OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

神になれなかった女

2018-01-30 07:33:04 | Weblog
今回は、頑張って続けてるじゃないかっ!!と、自分を褒めてやりたいところなのですが、昨日書いたものを見て「なんだ、こいつ」と、我ながら不愉快になってしまいました。でも、そこを乗り越えないと、続けてブログを書くなんて出来ないんですよね・・・頑張ろう・・・何のために?・・・わからないけど・・・

えっと・・・長く続いている漫画とかテレビドラマを見ていると、そこにはもう作り手の思惑を越えた世界が出来つつあるなぁ~って思います。もちろん最初は、作っている人たちが一生懸命考えて作り上げる、その人たちの作品から始まりますが・・・だんだん登場人物たちの個性が安定したものになってきて・・・バックグラウンドや人間関係なんかも、自然な形で張り巡らされていって・・・なんというか現実の世界に近い、リアルな命というか生活というか、そういうものが臭ってくるような気がするんですよね。アンドロイドが究極に進化すれば、本人だって自分が人間なのかロボットなのか分からなくなる的な?それより、モデルルームのように綺麗な新築の家が、人が住み暮らすうちに本当の暮らしの場所たる家になるように。

でね、そういう感じって、やっぱり積み重ねの中でこそ生まれてくるものなんだと思うんですよ。虚構の世界に現実の時間と言うものが加わるからこそ生まれるものじゃないかって。でも、それを比較的短時間に一人で作り上げる人たちがいますよね・・・そう、小説家さんたちです。特に、わたしが頭に浮かべるのは、SFの作家さんたちです。アシモフのファウンデーションとか・・・神です!!今の若い人たちが使っている「マジ、神」という「神」ではなく、創造主という意味での神です、マジで。

自伝的小説だとか恋愛小説を決して否定するものではありません。というか、一般的には、SFよりそういう小説の方が格上とされてますよね。少なくても、わたしが若き日に『SFマガジン』だとか『奇想天外』といったSFの専門誌を買って読んでいた頃には、SF作家さんご自身が、自分たちの作品は文学として認められていないというような認識を持たれていたように思います。星新一さん、小松左京さん、筒井康隆さんたちが、一生懸命、SF小説の地位を押し上げてくださっていたというイメージです。ですから、ファンも、ものすごく一生懸命応援しました。贔屓の作家さんだけではなく、SF界全体を盛り上げたいと、当時のファンは思っていたように思います。

と、話がすいぶん逸れてしまいましたが・・・とにかく、わたしは幼き日にジュール・ベルヌに出会って以来、SF小説の虜になり、その後、上記のSF御三家の作家さんたちを知り、青春時代はどっぷりとSFに浸かって過ごしましたが・・・

SFの何がそんなに魅力的だったかというと、SF小説の作家さんが、自分の頭の中で、独自の世界を、独自の宇宙を、完璧な形で作り上げていることに感動し・・・嫉妬したからでした。ちなみに・・・今まで何度も言ってきましたが、わたしにとって「嫉妬する」は最高の賛辞であります(^^;。わたしも、世界を創造してみたい!!何度も思いましたが、そんなに簡単に出来ることじゃないんですよね・・・ほんとに・・・だから、それが出来る人たちは、ほんとうに凄いと思うんです!!!

今まで、小説家になりたいと思ったことはありません。文章を書くのは得意な方だと思いますし、読書家ではあると思いますが、人を感動させたり楽しませたりする物語を紡ぎだすなんて、わたしには絶対に無理っ!!って思っていますから。けど、自分なりの世界を創造してみたいというのは、ずっとずっと思っているんですよね。これも、絶対に無理って分かっているんですが、それでもできればいいなぁ~って、夢みたいに思い続けています。まあ、思っているだけの奴には、何もできゃしませんけどね。

マルチバースとかありますけど。人の思念の世界でのマルチバース構築・・・わたしも参加したいなぁ~・・・わたし程度の頭脳じゃ、頭と心の方が先に壊れちゃうだろうか・・・わたしの宇宙・・・つくりたいなぁ~・・・・



他人のことを非難がましく思ってしまうこと

2018-01-29 10:02:47 | Weblog
若い頃は、他人に対して非難がましいことばかり思っていました。自分では鋭い批判だと思っていましたが、なんとも独善的で狭い正義でもって他人を捌いていたなと思います。自分だって、卑怯なこと、ズルいこと、小賢しいこと、情けないこと、はっきりルール違反だってことだって山ほどしていたのに、そんなことは完全に棚に上げてね。

でもまあ、おかげさまで長く生きていると、たいして波乱万丈じゃない平々凡々な人生であっても、多少は色んな経験を積むことになり・・・「そうはいっても」な部分を理解しなくちゃという気持ちになってきます。正しくはないかもしれない、美しくはないかもしれないけど、白黒つけないでグレーでおいておいてもいいんじゃないのってことやら、わたしはそうは思わないし、わたしはそうはしないけど、そう考える人、そう行動する人には、その人なりの理由があるんだろうと、認めないにしても距離をおいて許容するみたいなことの幅が広がっていきます。

それでも、もともとの気質が俺様で偏狭なんでしょうね。ふと気づくと、口には出していないけど、心の中では非難がましく思っていること、けっこうあります・・・しかも、ほんとうに些細なことで(^^;。

たとえば、人と話していて、すごく頭のいい人だなって思う人でも・・・いや、だから、なのかもしれませんが・・・相手の話すことを、全部、自分の話したいことの前振りにしてしまう人がいますよね。この人の理解力だったら、相手の人が言いたいことをちゃんと理解できるはずだと思うのに、最初から聞く耳をもっていなくて、自分が話したいこと、結論付けたいことに結びつく部分だけを、さっと切り取って話を奪っていってしまう。その人が頭の回転の速い人だけに、それが無性に腹立たしいというか・・・尊敬できないなって思ってしまいます。でも、よく考えれば、わたしも、どっちかっていうと、そっちの人間なんですけどね・・・頭は良くないですが、人の話をとって自分のこと話すタイプっていうか・・・いや、ほんとに、恥ずかしながら(^^;。

それから・・・自分が出来ることが出来ない人に対して、人は苛立つじゃないですか。なんでこんなことも出来ないんだって。よく、名プレイヤー名コーチにあらずって言って、人が出来ないレベルのことが苦も無くできてしまう人には、出来ない人の気持ちや、どうして出来ないかが理解できないっていいますが・・・そういう人って、案外、さっさと相手を見捨ててしまうことが多いので、いやいや相手をというより教えることを断念してしまうのでと言った方がいいのかな・・・とにかく、意外にお互いの感情が拗れないですむ場合が多いように思うのですが・・・問題は、大変な努力をして何かを獲得した人なんですよね。私は決して恵まれた環境にはいなかったし、特別な才能に恵まれたわけでもなかったが、わたし自身の努力でここまで来たんだっていう人は、出来ない人のことを、出来ないのではなくしないのだ、努力が足りないのだって思うんですよね。だから、必要以上に厳しくなる。相手基準で考えず、常に自分基準で考えるから、相手に合ったアドバイスが出来ない。
でもね・・・ふと思うんですよ・・・前者の天才タイプは、すぐに「そうなんだ、君には出来ないんだ、君は僕とは違うからね」っ納得しちゃうから、摩擦は少なくて済むから、お互いのストレスは少ないかもしれないけど・・・考えてみれば、簡単に可能性が見捨てられちゃっていて、ものすごく残念なことになっているのかも。それに比して後者は、摩擦ギシギシで、お互いにものすごくしんどいけど「わたしに出来たことがあなたに出来ないはずはない」っていう、ものすごい信頼があるってことかもしれないですよね。プレッシャーはキツイけど、それに応えようと努力して得られることは大きいかも・・・。けど、やっぱり、わたしは後者は苦手だな・・・教える立場(出来る側)であっても、教えられる立場(出来ない側)であっても、後者はめちゃくちゃ苦手です。
で、一番厄介なのは、出来ない人が、立場上、出来る人の上にいる場合・・・これはほんとうに厄介。お互い、かなり人間が出来てなきゃ、いい風には回っていきませんよね。

それから・・・わたしが、ことに「なんでそんなこと思うかな(いうかな)」って思ってしまうのは、何か好ましくないことが起こった時、とにかく他人を責める人なんですよね。こればっかりは、自分で言うのもなんですが、わたしはあまり思わないタイプです。大抵のことは、「こういう人ってダメですよね」っていってたら「おいおいアンタだってそうでしょうよ」っていう、天に唾する的発言になってしまうんですが・・・これにかんしては、かなり「わたしは違います」って言える方だと思います。
何でもかんでも「わたしが悪いんです」っていう人も、それが度を越してくればイラッとしますが、何かあると、すぐに人を責める人は、ほんとうに苦手です。それはもう、テレビドラマや映画を見ていてでさえそうです。っていうか、テレビドラマや映画は、ものすごくそういうシーンが多いでしょ。主人公を「あんたのせいだ」って必要以上に罵る場面が、定番のシーンになっていますよね。まあ、それが物語の進行をスムーズにしているのだと思いますが、わたしはとっても不愉快に感じてしまいます。
現実の事件や事故に関しても、よくニュースなどで「責任の所在をはっきりさせろ」って言いますが、責任の所在ってたいてい複合的じゃないですか?相当の悪意を持って故意になされたことでなければ、むしろ、責任の所在なんて、曖昧なのが当たり前なのかも。もちろん、再発防止の為とか、組織の在りようとして責任を負うべきとか、そういうことはあると思うんですが・・・誰かを感情的に責めることって、ほんとうに誰かのためになるものなのかなって思ってしまいます。まあ、責めずにはいられないとか、誰かを責めることでなんとか気力を保てるとか、そういうこともあると思うので、辛い思いをした人が誰かを責めたからといって、それを非難するヤツ(私)もどうかとは思うんですが・・・

えっと、なんの話でしたっけ・・・最近、自分の中にプラスの感情がないので、せめてマイナスの感情ももたないでいたいと思うのですが・・・ふと気が付けば、つらつらとテレビドラマを見ていてでさえ、しょうもない非難がましいことを思っているよなぁ~、わたしは・・・というお話でした。

歴史に"もし"はなし、それ以上に当たり前すぎて問われないこと

2018-01-27 14:24:14 | Weblog
えっと・・・とりあえず、何かしら書いていこうということで・・・かなりおバカなことや、度を越してどうでもいいことでも、恐れず恥ずかしがらず書こうと・・・そういうブログを始めた頃の基本姿勢を思い出して、今日は、超バカバカしい疑問を発表してしまいます(^^;。

いや~、ほんと、人が聞いたら、何言ってんだろうって言われると思うんですが、先日、突然、ふと思っちゃったんですよね。「豊臣秀吉さんって、織田信長さんがいなくても天下をとったろうか」って。

彼って、かなり才能のある人だと思うんですよ。運も強いけど、人の心を掴む術も戦に勝つ能力にも長けていたようだし、権力を得始めてからの権謀術数だとか統治能力だとかもスゴイ。スタート地点は、とてもとても天下を狙える地位じゃなかったけど、彼なら頂点まで上り詰めたのにも納得できるよなって。

でも・・・そんな彼でも、信長っていう超人がある程度までのお膳立てをしてくれていたからこそ天下を取れたのかも・・・そういうこと、歴史の研究者や、歴史好きな人は、どう思っているのかなぁ~。

きっと、個々の皆さんの中で、あまりにも自明のことで、特に言葉にして主張したり語り合ったりすることがないことなのかもしれないけど・・・もし語り合ったら、意外に意見が分かれたりしないのかなぁ~って。

というのもね、先日「美の巨人たち」という番組で、70代半ばで本格的に絵を描き始め、80歳で初めて個展を開き、100歳を超えてもなお絵を描き続けたグランマ・モーゼスの回を見たんです。彼女は貧しい農家に生まれ農夫に嫁ぎ、亡くなるまで農婦として生きた人で・・・その絵も、プロの画家のそれとは根本的に違うんだけど、優しくて暖かくて可愛くて、だからこそアメリカの人たちに愛されたようなんですが・・・そんな彼女が世に出るためには、やはり彼女の絵を認めて引き上げた人がいたからなんですよね。最近で言うと、ピコ太郎さんにとってのジャスティン・ビーバーみたいなことかな、違うか(^^;。とにかく、どんなに素敵な絵を描いていても、それだけでは国民的な画家にはならないわけで・・・

なんていうか、どんなに凄い偉人であっても、その人の周りの環境すべてをひっくるめて、その功績が存在するわけで・・・

ただ・・・売れている芸人さんたちがよく仰る言葉に「それがいつになるかは分からないけれど、面白い奴は必ずいつか売れる」っていうのがあるんだけど、本当だろうかと・・・

もしそれを秀吉に当てはめたら・・・秀吉さんは芸人さんではないけど(^^;・・・信長なんぞというサイコパスが居なくても、秀吉なら別の形できっとのし上がり天下を取ったに違いないのだろうかとかね・・・。いやいや、そういうこととは別に、信長さんと秀吉さんってセットというか・・・どこか二個一感があるようなとか・・・

たとえば、家康さんだと、あまりそういう疑問は湧かないんですよね。もちろん、信長が居て秀吉が居ての徳川幕府って感じがないではないですが、家康さんなら、途中で命を落とさずに生き延びれていれば、徳川幕府を開けたんじゃないかと思わせるものがあるんだけど、秀吉さんの場合には、スゴイ才能の持ち主だけど、やっぱり信長ありきなのかなぁ~とかね。

ちなみに、信長さんは、本能寺がなければ、無事に天下統一ができたろうか・・・やっぱり、あの人の性格、あの人のやり方では、必ずどこかで破たんしたろうか・・・ふむ。

歴史って、後から見たら全て必然っぽく見えたりもするけど・・・局所局所で、あれっていうようなこと、起こってますよね。なんでそうなるのかな、あり得なくない?みたいなこともね。結局は、偶然の積み重ねなのかな・・・それも含めて必然なのかな・・・

そんなことを考えるから、運命論とか、天の意志的な事が、心に入り込む隙を作ってしまうのかも・・・なぁ~。

いや~、話があっちこっちにとびましたが・・・ふと、そんなことを思ったのでした。


シュッと美しく描かれた仏画は有難くない?

2018-01-26 10:06:52 | Weblog
新年早々、長年続けてきたお仕事が一つ終了することが決まりました。もう何年も新しいお仕事を獲得するためのアクションをしていないため、以前からお付き合いのあったクライアントさん、その中でも気心の知れたところからの依頼だけを細々と続けてきましたが、その中の一つが終了することになりました。

仕事と言いつつも、自由に簡単な日常雑感を書くだけのお仕事で、これで報酬をもらうのも申しわけないなと思っていたくらいなので、終ることになんの不満もありませんが、11年も続けてきたお仕事でしたから、さすがに淋しくは感じるかなと思ったのですが、自分でも驚くくらいに、あっけらかんとしています(^^;。

ただ、まあ、これが、こちらの日記をちゃんと再開するのには、いいキッカケなのかなとは思っています。結局、また、ダメかもしれませんが・・・嫌でも応でも日常雑感を書かなければいけなかった場所が無くなるわけですから、そこで出来上がったリズムとか習慣とかを、そのまま絶やさず、こちらに移せれば・・・ふむ。

というわけで、とりあえず、最近、ふと思ったことを一つ書いてみます。

えっと・・・仏画ってあるじゃないですか。仏様を描いた絵、ですね。当然、色んな仏画があるわけですが・・・最近のものでは、とっても端正なお顔、お姿の仏様が描かれたものがありますよね。でもね・・・あまりにもお顔やお姿がシュッと美しいと、漫画というかイラストというか・・・なんだか有難さが減っちゃう気がするんですよね。もちろん、わたしの完全なる私見ですが・・・。

そうそう、仏像にもありますよね。女性に大人気の阿修羅様。阿修羅様も、シュッと美しい仏像で・・・たしかに、すごく魅力的ではありますが・・・なんだか有難さということに関しては、いまいちだと思いませんか(爆)。

なんでかなぁ・・・「仏像とは、仏画とは、こういうものだ」っていう固定観念に縛られてるからかな。けど、仏像であれ仏画であれ、作品としての像や絵の範疇でない何かが感じられなければならないのかなとは思います。それが何によって感じられるのかは、説明できないんですが・・・・。