OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

頭で理解することでの納得の限界

2016-09-07 19:09:37 | Weblog
世の中に、数多く興味深いものはあるけれど、"人の心"もその一つです。

ただ、自分の"知りたい"というのが、
心理学とか脳科学のように、客観的に仕組みを知りたいということなのか
共感したいということなのか・・・自分でも分かりません。

以前は、それを分けて考えていなかったのだけれど
今は、その違いは大きいなって思うのです。

もともと、そういうことを分けて考えられなかったから神学とか哲学に惹かれたんだろうな、と思います。
でも、だから、極められなかったのだとも思います。

分かり合えないものを
分からないまま受け入れるって、すごくしんどいこと。
だから、何かしら部分的にでも共感したいと・・・
そういう意味で、今は共感こそが欲しいものなのかなと思い始めています。

たとえば
体や心が、原因不明のままシンドイ時
病名をつけてもらうと、病状が改善されなくても少し楽になるでしょ。

この楽になり方って、共感じゃない法の対処だと思うのですよ。

共感できないけど
そういうものだと、そういう仕組みだと
こちらの気持ちとは関係なく、そうなのだから仕方がないと
そういう受け入れ方、納得の仕方。
対象と距離を保っているからこその受け入れ方・・・理性的で、クール。

でもなぁ~・・・クールじゃないし、カッコ悪いっていうか、動物的で原始的な感じだけど
やっぱり、分かって納得したいって・・・頭じゃなく、気持ちで納得したいと・・・
そう思う、今日この頃なのです。

自分らしくないって思うんですけどね。
共感なんて、ほんと、らしくないと思うんですけどね。

頭で理解することでの納得の限界・・・感じるんですよね。

何かが少しだけ・・・

2016-09-03 14:16:33 | Weblog
この夏、思い切って、写真の整理をした。
藍那が生まれてから27年間の写真。
全てデジタル化し、元の写真は新しいアルバムに整理しなおした。
いっぱいいっぱいの笑顔、どの写真にも笑顔
わたしの知らない家の外での笑顔もいっぱい。

その笑顔に後押しされたのかもしれない・・・
それから、藍那の部屋も、片付けることにした。

京都の部屋から、段ボールに詰めて持ち帰り
ほとんどそのままの状態で、藍那の部屋に積み上げていた荷物を
一個一個荷解きし、洋服はクリーニングに出し、新しく買った洋服ダンスへ
本も、追加して買った書棚に並べ
女子大学時代の教科書やノート、芸大時代の制作ノートも分類して整理した。

バラバラにして壁に立てかけてあったベッドは
組み立てて、ちゃんと布団を敷いた。
当然のごとく、ずぐに、てんちゃんが陣取って寛いでいる。
なんてったって、藍那とてんちゃんのベッドだものね。

藍那の祖母は、片付けられた藍那の部屋を見て
我が家で一番素敵な部屋になったねと言ってくれた。

この作業が、ようやく一段落して
藍那のベッドに腰を掛けて藍那の洋服や本を眺めていると
なんとなく、私の中で、変化していくものがあるような気がしている・・・。

わたしはずっと、自分が許せなかった。
藍那は、ずっと、信じてくれていた
どんなことがあろうと、お母さんは、絶対に藍那を守ると。
藍那のその信頼は、わたしの大きな喜びだったし、母としての誇りでもあった。
なのに、その信頼を裏切ってしまった。
守れないどころか、わたしは藍那に大変なことが起こっていたその時に
そのことを感じることさえできず、呑気にテレビを見て笑っていた。
わたしは、藍那の信頼に値しない母親なのだ。

その気持ちは、今も変わることはない。
ただただ情けない・・・ただただ自分が情けない。

今更、藍那の為に出来ることは何もない。
どうやったって、償えるすべはない。
何かをするのに、「藍那の為に」というのは、自己満足でしかないと思っている。

でも、だからといって、何もしない自分ってどうなんだ・・・
藍那の笑顔と、藍那の部屋が、わたしを少しだけ変えてくれたような気がする。