OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

近頃の若い奴らときたら(爆)

2023-06-29 10:11:20 | Weblog
"近頃の若い奴"批判は、案外、年寄からは出てこない気がする。年を取れば、若者のアレヤコレヤに全く共感できなくても、そのヤンチャぶりや未熟さ、傲慢さすら可愛く感じてしまうもので・・・"近頃の若い奴"批判は、そんな年寄りから見たら十分すぎるほど若い世代から発せられるように思う。

でも、私自身は、どの年齢期でも"近頃の若い奴"的発想はしなかった自負がある。ただし、包容力があったとか老成していたというのではなく、そういう自分でありたいと自己演出して、自分の中からふつふつと沸き起こってきた"近頃の若い奴"批判を小さな泡のうちに押さえ込んでいたからだと思うが(^^;。

そんな私が、どう受け止めるべきがずっと悩んでいる、最近(といっても、もう言われ始めてからずいぶん経つ気もするが)の若者の行動に、"ドラマや映画などの映像創作作品を二倍速や三倍速で鑑賞する"ことがある。

本音を言うと、そうする気持ちは非常によく分かる。けど、自分の中の価値観?道徳観?なんだかよく分からないが、わたしの中の何かが「それだけはしちゃダメだ」と強く私を諫め、どうしても出来なかったのだ。それを、今の若者たちは、いとも軽々と、当たり前のこととして気軽に行っている・・・それが妬ましくもあり羨ましくもあるのかもしれない・・・

でも、最近、ちょっとずつ自分の中の"何か"の箍が緩んできて、飛ばし飛ばし鑑賞ができるようになってきている・・・。さすがに"最初から二倍速三倍速で鑑賞する"ことが自分のスタンダードな鑑賞スタイルになることはないと思うが、その作品にイマイチ入り込めない時には、見飛ばすことも出来るようになってきた。

それはたぶん、本当に好きな作品なら、倍速で見たり見飛ばしたりナガラ鑑賞なんて、しろと言われても出来ないということが、よくよく分かったからだと思う。

以前は、見始めた映画が楽しめなくても、途中で止められなくて、拷問でも受けている気分で最後まで見きっていたものだった。当然、ノーマルのスピードで。小説などもそうで・・自分には合わないと思っても、読み終えないと次の本を手に取れなかった。それは、作品を作った人への敬意と礼儀、それから、最初は理解できなくても途中からドハマりする作品が少なからずあるという経験からなのだが・・・。あっ、そうだ・・・演劇だけは例外で、「キライ」と思ったら、芝居の途中でも席を立ったことがあったっけ。途中で鑑賞を止めても作り手に気付かれることがない映画や小説と違って、作り手の目の前で退席するから、よほど失礼なのだけど・・・だからこそ、それが誠実だと思っていたのかもしれない・・・若き日の私は(^^;。

ちょっと的外れな例えかもしれないが・・・藍那が、歴代のボーイフレンドを三つに分類していた。"お母さんにその存在を伝えない彼""お母さんに色々と話を聞いてほしくなる彼""お母さんに会ってほしい彼"。彼女曰く「お母さんが知らない彼氏なんていっぱいいる」けど、「お母さんが知るべき人のことは、ちゃんと話している」のだそうだ。今一つ、意味がよく分からないが(^^;・・・これを、わたしの創作作品への向かい合い方と置き換えてみれば、なんとなく分かるような気もする・・・たぶん・・・そういうことなんじゃないかな・・・どういうことやねん(爆)。


少しずつ少しずつ朽ちていく・・・

2023-06-15 10:31:57 | Weblog
ずっと傍にいると、あらためて思う機会も少ないが・・・母は、日々、少しずつ少しずつ、出来ることが減っている。非情な言い方になるが、介護する側にとって、それは決して悪いことではない。出来ないことをフォローする作業は、さして苦にならないが、して欲しくないことをし、聞きたくないことを言う、それに付き合い、後始末することに、心が疲れ果ててしまう・・・だから、面倒を起こすことすらできなくなりつつあることを、残酷なわたしは歓迎してしまうのだ。

本人にとってはどうだろう・・・たぶん、本人も、どんどん楽になっていっていると、わたしは勝手に自分の都合の良いように考えている。本人も、そして周りの家族も、一番辛かったのは、身体的にも精神的にも変化が始まり、それがどうしても受け入れがたくて苦悩していた時期だと思う。なんとかしたい、なんとかできるはずだ、どうしてこんなことに、いったい私に何が起こっているのだろう。そして、自分など役立たずだ、家族の迷惑にしかなっていない、死んだ方がましだ、死にたい。どうしてあげようもない要求や、答えようのない質問が、エンドレスの堂々巡りで投げつけられる。その時期が終わると、手はかかるし、ある程度の奇行は続くが、お互いの心を傷つけあうようなことは、格段に減っていく・・・これを有難いと、わたしは感じてしまっている。

けど・・・そんな母に、人としての尊厳があるといえるのだろうか。少なくても、わたしは、今の母のようになりたいとは思えない。だから、三十年後、いや二十年後、もしかしたらもっと近い未来に、自分が今の母のようになってしまったら・・・母の介護が始まって以来、わたしはずっとそのことを考えていた・・・

ただ・・・最近・・・ほんの少しだけ、わたしの心に変化が起きているような気がする・・・

母が、この数年、そしてこの先の年月で、わたしに見せてくれるものは・・・生き物としての朽ち方の一つの形ではないのか・・・

わたしたちは、ついつい、存在の意義を有益性で測ってしまう。それでいくと、生殖能力も失い、働き手として役に立たなくなれば、その存在意味はなくなってしまう。乱暴な言い方をするなら、"用済みだからさっさと消えろ"という存在になってしまう。これは、なんというか・・・動物的考えだと思うのだけど、どうだろう・・・

それに対して、今、母がわたしに見せてくれているのは、なんというか・・・植物的な命の全うの仕方のように見えてくれるのだ・・・

芽を出し、若葉が育ち、ぐんぐん成長して葉を茂らせ、蕾をつけて花を咲かせる、花が終われば種を飛ばし・・・あとは、少しずつ少しずつ朽ちていく・・・少しずつ少しずつ・・・

ガーデニングをしている人なら、この少しずつ少しずつの時間を待たずに、さっさと処理してしまうのだろうけど、自然界だと、見た目には美しくないかもしれないが、少しずつ少しずつ、萎れて枯れて、やがて土にかえっていくのに、それ相応の時間を費やす・・・

母は、動物的な最後ではなく、植物的な最後を歩んでいるのだろうか・・・美しいとは言い難い、有益とも言い難い、それでも、それ相応の時間を費やして、ゆっくりゆっくり朽ちていく・・・のだろうか・・・・・


美味しい匂いはピカ一の刺激

2023-06-14 15:02:05 | Weblog
我が家の、道を挟んだ真向かいに、小規模のアパートがある。どんな人たちが住んでいるのか、まったく知らない。でも、それぞれの個性は、特に注意していなくても、ちょこちょこ垣間見える。ゴミ出しが残念なほどルーズな人、多少寒くても暑くても窓を開け放っている人、スポーツ観戦が好きらしい人(注目の試合の時は、外まで応援する声が聞こえる(^^))。そして、お料理上手な人!!

正しくは、料理が上手なんだろうなと思う人ということになる。だって、その人の作った料理を食べたことなどないのだから。けど、朝早く(早朝六時ごろ)、夫を最寄りの駅に送って戻ってくると、ふと美味しそうな匂いが漂ってくることがよくあるのだ。夕方や、比較的遅い時間に外に出た時にも、時々、匂ってくる。匂いは、なかなか言葉では伝えづらいが、ほんとうに美味しそうな匂いなのだ。煮物らしき匂いの時もあれば、焼き物だろう時もある・・・バリエーションも豊かで、しかもどれもこれも食欲を刺激するいい香りなのだ。

と・・・どんな人なんだろうなと思う。一人暮らしなんだろうか、家族のために作っているんだろうか・・・そも女性だろうか、男性だろうか・・・きっと仕事をしている人だと思うけど、どんな仕事なんだろうな・・・その仕事は楽しいんだろうか・・・だんだん、料理とは何の関係もないことを考えてしまう。

ただし・・・実際は、リアルなその人には、なんの興味もないのだ(爆)。もともと、他者に対する興味が極端に薄いタイプの人間なので、正直、隣に誰が住んでいようが、その人がどんな生い立ちで、今どんな暮らしをしていようが、ほんとうにこれっぼっちも知りたくない。

ただ、"漂ってくる美味そうな匂い"という刺激を得て、空想が広がる・・・ということなわけだ(^^;。

そういう刺激は、日常のあちらこちらにある。電車に乗っていても、待ち合わせでぼんやり立っているときでも、"この人はどういうひとなんだろうな"と想像を膨らまさせてくれる人はたくさんいる。いや、人だけじゃない、物陰からこちらを見ている猫ちゃんだって、そういう"想像のきっかけとなる刺激"をくれるものだ。

けど、"この美味しい匂いはピカ一だな"と、最近は思っている。ほんとうに最高の刺激となってくれるのだ。美味しい匂い・・・これには、食欲だけじゃなく、あらゆる欲求が抗えないのだなと感心する(^^;。