してもらった」ことに感謝できる人間ではありたいけれど、「してあげる」って発想は持ちたくないと、そこに子どもみたいに無駄な拘りをもってしまうんですよね。なんというか・・・「人を育てる」みたいなことを、平気で声高に言う人間を、どうも尊敬できないと・・・この歳になって、改めてそう思うようになってしまった、第○反抗期の熟女なのであります(爆)。

おめでとう!! のラッシュ

2009-08-27 15:20:05 | Weblog
山猫軒のオープン当初から、会社の先輩方に連れられて、山猫軒を贔屓にしてくださっていたお客さまがいらっしゃいます。その先輩方が退職されたり、ご病気になられたりして、今はお一人になってしまわれましたが、それでも臨時休業ばかりの怠慢珈琲屋を見捨てずにいてくださる奇特なお客様です(^^;。

その彼が、最近、転職することを決心されました。人が転職するのには、いろんな理由、いろんな事情があると思いますが、彼の場合は、たぶん自分の素直な気持ちに従っての決意だと感じられたので、影ながらではありますが、応援させていただいていました。

と・・・実技試験、ペーパー試験に引き続き、面接も合格したとの知らせ・・・それって、実質合格のことだと思うので・・・ほんとにほんとに嬉しいっ!!ここ数日、そのことが気になって、なんとなく落ち着かない日を過ごしていたので、ホッと安心いたしました(^^)。

そういえば・・・子ども博物館のS君の大学受験の発表の時も、彼が電話をくれるまで、落ち着かなくてオロオロしたっけなぁ・・・なんてことを思い出していると、なんと、そのS君から電話が。

「ご無沙汰してます、Sです」
「うん、分かるよ。久しぶり、どうしたん?」
「あの~、実は・・・」
「うん、なに?」
「結婚することにしました」
「えっ、ほんとに?」
「ほんとに」
「で・・・あの彼女?」
「そうです」
「そっかあ~、それはオメデトウ!」

彼には、長く付き合っている彼女が居て・・・その彼女が、ほんとに好い娘さんなので、わたしとしては、二人が一緒になってくれたら安心だなぁって、ずっと思っていたのでした(^^)。いや~、ほんとに、メデタイ!メデタイ!!

S君とであったのは、彼がまた小学生の頃。お母さんに連れられて、初めて子どもは博物館に来た頃は、ほんとに可愛い悪ガキでした(笑)。それが、結婚かぁ~・・・そうか、結婚かぁ~・・・そうかぁ(^^;。

S君は、子どもの頃からヤンチャ坊主で、大人になってもかなり自由な生き方してるし、奥さんになる人は大変だと思うんだけど、彼女なら大丈夫だと思います。今までずっと、何があっても彼の味方でいようと思っていたけど、これからは、まず第一に彼女の味方になろうと思っています。だって、きっとそれが、S君の幸せに繋がると思うから(^^)。

いや~、ほんとに、嬉しい知らせが連続して届いて、今日のワタシは、超はっぴーなのであります。こういう幸せな日もあるんだなぁ~。人生、捨てたもんじゃないなぁ(←大げさ)。

辞書は美しい・・・

2009-08-25 13:55:15 | Weblog
写真、今日の空です。
どうですかね・・・秋の気配、ありますかね。
昨日の夜は、風が冷たくて、窓を開けていると寒いくらいでした。

昨日といえば、うちの地域では、地蔵盆がありました。
田舎では当たり前のこういうイベントも
都会の人には全く馴染みがないようで
地蔵盆って何?という人もいらっしゃいますよね。
ということは・・・
田舎の人間も、あることが「当たり前」とは思わず
意識して伝承していかなくては、いずれは無くなってしまうんでしょうね・・・。

そうそう・・・何事も変化してゆき、消えていくものがあれば、生まれてくるものある、ということでいえば・・・わたしは紙の書籍には、是非とも残っていて欲しいと思うんですよね。

なぜなら・・・紙の書籍というのは、やっぱり“姿かたちが美しい”と、そう思うからなんであります。

たとえば辞書・・・便利という点では、電子辞書やネットでの検索の方が、はるかに便利だとは思うんですが・・・姿かたちの見目麗しさという点では、紙の辞書が群を抜いているというか・・・特に、そのセクシーさに関しては、電子辞書等では比較の対象にもならないでしょ、でしょ。

辞書をバサッと広げ、そしてページをめくっていく・・・そこには、一見、様々な言葉が秩序正しく無機質に並んでいるようにみえるんですが、じっと見つめていると、文字と言葉の世界にジワジワと絡め取られていく恍惚感を味わえるんですよね。

そもそも、紙の上にインクで記された文字には、何ともいえない艶っぽい風情がありますよね。しかも、それがドッシリと質量感のある一冊の本に、ぎっしりと詰まっている。まさに、辞書には、めくるめく官能の宇宙が閉じ込められているんですってば。

とはいっても、便利というところでは、電子系が圧勝・・・なんですよね。ということは、日常に使用するのは電子辞書で、書籍の辞書は酔狂な人が愛でる対象、つまり嗜好品になってしまうんでしょうか。でも、飾っておくだけでは、紙の辞書の魅力は味わえない・・・使い込んでこそ味わえる快楽・・・ふむ、どうしたものか・・・難しい選択でありますねぇ(^^;。

天の配剤、有や無や・・・

2009-08-24 11:30:26 | Weblog
昨夜、何の目的もなく、なんとなくテレビの電源を入れたら、画面に何とも懐かしい雰囲気をもつ室内の風景が。「わたし、この部屋、好きだな・・・」と思って、そのままその番組を見ていると・・・おお~、懐かしくて当たり前でした、その番組は、ヴォーリズの特集だったんです。

母校の建物、たしかヴォーリズのオリジナルは、大学の文学館と理学館と図書館、それに講堂やソールチャペルを含む総務館だけだったと思うんですが、中高学部の学舎も、ヴォーリズ建築の精神や様式をちゃんと受け継いで建てられたたものだったので・・・ヴォーリズ建築が持つ独特の雰囲気は、そこで育った生徒たちにとって、我が家のそれと同じ安らぎを与えてくれるものなんですよね。実際、自宅以外では、一番長く時を過ごした場所だと思いますし。

でも、子どもの頃は、それが特別なことだとも、凄いことだと思っていませんでした。わたしの貧しい記憶の範囲では、先生たちに「学校の校舎は立派な建築物だから大切に使わなくちゃ駄目ですよ」というようなことを、口うるさく言われたこともないですしね。

それを最近になってやっと、「わたしたちは物凄いものを貰っていたんだ」ということに気づきました。あの環境の中で、思春期を過ごせたこと・・・それも、ごくごく自然に過ごさせてもらえたこと・・・それが、如何に素晴らしいことであったか・・・にもかかわらず、それを活かしていない自分に、猛烈に腹立たしさを覚えています。

なので、その番組を見終わって、わたしは台所で片付けものをしていた母のところへ行き、「あの学校に行かせてくれて有難う」と、改めて礼を述べました。すると母は、わたしの唐突な謝辞に驚きもせず、何故か淡々と「親がいくら行かせたくても行けるものじゃないよ」と応えました。なので「それはどういうこと?わたしが一生懸命勉強したからだよって言ってくれているわけ?」と聞くと、「いくら勉強しても行けるものじゃない。縁をもらったから行けたんでしょ」との返答でした。

母が、らしくもない哲学的な言い回しをしたことには驚きましたが・・・そういえば、部長先生も、わたしたちの入学式のときに、同じようなことを仰っていましたっけ。なのに、わたしは、与えられた10年の歳月の中で得たものを、まったく活かしていませんね・・・ほんとに、反省です。いえ、猛省しなくちゃならないです。

と、本日も、ここまでが長い枕です。けれど今回は、枕と本題、いつもほど掛け離れた話でもないんですよ。でも、どうも、思っていることを巧く伝える自信がなくて・・・枕話に逃げがちになっちゃうんですよね(^^;。

枕で話したことは、人、特に子どもたちが育つ際に、環境の果たす役割は大きいということがメインであります。何を習得させるか、何を教えるか、そういうことも大切なのは当たり前のことですが、子ども達がどういう環境の中で時を過ごすかということにも、大人は配慮していかなくてはいけないと思うということであります。

が、それプラス・・・じゃあ、子どもの頃に、とても素晴らしい環境を与えてもらった人間は、そのことを自慢するだけで良いのかと・・・受け取ったものに対する責任はないのかと・・・何かすべきことがあるんじゃないのかと・・・なのに、お前は、何もしようとしていないのじゃないかと・・・そのことをお話したかったわけですが・・・おりしも、時は、国政選挙線真っ最中・・・人の果たすべき役割とか、背負うべき責任とか・・・そういうことにも、少し思いを馳せたいなと・・・。

なんやかやいっても、平和で恵まれた今の日本ですから、正直いって、切迫した危機を感じている人は少ないと思うんですよね。そんな時代の政治家って、思った以上に身の処し方が難しいと思うんですが、投票する立場の国民としても基準が難しいですよね。何をもって優れた政治家といえるのか・・・。

習った範囲の歴史を見ていると、時代が大きく変わるときって、その時に見合った人物が登場しますよね。たとえば、戦国時代から江戸時代への、信長→秀吉→家康の連携は、天の意思とか運命とか摂理といったものを信じていないワタシをして「天の配剤か」と思わせるほど見事であります。結局、天才・傑物といわれた人物たちも、歴史の流れの中では使い捨てではあるわけですが、それぞれ見事なまでに、自分の役割を果たして退場していっていますものね。そういうのを見ると・・・必要なときに、必要な人材が、時代のウネリの中から押し出され担ぎ出されるのかなと・・・そう考えると、今の日本の政治家さんたちの顔ぶれを見るに、まだわが国は真の変革の時を迎えていないのかなと思ったりもするんですよね。

けれど・・・たとえば、北朝鮮を思うとき・・・もう時は十分に満ちているはずなのに、何故、まだ、それらしき人物が現れないんだろうと思うんですよね。かの国は、もう動く時ですよね、どう見ても。わたしたちの見えないところで、着実に動いているのなら良いのですが・・・ふむ。

もっともっと身近なところでも・・・天の配剤セオリーが、まったく感じられないことが多々あるでしょ。この人に、権力なり、財力なり、大きな力をもたせれば、きっと世の中に何かしらプラスの作用が働くだろうと思えるような人が、不遇であったりするでしょ。まっ、そういう場合、往々にして、その人自身に欲が足りないからだったりもするんですけどね。

つまり、世の中を動かすぐらいの力というのは、自身のエゴイスティックな欲との二人三脚で働くものなのかなとも思うので・・・清廉高潔な人というのは、結局は、政治であれ経済であれ、社会の華々しい表舞台には向かない人材なのかも。

それに、清廉高潔な人には、私欲がない分、自分の考えが絶対だと思い込む危なさもありますからね。自分の欲で動く人は、自分の中の醜悪なものの存在を承知していますが、私欲がない人は、自分の中の悪魔に気づかないで暴走する可能性がありますしね。

ふむ・・・やっぱり、支離滅裂になってしまいましたね・・・結局、自分でも、何が言いたいのだか、さっぱり分かりません(^^;。でも、まっ・・・いつだって、静かに情熱的でありたいってことですかね。意味不明ですね(^^;。

逃亡の果て

2009-08-23 12:58:30 | Weblog
たいていの方には、複数の贔屓の役者さんが、いらっしゃると思います。映画やTVドラマ、芝居などをあまりご覧にならない方なら、贔屓の音楽家、贔屓の舞踏家でもいいんですか・・・とにかく、大方の方には、何人かの贔屓のパフォーマーさんがいらっしゃるものだと思うんですが・・・その出会い&付き合い方って、実に様々ですよね。

これが恋愛なら、けっこうパターンが決まってくると思うんです。わたしの場合は、あまりにも恋愛経験が薄いのでサンプルにはなりませんが、経験豊富な皆さんのお話を聞くところによると、失恋しても痛い目にあっても、なかなか恋愛パターンは変わらないって話ですから。

でも、楽しませてくれるパフォーマーさんとの関わりは、擬似恋愛にたとえられたりすることもあるものの、やはり実際は全くの別物なんですね。贔屓の人の数だけ、出会い方と付き合い方があるように思います。

たとえば、出会った瞬間に一目ぼれ、その後も、まったく色褪せることなく、ずっと好きな人。いつの間にか気になる人になり、その後も、時を重ねるごとに気持ちが深まっていく人。燃えるように思いを募らせた後、良い友人関係にも似た、落ち着いた気持ちで応援し続けたい人。そして、ある作品のときだけが特別で、それ以外の作品では、あまりにも残念に感じる人も・・・。

と、前置きが長くなりましたが、話したかったのは、この一番最後のタイプの役者さんのことなんです(^^;。根が捻くれ者なので、役者さんと役柄を混同するするような愛らしいことは出来ない人間ですが・・・それでも「この役の時のこの方は超素敵。なのに、それ以外では、どうしてそこまでツマラナクなっておしまいなのですか・・・(涙)」と思うことがあって・・・ほんとに、それが残念でならないのです。

そりゃあ、そんなこともあるさ・・・くらいで、軽く流せばいいことだとは思いつつも、どうしてそうなっちゃうのかなと考えずにいられないほど、残念でならないのです(^^;。

基本的には、巧い役者さんには、あまりこのパターンはありませんね。役者さんご自身のキャラクターと役柄の相性というのは、どんなに巧い役者さんにでもあると思うんですが、やっぱりどんな役でも、ちゃんと創り込んでおられるからでしょうね。大当たりはそうそうでなくても、ハズレはないんですよね。でも、やっぱり、あまりお上手ではない方の場合は、ハマルorハマラナイの差が激しく出てしまうんでしょうかね。

わたしは個人的に、巧い役者さんより、独特の個性が光る役者さんの方が好きです。っていうか・・・そういう役者さんたちを中心にして、脇を巧い役者さんで固めてもらった作りのモノが好きです。なので、あまりパフォーマーの技術ばかりを問題にしたくはないのですが・・・やっぱり、技術は侮れないってことですかね。もちろん、両方、兼ね備えていてもらえるのが一番なんですけどね・・・。

と、またまた枕が長くなっちゃいました。しかも、前置きが長い枕・・・なので、本題は短くいきましょう・・・って、文章構成力ゼロでありますね・・・スミマセン(^^;。

今日の本題は、タイトルにあるように「逃亡の果て」って話であります。

今、わたしは、自分から逃げて逃げて逃げて・・・なんとか、自分と向かい合わないでいようと、逃げまくっている最中なのであります。

けれど、実は、その逃亡こそが、自分と向かい合う為の、唯一の方法かなと、わたしは思っているのであります。意志が強い方の場合は、もちろん、こんな遠回りをする必要はないはずですが、わたしのような意志薄弱者の場合は、逃げて逃げて逃げ続けて、結局、どこにも逃げ場がないことを思い知って、はじめて正面を向くしかなくなるってことなんですね(^^;。

で、今、わたしは、長い長い逃亡生活の末に、かなり逃げ場所を失いつつあり・・・もう、あと少しで、ドン詰りへ追い詰められるかなと、そう思っています。でも、まだあと少しは、逃げ回れそうですから・・・ああ~、自分の寿命と、逃げ場所がなくなるのと、どっちが先なんだろうという不安もなくはありません。けど、どうなんでしよう・・・もし、一生、逃げ回りつづけて、結局、ちゃんと自分に向き合えなかったとしたら・・・それはそれで幸せなんでしょうか。それとも、取り返しがつかない不幸なことなんでしょうか・・・それすら、ちゃんと分かっていません(^^;。

そうそう・・・ここ数年、ずっと感性の枯渇ってことを話してきましたが・・・これも、前向きに捉えるなら、自分に向き合うために追い詰められているってことかもしれません。わたしにとって、本を読むことは完全に逃げ場所だったし・・・芝居も逃げ場所だったけど・・・それを、盲目的に楽しめなくなったのは・・・そうですねぇ~、前に進めとの啓示と受け取れなくもないですものねぇ~。

ふむ・・・とにかく、まだしばらくは逃げ続けます。しんどいの嫌いですから(爆)。でも・・・いつか・・・どこにも逃げる場所がなくなったら・・・その時は、闘うしかないのかな・・・楽しみなような、恐ろしいような・・・あまり喜ばしい結末は待っていない気はするんですけどね(^^;。

感想・批評の書き方&読み方

2009-08-22 07:43:41 | Weblog
芸能人とかスポーツ選手といった応援してくださるファンの方たちが沢山いる人たちでなくても、多くの人に名を知られている著名人でなくても、少し目立った活動をしていたり、人の関心や興味の高い事柄に関わっていたりする人なら、その名前をネットで検索すれば多少のヒットはあることと思います。

けど、商売上のデータとして必要というようなことでないのなら、自分も含め、大切な人のことは検索しない方がイイよ・・・というのが、わたしの意見です(^^;。

まっ、理由は、皆さんが思われた通り・・・傷つく可能性が少なくないだろうと思うからです。匿名の恐ろしさ、群集心理の恐ろしさを、わざわざ自分から体感しに出かけいてく必要はないと思うわけです。もちろん、そうでない場合もあるはずです。とても嬉しく思えること、有り難く感じられること、誇らしい気持ちになれることや励まされることもあるはずです。たぶんきっと、嫌な思いをするより、その方が量としては多いと思います。けれど、人は百の褒め言葉をもらっても、たった一つの中傷に傷ついてしまう、とてもデリケートな生き物ですから、身近な人のことをネット検索するのは、ハイリスクな行為だと、わたしは思っているのです。

それから、そんなに大げさなことでなく、そもそもネットに公表される個人の意見というのは、「対象者に届くことを想定していない書き方」だと思うので、対象者や関係者は、それに直接関わらないのが良いと、そう思うのです。

同じ一つの対象物に関する意見を表わすにしても、表わす場所によって、書き方は大きく変わってきますよね。たとえば、夏休みの宿題で読書感想文を書く場合と、その本の著者に手紙で感想を届ける場合とでは、けっして同じ書き方にはなりませんよね。

前者も、読まれることを意識してはいますが、読む人は学校の先生、あるいは読書感想文コンクールの審査員ですから、彼らにアピールする文章を心がけるでしょ。けれど、作者本人に気持ちを伝えようと手紙をしたためる場合は、賞賛であるとか、感謝であるとか、感動であるとか・・・より主観的な気持ちを綴ることになるはずですよね。それが、自分個人の読書メモに綴っておくだけなら、もっと書き方は変わってくるでしょう。誰に向けて書くか、誰の為に書くかによって、根本的な内容は変わらなくても、書き方は変わるものですよね。

たとえば、わたしの場合なら・・・面識のない作家さんの作品の感想をネットで公表する場合、目的は(大袈裟ですが)自己表現ってことになります。わたしは、こういうものが好き、こういうものは嫌い、こういうものに感動し、こういうものには「あっ、そう」としか思わない・・・つまり「わたしは、このように感じる人間ですよ」ということの提示をしています。でも、その感想が相手に届くことが分かっている場合は、書き手さんへのメッセージになります。僭越ではありますが、少しでも書き手さんの役に立てるようにと考えます。実際に、役にたてることなんてないとは思いますが、それでも一応は心がけます。だから、相手の人が、打たれ弱い人なのか、ガンガン打たれることによって飛躍していく人なのか、それが分からない場合は、言葉選びにスゴク悩みます。

ネット以前の世界なら、自分の発信が相手に届くか届かないかは、簡単に見極められました。発信者と受信者は、はっきりと居場所が区別されていたからです。けれど、ネットの世界では、その住み分けが曖昧になっているので、本人が見ることを想定していない書き手の自己表現が、本人の目に留まってしまうこともあるという、かなり恐ろしい事態になっているわけです。

だから・・・ネットへの書き込みは、基本は自己表現であっても、そこに登場させている第三者への最低限の配慮は行わないといけないし・・・登場させられた第三者は、偶然にそれを目にしてしまっても、少し引いた視線で見るようにして欲しいなと、そう思うわけです。

そうそう・・・もう随分前ですが、パソコン通信時代、フォーラムの中で、ある雑誌のとある記事について議論していたら、その記事を書いたご本人が、突然その議論に参加してくださったことがあって、大いにヒビリました(爆)。

わたしは、その記事に批判的意見を展開していた側だったのですが・・・ほんと、焦りました(^^;。別に、その方を誹謗中傷していたつもりはなく、本当に思っていたことを主張していただけなので、後ろめたいわけではないのですが・・・本人に届くと分かっていれば選ばない言葉とか表現とか、そういうのがあるわけで・・・かといって急に態度を変えるわけにもいかず、なんともはや気まずかったです。ただ、その記者さんが、とても大人な対応をしてくださったので、最終的には、とても有意義な体験ができたと感謝していますが・・・いゃ~、ほんと、あれには焦りました(^^;。

とはいっても、せっかく自由に自己表現できるネットの世界で、あまりにも四方八方に気を使いすぎた表現というのも面白くないわけで・・・そのあたりの見極めというか、程度の設定というか、そのあたりに、まだまだ迷っているのでありました。

なんだか、書き始めと書き終わりの主題が違う気もしますが・・・まっ、いいでしょ、いつものことです(^^;。ではでは、また明日、お会いしましょう(^^)。

たぶん違う・・・

2009-08-20 18:48:00 | Weblog
たぶん・・・今のワタシの生き方って、間違っているんです。

倫理的に間違っているとか、社会的に間違っているとか・・・規範から外れているってことじゃないんですよ。そういう意味では、むしろ、今のワタシは頑張っていると思う。決して、間違ってはいないと思います。

けれど・・・非常にプライベートな部分で、わたしは生き方を誤っています、たぶん。

とはいっても、今は、それを修正できない。今はまだ、それを修正するべき時ではない。わたしである以前に、果たさなければならない役割があるから。と、それも理解しています。

だから、もう少し、もう少しだけ、頑張ろうと思っています。もう少し頑張って、自分の果たすべき役割をクリアできれば・・・

ただ、そうしているうちに自分を見失いそうで・・・そのことにも、一抹の不安を感じているわけです。完全に見失うことか出来て・・・今の役割の中で生きることができるなら、それも一つの生き方だろうと思いますが・・・それも叶わず、かといって本来の居場所にも辿りつけず、漂流することになるのを恐れています。