世の中に、数多く興味深いものはあるけれど、"人の心"もその一つです。
ただ、自分の"知りたい"というのが、
心理学とか脳科学のように、客観的に仕組みを知りたいということなのか
共感したいということなのか・・・自分でも分かりません。
以前は、それを分けて考えていなかったのだけれど
今は、その違いは大きいなって思うのです。
もともと、そういうことを分けて考えられなかったから神学とか哲学に惹かれたんだろうな、と思います。
でも、だから、極められなかったのだとも思います。
分かり合えないものを
分からないまま受け入れるって、すごくしんどいこと。
だから、何かしら部分的にでも共感したいと・・・
そういう意味で、今は共感こそが欲しいものなのかなと思い始めています。
たとえば
体や心が、原因不明のままシンドイ時
病名をつけてもらうと、病状が改善されなくても少し楽になるでしょ。
この楽になり方って、共感じゃない法の対処だと思うのですよ。
共感できないけど
そういうものだと、そういう仕組みだと
こちらの気持ちとは関係なく、そうなのだから仕方がないと
そういう受け入れ方、納得の仕方。
対象と距離を保っているからこその受け入れ方・・・理性的で、クール。
でもなぁ~・・・クールじゃないし、カッコ悪いっていうか、動物的で原始的な感じだけど
やっぱり、分かって納得したいって・・・頭じゃなく、気持ちで納得したいと・・・
そう思う、今日この頃なのです。
自分らしくないって思うんですけどね。
共感なんて、ほんと、らしくないと思うんですけどね。
頭で理解することでの納得の限界・・・感じるんですよね。
ただ、自分の"知りたい"というのが、
心理学とか脳科学のように、客観的に仕組みを知りたいということなのか
共感したいということなのか・・・自分でも分かりません。
以前は、それを分けて考えていなかったのだけれど
今は、その違いは大きいなって思うのです。
もともと、そういうことを分けて考えられなかったから神学とか哲学に惹かれたんだろうな、と思います。
でも、だから、極められなかったのだとも思います。
分かり合えないものを
分からないまま受け入れるって、すごくしんどいこと。
だから、何かしら部分的にでも共感したいと・・・
そういう意味で、今は共感こそが欲しいものなのかなと思い始めています。
たとえば
体や心が、原因不明のままシンドイ時
病名をつけてもらうと、病状が改善されなくても少し楽になるでしょ。
この楽になり方って、共感じゃない法の対処だと思うのですよ。
共感できないけど
そういうものだと、そういう仕組みだと
こちらの気持ちとは関係なく、そうなのだから仕方がないと
そういう受け入れ方、納得の仕方。
対象と距離を保っているからこその受け入れ方・・・理性的で、クール。
でもなぁ~・・・クールじゃないし、カッコ悪いっていうか、動物的で原始的な感じだけど
やっぱり、分かって納得したいって・・・頭じゃなく、気持ちで納得したいと・・・
そう思う、今日この頃なのです。
自分らしくないって思うんですけどね。
共感なんて、ほんと、らしくないと思うんですけどね。
頭で理解することでの納得の限界・・・感じるんですよね。