OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

他人の人生を描けるはずがない・・・のだけれど

2016-11-15 08:23:54 | Weblog
タイトルに猛烈に惹かれて、城山三郎さんの『「粗にして野だが卑ではない」石田禮助の生涯』という本を読んでいます。とはいっても、読み始めたとばかりなので、この本について語れることはないもないのですが・・・意外に読みやすそうなので、読み終わったら読書感想文のブログに感想をアップしますね。毎度、簡単で単純な印象のコメント程度ですが。

そういえば、思春期の頃、自分を表現するのに「陰だが湿ではない」って言っていました。自分では「言い得て妙」と気に入っていたのですが、「粗にして野だが卑ではない」を知ってしまうと、内容の深みはもちろん、表現としても比べ物にならないなぁ~とガックリしてしまいました(^^;。

といいつつ、これから話すことは、伝記否定になってしまうような内容なんですが・・・はい。

この五年、ずっと考え続け気ているていることは・・・藍那の為に何が出来るだろうかということばかりです。心の奥底で「今更してあげられることなど何もない、何をしようと、それは自分自身を慰めることでしかない」と思いつつも、「それでもいいから、何か藍那の為だと思い込めることができないだろうか」と探し続けています。

藍那がしようとし始めていながら出来なかったことを代わりにしてみるとか、藍那が大切に思っていた人たちの活動を支援するとか・・・それこそ、ほんとうに色んなことを考えたのですが、どれもこれも、何か違うなぁ~って思ってしまいます・・・

たとえば「藍那がしたかったこと」、それは藍那がしてこそ意味があるのであって、親とはいえ他人が代わりにやったとしても、なんの「藍那の為」にもなりませんよね。それきっかけで、私自身が新しい楽しみを見つけられたとしたら、それはわたしの為にはなりますが「藍那の為」ではないですから。

「生きた証を残してやりたい」というような表現を見聞きしたことがありますが・・・それはねぇ~、ほんとうによく分かります。そういう心情・・・よく分かります。だから、わたしでも少しは出来そうな「書くことで藍那を表現して残すのはどうか」ということも、本当に真面目に考えました。

けど・・・わたしが表現する藍那は、わたしの藍那でしかない・・・藍那が表現して欲しい藍那ではないかもしれない・・・そもそも藍那自身が、表現されることや、何かの形で残されることを望んでいないかもしれない。

親がいうのもなんですが、藍那は容姿に華のある子でした。だから、彼女が空間芸術や舞台美術に興味があると言った時に、「演者側に興味はないの」と聞いたことがあるのですが、その時は「あまりない」との返事でした。本心かどうかは分かりません。自信がなくてとか恥ずかしくてとか、興味がなくないけど口では否定したという可能性がないではないですが、一応、言葉ではそう言っていました。それをそのまま受け取るとしたら・・・自分が訂正や修正できないところで、他人に自分という人間を語られ、それを世間に曝されることを、彼女は望まないかもしれない・・・だとしたら、わたしが藍那のことを書くことは、「藍那の為」になるどころか、藍那を傷つけることかもしれない。

そうなると、唯一、わたしが藍那の為にできそうなこと「書くことで藍那を表現して残す」いうことも、すべきことではないかもしれません・・・

で、ここで一気に一般論になるのですが・・・そもそも伝記って、どうなのかなぁ~、そう思うようになってしまいました。

自伝なら、そこにワザと語られないことがあろうと、多少の誇張があろうと、他の当事者とは違う認識で表現されていることがあったとしても、本人が自分について書いているのですから、故意に他者を誹謗中傷していないかぎり、なんでもokかと思います。そこは読む方が、本人の自己申告だと心して読めばいいことだと思います。

けれど、本人の日記や手紙などの資料を基にしていても、家族や友人知人に取材したとしても、他人が誰かの人生を描く伝記というのは・・・どう読めばいいのでしょうね。何かに功績のあった人の、その功績の部分に関してなら、客観的事実というのがシッカリあるでしょうから、それを記録するというような文章があるのは悪いことではない・・・というか、第三者にとっても役に立つものにもなり得ると思いますが、プライベートな人生、特に心情の部分を、第三者が語るというのは、どうなんでしょう・・・と思わずにいられません。

良く知らないのですが、歴史の資料などには、一次史料とか二次史料とか資料にランク付けみたいなものがあると聞きました。一概には言えないでしょうけど、一次史料の方が二次史料より信ぴょう性が高いと考えられるでしょうね。それを個人に当てはめるなら、一次史料は本人が書いたものとか音声や映像に残したもの、二次史料が周りの人から聞いたことみたいな感じでしょうか。で、周りの人から聞いたことって、聞いた人は聞いたそのままを伝えてくれたとしても、本人が相手によって違う表現をしていること、ものすごく沢山ありますよね。たとえばボーイフレンドのこと、親には心配かけたり反対されたりしないように優等生的なことだけはなし、友達には多少見栄を張って話を盛ったり・・・どちらも嘘じゃないけど本当でもないみたいなこと、とてもたくさんありますよね。また、本人の書いた日記などであっても、必ずしも本当のことだけが書かれているわけじゃない。希望や願望が混ざってしまったり、思い違いがあったり、自分に都合の悪いことを自分の中で都合良く変形させて思い込んでしまっていたり・・・だから、本人の残したものであっても信用できないことも沢山あるはずです。

そういう意味では、わたしの知っている藍那は、絶対に藍那の全部じゃない。わたしがそう思いたい藍那と、藍那がそう思ってほしい藍那が混ざり合って出来上がったものでしかない。それを形にして残してしまえば、それが藍那の事実のようになってしまって・・・それは、絶対に藍那の為にはならない。

では、藍那を描くのではなく、藍那と接した私を一人称にして、あくまでも私の目に映った藍那として描いたとしたら・・・いや、結局同じことだと思う・・・・

今、唯一、許されるのじゃないかと模索しているのは・・・童話として「しんちゃんシリーズ」に、藍那をイメージした女の子を登場させることで・・・これなら、あくまでもフィクションだし、藍那をそのまま描くのではなく、イメージを反映させるだけだし・・・わたしは書きながら、藍那を感じたり、時には会話なんかも出来たりはしないだろうかと・・・どうかなぁ~、どうだろう・・・

やっぱり、何をしても藍那のためではないんです・・・わたし自身の為、わたしが生きるために、藍那が必要なんです・・・藍那が居てくれないと生きていけないんです・・・と、思います。

私の代わりなんて沢山いる・・・それは不世出の天才だって同じこと

2016-11-10 12:21:10 | Weblog
昨日は、宇宙系の番組が好きでよく見ていると話しましたが
同じくらい歴史系も好きです(^^)。
いや、ドラマも映画も、バラエティーも大好きだから
考えてみれば何でも好きで、テレビを見っぱなしってことになっちゃいますがすが
まあまあそこは深く追求せず、今日は歴史ものの番組もよく見るということでお願いします(^^;。

で、歴史ものの番組を見ていると
多くの場合、何かのカリスマだったり天才だったりをメインに据えて構成されていて
かなりの頻度で「この人が居なければ〇〇は生まれなかった」とか
「この人がいなければ、今の我々の世界も別のものになっていた」なんて言葉を聞くんですよね。

けど、きっとそれは違うと、わたしは根拠なく確信しているんです。

たしかに、歴史番組でメインに取り上げられる人ってスゴイ人ですよ、ただ者じゃない。
だから、不世出な人、稀有な人であることは間違いないと思いますが
その人がいなければ、今に繋がらないということはないと、なぜか確信しているのであります。

もし、その人が日の目を見ることなく亡くなってしまったとしたら
きっと近い将来、別の場所で、その人に変わる人物が、絶対に現れただろうと思うわけです。

いえ、もしかしたら、その人より早い時期に、あるいは同時期に
同様の能力をもった人が生きて活動していたかもしれない・・・
ただそれが目立たなかっただけで・・・と思うわけです。

わたしたちは、天才とかカリスマが大好きですから
どうしても誰かを特別な存在に祭り上げて愛したいという欲望が抑えられないですが

実際、過去との繋がりなく、周りの人たちとの繋がりもなく
突然、降ってわいたように特別な人が現れ出て
他の人には絶対に出来ないことをやってのけて、今の我々にまで恩恵を与えてくれる
なんてこと、あり得ないでしょ。

古い時代の価値観や因習を打ち破っる革命児に見えても天才に見えても
世の中に変革が受け入れられる土壌がジワジワジワっと生まれ育って爆発寸前じゃないと
その人は絶対に受け入れられないですよ。
さらに、その人の言ったこと、しようとしたことを引き継いで世の中に広めてくれる人たちがいなければ、絶対に今には繋がらないですよ。

それはね、その人が素晴らしいから、その人の言ったことやったことが素晴らしいから
受け取り広めてくれる人たちが育ったというよりは
すでに、時代が彼らを用意してくれていたから引き継がれていくわけじゃないですか。

超有名どころを例にとるなら
イエス様だってお釈迦様だって
お弟子さんたちが頑張らなければ
何も残せなかったはずだと思うんですよ。

昔、流行は半歩先をいくものって聞いたことがあります。
一歩先だと受け入れられないってことみたいです・・・俗にいう早すぎたってやつですね。

だから、革命児が革命児として世の名を残すためには
ある程度、世の中が熟してきている必要があるわけで
その人より前に、同じことを考えた人、実行した人たちが何人もいたとしても
その人たちは、ただ忘れられ歴史から消え去っていったはずなのです。
あるいは世に出る機会さえ得られずに終わったかもしれません。

といっても
そういう人たちのことを知ることは出来ません。
でも、きっとそういう人たちがたくさんいただろう。
今もたくさんいるだろう。
そういうことを思うことは出来ると思うのです。

だから、政治の世界でも経済の世界でも芸術の世界でも
時代を大きく変える働きをした功績のある人たちを称えるときには

「この人が居なければ〇〇は生まれなかった」とか
「この人がいなければ、今の我々の世界も別のものになっていた」

というよりは
この人が変革期において、とても大きなものを先頭に立って担ってくれたと
そういう評価の仕方、あるいは感謝の仕方をしたいなと、そう思うのです。

そしてその陰には、世に出ることがなかった、あるいは認められることがなかったけれど
その人に勝るとも劣らない才能をもち、懸命な努力をしたであろう人たちがいたであろうことを想像したいのであります。

また、師匠のようには認められなくても
彼らが居たから、師匠の功績が確固たるものとなりえた部下とかお弟子さんの功績

それをさらに洗練させ成長させ今に繋げていったそれぞれの時代の後継者の人たちの功績

どれもこれも一人の人の手柄にするのではなく
関わったすべての人の存在をしっかりと感じたいじゃありませんか。

それは、たとえば今、わたしが、あるいはあなたが
何かを素敵と思う、由とするということも含まれていると思うのです。

それがなければ、どんなカリスマの功績も、天才の作品も、後世に引き継がれてはいきませんから。

それにしても、ほんと、わたしたちって、特別な人が好きですよね。
スター、カリスマ、天才・・・無理やりにでも創りだしますよね。
いったい、なんなんでしょうね、この心の動き・・・ってね。

人類は今、思春期にあるのか熟年期に突入しているのか

2016-11-09 19:49:10 | Weblog
頑張って書こうっ!!そう決心して書き込んで
気が付いたら、あっという間に二か月が過ぎて
ブログのトップに広告が入っちゃって、アラアラと思っています。

でも、やっぱ、11月はキツイかな・・・寒いしね・・・今日も曇りだしね(^^;。

えっと・・・宇宙のお話、好きだって話はしましたっけ。
もともとSF好きですから、意外ではないことなんですが
NHKのBSで放送しているコズミックフロントとか、欠かさず見ています。

で・・・番組を見ながら、いつも思うんですが
単位がデカくなりすぎると、現実感がなくて、逆に簡単に受け入れちゃいませんか。

ほら、大きな国家的プロジェクトで一億の予算が二億になっても大して何も思わないけど
200円のお惣菜が230円に値上がりしていたら「あらぁ~」って思うみたいな・・・違うか(^^;。

とにかく、宇宙の話になると、距離も時間も桁違いでしょ。
だから、そこにどう自分を置いて考えたらいいか、分からなくなるなぁ~って
いつも思うんでありますよ。

でも、そんな自分と乖離したような宇宙にも始まりがあって、たぶん終わりもあるだろう。
少なくても星には始まりがあって終わりがあり
その分には、規模に違いはあれ、人間と基本スタイルには変わりがない。

とね・・・ちっちゃな規模の自分と大きな規模の宇宙、両方に始まりと終わりがあるなら
その間くらいの規模の人類という存在にも、必ず終わりがあるのかなって思うわけです。
万が一、地球や太陽系の終わりを乗り越えて、宇宙の中で生き残れたとしてね
いっかは終わりが来る・・・宇宙の終わりの前に人類の終わりが来る・・・だろうとね。

なら、その終わり方って、どんななんだろうと思うわけです。
天災的なもので終わる可能性は大きいかもしれないけど
そういうことを上手く回避できたとしても、寿命的なこと、あるのかなと。

誕生して成長して・・・運が良ければ老いて消えていく・・・みたいな。

だとしたら、人類は、一人の人間の人生に例えてどの段階にいるのかなって思いません?
赤ちゃんってことはないと思うから、青年?もしかしたら熟年?
人類は、どうなって一人前なのかな・・・人類の老いの兆候って何なのかな・・・思いません?

これ以上、大きな変化や成長はないのか
もう一皮二皮、脱皮して成長できる余地があるのか
そもそも何を目指せばいいのか・・・

やっぱり、生命としては生き残れるってことが一番重要なのかな・・・
それより大切なものが出来てしまった時点で滅びに向かうのかな・・・

でも、滅びの美学ってものもあるからね・・・
在ることをとことん大切にするか、自らが感じる美を追求するか・・・
個人としてもだけど、人類にとっても永遠のテーマだわねぇ~・・・かな(^^;。