OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

木陰は大切(^^)

2011-06-30 16:13:11 | Weblog
今日は、尼崎と三宮に、取材に行ってきました。地図と睨めっこしないですむ近場での取材は、やっぱり精神的に楽であります(^^)。人間って、やっぱりテリトリー意識のある生き物なんですね、きっと(^^;。

でも、都会での取材は、車で行くと駐車場に困るんですよね。田舎に行くと、たいてい取材先に駐車場があるんですが、都会だと有料の駐車場を探さないといけない・・・そして、そこから取材先まで歩かなきゃいけない。

でもって、都会で歩くって行為は、この暑い時期には、けっこうツライものであります。都会で働く、あるいは都会で暮す人には、日常のことなんでしょうが、田舎者にとって、都会の道を歩くのは、とってもシンドイことなのであります(^^;。

でね・・・都会の道を歩きながら、つくづく思ったことは、木陰があると、とっても嬉しいってことなのであります。日差しがさえぎられているってことだけなら、ビルの陰影だっていいわけですが、何故かビルの陰じゃ、ホッとできないんですよね。ビルの陰より、はるかに貧相でも木陰の方が嬉しいんですよね。まさに、砂漠のオアシスなんですよね、都会の木陰は(^^)。

けど、こういうことって・・・ずっと田舎にいても、ずっと都会にいても、気づけないことなのかなって思います。頭では分かることだから、人に言われれば「そりゃあ、そうでしょう」って思うことではあるんですが・・・実感するっていうか、ほとうに分かる為には、こうして違う環境を両方とも体感してみることしかないんだろうなって、そんなことを思ったのでありました(^^;。

まっこりの人(^^;

2011-06-28 08:11:27 | Weblog
ただいまです。今年の友だち旅行"韓国珍道中"から、昨夜戻ってまいりました。

いや~、すごく楽しかったです、三日間とも、台風接近のため暴風雨でしたけど(爆)。

けど、まじ、ほんとに楽しかったんですよ(^^)。なら、写真はなんで旅行のそれじゃないんだって?だから、三日間とも暴風雨で・・・わたしは、地図確認担当だったので、傘さして地図見てたら、カメラ構える余裕がなかったのです。けど、宗廟を見学した数時間だけ雨が止んだので、その時に、数枚だけ写真を撮りました。それと、詳しい珍道中の様子は、近日中に『旅日記』の方にアップしますです、はい(^^)。

で、タイトルの"まっこりの人""の話ですが・・・

わたしたちが、ソウルの金浦空港につき、出国手続きをしていたら、なんだか後ろがザワついているんですよね。なんだよぉ~と思っていたら、どうやら韓流スターさんの誰かが飛行機に乗り込むらしいと・・・でも、有名人が、こんなにフツーに、わたしたちと同じ場所で出国手続きしないだろうとと疑わしく思っていたら・・・いや、マジで、複数の人に守られた若いサングラスのお兄さんがやってきた。で、出国手続きを済ませて、搭乗ケート前に移動した。当然、そこにいた、若いお姉さんも、かつて若かったお姉さんも、きゃ~~~~~っ!!って、大騒ぎ。でもって、そのお兄さんが、警護の人と、そのお姉さんたちを引き連れて、あっちへこっちへと動き回るので、その都度、人の大移動が起こるんですよね(^^;。

でも、彼が誰だか分からないわたしたち、唯一、韓流スターさんに知識がある友人から名前を教えてもらっても、それが誰か分からない・・・と、友人が「まっこりの人」と教えてくれて、みんな「ほぉ~、あれが、まっこりの人か」と感心したのでした(笑)。

それにしても、まっこりの彼は、空港で、すごく動き回ったのですよ。しかもね・・・人波を避けて避難している私たちを追いかけるように移動するので、その度に、わたしたちは、波に飲まれてもみくちゃなのですよ(^^;。でも、韓流スターさんて、気さくなんですね・・・VIPルームに籠もりっきりとかじゃなくて、免税店覗いたり、本屋に入ったり、一般の人と同じように行動されるんですね・・・ちょっと意外でした(^^)。

でもって、彼は、わたしの珍道中の連れだった友人のうち、関東へ帰る二人と同じ飛行機で、日本へ旅立ちました。その友人たちの情報によると、羽田も大層な人で、彼女たちも沢山のフラッシュを浴びたらしいです(笑)。

ということで・・・ここはネタにさせてもらわなくちゃと思った次第です(^^;。以上。

自然の中で育てたいと言っても・・・

2011-06-24 13:55:40 | Weblog
昨日の『民生・児童委員日記』では、簡単にご報告しましたが、一昨日は、地元の小学校の学校連絡会に出席してきました。

その小学校は、わたしの母校であり、藍那や裕太の母校でもあるわけですが・・・訪ねたのは裕太の卒業式以来だと思います・・・おお~、ずいぶん前のことだ(^^;。

で・・・肝心の連絡会ですが・・・学校からの報告やら、意見交換などをした中で、子どもたちの川遊びのことが、少し話題になりました。

どうやら、学校としては、基本的には川遊びは禁止の方針のようでした。けれど、先生たちも、これだけ自然の多い地域で、自然の中で遊ぶことを禁止するのは如何なものかという思いがおありのようで・・・言葉を選びながらお話されていました。

わたしより年輩の男性委員さんなどは、野山で駆け回って遊んだ世代でいらっしゃるので、「川遊びくらい、どんどんやらせてやればいい。むしろ奨励する」というご意見のようでしたが、他の委員さんが「そうは言っても、何かあったときに責められるのは学校やから、学校としては、どんどんやれとは言えんやろ」と、苦しい立場の学校側の気持ちを代弁してらっしゃいました。

川遊び大好きだった・・・というか、今も大好きらしい自然児(もう児ではないけど)をもつ母の気持ちとしては・・・正直、子どもに川で遊ぶと言われると、怖いんですよね。怖くてたまらない。川や池に出かけた時は、無事に帰ってくるまで気が気じゃなくて・・・できれば「危ないから行くな」と言いたい気持ちは、ものすごくよく分かるのです。

けれど、同時に、出来るだけ山や川や池で遊んで欲しい・・・とも思うのですよ。しかも、子どもだけで遊そぶ体験もして欲しいと、そう思うのですよ。

最近も話しましたが・・・わたしは、この土地に半世紀も棲んでいながら、この土地で生きている魚や鳥のことを、何も知らずに大人になりました。けれど、裕太は、祖父や父に教えられ、魚のことも虫のことも、とってもよく知っています。そして、それをまた友だちに教えたり、友だちに教えられたりしていました。そんな彼の少年時代を、わたしは、とても素晴らしいものだと思っています。

だから、今、小学校に通っている子どもたちにも、裕太たちと同じように、この地域の自然を思う存分楽しんで欲しいと思うのですが・・・裕太が、何も無く無事に育ったのは奇跡のようだとも思う気持ちもあり・・・安易に、薦めてよいものか悩むところでもあるわけです。

でも、やっぱり・・・衛生的でなくても、多少の危険があっても・・・自然の中で、自由に遊ぶことから得るものって、大きいし多いと思うんですよね。それもまた、必要な教育だと思うんですよね。

けど、そのためには、自然の中での遊び方を心得ている先輩の存在が不可欠なのかもしれません。それは、祖父母や親であってもいいし、先生や地元のおじちゃんおばちゃんでもいいし、上級生でもいいのですが・・・そういう人たちから学ばないと、やっぱり自然は危険が多すぎる環境なのかもしれませんね・・・。

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東電は被災者じゃないの?

2011-06-23 12:17:16 | Weblog
また、物議を醸し出すタイトルかな(^^;。別に、そんな突っ込んだ話じゃないんですけどね。

実は、これは、うちの馬鹿ボン・裕太の言葉なんです。普通なら、もう社会人としてシッカリ働いていないといけない年齢の彼なんですが・・・いつもお話しているように、わたしに対しては、未だに幼い顔で接します。だから、話す言葉も内容も、かなり幼くて、お恥ずかしい限りなんですが・・・でも、まっ、だから考えさせられることもあったりするということで、今回はご勘弁願いたいと思います(^^;。

『なぁ~、なんで東電は、あんなに責められてんの?東電も、被災者とちゃうの?』

彼が、こう言ったのは、ちょっと前のことだったんですが・・・その時も、東電へのバッシングは、大いに盛んだったわけですが・・・彼には、そういう周りの風潮が理解できなかったようです。

一応、わたしとしては「被災者には違いないけど、彼らには、個人や、普通の民間の会社とは違う、公的責任があるからね。仕方なかったんです、わたしたちも被災者なんですとは言えない立場なんやろうねぇ~」と、言いました。

すると彼は「でも、今回の地震と津波は、予想をはるかに越えるものやったんやろ。せやから、原発以外のとこでも、すごい被害が出てるんやろ。なら、東電としても仕方が無かったんちゃうん?」って、言いました。

なので「原子力発電という、万が一の場合には、大変な被害をもたらすものを扱って、大金を稼いでいる会社には、予想外でしたという言いわけが許されないんやろうね。それに、被災後の対応に関しても、適切じゃなかったと思われてるんでしょ」と、言いました。

すると彼は「ほんとうに、東電の対応は適切じゃなかったん?精一杯やってはいるけど、巧くいかないんじゃないの?そういうこと、あるやんか」と言うので

また、もとに戻って「東電は、個人や普通の企業とは違うから、精一杯頑張るだけでは不十分なんやろうね」って答えました。

こういう会話を、彼は、まったく興奮せずにしました。東電に対しての怒りがないだけじゃなく、東電を批判している人にも怒っているわけじゃなく・・・ただ、今の状況が理解できないと思っているようでした。まったくもって、子どもですよね。

けどね・・・彼に、この疑問を投げかけられて、わたし、思ったんです。わたしたちは、どれだけのことを理解した上で、東電を責めているのかなって。何も分からないまま、でも、一番責めやすい対象だし、誰かを責めなきゃ収まらないから、わぁ~っと責めているだけなんじゃないかって。

もちろん、原子力発電推進にまつわる電力会社の責任とか、既得権益を守るためになした国民にとって不利益をもたらす電力会社の行為とか、震災後の不手際とか・・・そういうことを、ちゃんと調べて理解した上で、東電に大きな罪ありと責任追求している方もいらっしゃるでしょうが・・・正直、わたしなんかは、何がどうなんだか、本当のところは何も分からないけど、責める相手は国と東電しかないし・・・国や東電を責めている限り、わたしが世間から非難される心配はないし・・・風潮に乗っかってるだけですからね。

もちろん、東電が悪いどうのこうのとは別に・・・原発がらみの被害に関しては、東電と国で、出来る限りの補償はして欲しいと思うし・・・今の状況を考えると、原発のリスクは大きすぎるから、脱原発の方向に進むのはやむなしかなと思ってはいますが・・・裕太が言うように、東電を感情的に罵るのは、被災者でない身としては、慎もうと思いました。

わたしなんぞは、ついつい小賢しくなりがちなんですよね・・・何かと、分かった風な口をききたがる傾向が強い。けど、その情報は、どこから仕入れたんだって言われると、ネットの記事だけだったりする。その記事が、どれだけ信憑性があるのか・・・一度だって自分で検証したことなんか無いけど・・・それが世の中の大勢を占めていることだし、たぶん正解だろうと・・・あるいは、その記事の内容が、自分の気持ちにそぐうものだから、それが正解だということにしておきたいという心理が働いている場合も多いです。

けど・・・裕太みたいに、素直に分からないことを分からないと思い、どうしてそうなるのかなと疑問に感じることが大切かなって・・・そんなことを考えさせられたのでした(^^;。


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具体案を思いつかなきゃ、どうしようもないんだ・・・

2011-06-21 19:49:49 | Weblog
昨日、"もったいない"って、どうやら"本来あるべき姿を失っている"というような意味らしいねって話しましたが・・・人的資源に関しても、わたしたちって、かなり"もったいない"状況ですよね。

今、非難ごうごうの"ゆとり教育"って、教育する側の準備が全く出来ていなかっただけで、考え方としては悪くないと、今でも、わたしは思っているんですが・・・"ゆとり教育"で育てて欲しかった"個性"ってもの・・・育てる以上に、それを活かすのが難しいんですよね。

もし、社会で、それが必要とされているなら、わざわざ"個性化教育"なんて銘打って頑張らなくても、あたりまえにそれが求められ、育てられただろうけど、学校を卒業した後の世界で、それが活かされないのが周知の事実であるなら、もっと使えるものを身に付けたい、身につけさせたいという方向になるのはあたりまえのことですよね。

本来、個性って、他を疎外するものではないはずなんですが・・・ちゃんと育てられずに未熟なまま社会に出た個性は、他を受け入れる余裕がないから、自分以外を攻撃したり、自分の殻に閉じこもったり、協調性を失ってしまう。また、そういうケースを、多々目の当たりにしているから、社会は、個性自体を面倒くさいものと押しのけてしまう。そして、自力で這い上がってきた個性だけを、天才だカリスマだと祭り上げて帳尻合わせする。

そんな悪循環が、ずっと続いているのかなって思います・・・

なんて話をしたのは・・・超高齢社会を迎えている私達の社会で、高齢者をお荷物にしてしまったら、みんなでヘタってしまうしかないと思うんですよね。また、高齢者の立場から考えても、長生きしてもちっとも楽しくないと思うんですよね。

となれば、高齢者個々の知識や経験、そういうものも含みこんだ個性を活かせる社会の仕組みが欲しいって思うわけですけど、どうすればいいのか、まったく見当もつかなくって・・・

また、高齢者に限らず、わたしたちそれぞれが、自分の活かすべき個性ってものを、よく分かっていないような気もするし・・・

そもそも、どうも"個性"っていう言葉が、異常に立派なもののように扱われたり、かと思うと我が侭だとか自己中心的であることの同義語のように毛嫌いされたりと・・・それこそ、本来あるべき姿を失っている"もったいない"使われ方をしているんですよね。

それに、なんだか"個性"といったら、他の人と違っていなきゃいけないみたいにも思われているようですが・・・"個性"って相対的に捉えられるものじゃないでしょ。どれだけ多くの人と同じであっても、それがその人のもっている本来の姿であるなら、それこそがその人の誇るべき"個性"だし・・・そういうものが、活かされない"もったいない"状態だと、一人ひとりが心から幸せって感じられる世界は作れませんよね。

けど・・・みんな個性をもって生まれてきているのに、その個性が活かされない・・・どこかで社会の求める個性(需要)と、個々人がそれぞれに提供できる個性(供給)のバランスが崩れていて、多くの人は自分の個性を押し殺して求められる個性を提供しなきゃ社会が回っていかない・・・のだとしたら・・・それは、何かが間違っているってことの証明なんじゃないでしょうか。

なんだか、考えながら書いていたら、話があっちへいったり、こっちへいったり・・・けど、とにかくね、理想論だと言われようと、みんなが生きていることが楽しいと思えるような社会のためには、個々の人が自然体でいても、ちゃんと社会に貢献できるようでなくちゃならないと思うわけです。

自分が自分らしくいることが、自分が所属している集団にとって何かしらプラスに作用している実感をもてるような・・・そういう超高齢社会へ向かうために・・・いま、わたしは、何をするべきなのかなぁ・・・ほんと、そういう実践が出来ない・・・ばか者なんだよなぁ~・・・まったく。

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ものを大切にすることが贅沢となる世の中なんだよなぁ~

2011-06-20 10:18:45 | Weblog
昨日の音声日記で、もごもごと話したのですが・・・"もったいない"って、いったいどういうことを意味しているんでしょうね。

世俗にまみれた身としては、なんとなく"お金を必要以上に使うこと"のような認識になっていたのですけど・・・なんか違うなぁ~っていうか・・・違わなかったとしても、じゃあ"必要"ってなんなんだろうとかね・・・そういうことを、考え込んでしまったのです。

考える入り口としては、いろいろあると思うんですが、昨日、音声日記で取り上げたのは、金継でした。そう、割れたり欠けたりした陶器などを漆でくっつけて、その繫ぎ目を金で装飾する、あの金継。

これって、道具をとても大切にしていて、まさしく"もったいない"精神だと思うのですが、かかる費用は、新しいものを買うより高かったりしますよね。金を使うから費用がかかる、だから贅沢・・・ということもあると思いますが、金を使わなくても、職人さんの手間賃を考えたら、きっと新品を購入するほうが安くつくと思うんですよね。つまりは、ものを大切にしているようでいて、結局は金継の方が"もったいない"ことをしているんじゃないかと・・・そうも言えるわけですよね。

実際、経済的にギリギリの生活をしている人が、金継なんてできませんよね。結局、裕福な人だけが、一品物の骨董なんかに施すものってことになるわけで・・・モノを大切にしていることに間違いは無いけれど、同時に贅沢をしていることにもなっちゃいますよね。

いやいや、それは金継なんて特殊な技術を取り上げるから、そんなヤヤコシイことになってしまうんだと・・・もっとシンプルに、壊れたら捨てる、破れたら買い換えるではなく、修理修繕して使えるものは使うと考えれば、それは決して贅沢ではないのだよ、と言われそうですが・・・骨董などではなく、電化製品や車などでも、修理するより新しいのを買った方がお得ですよってことは、ありすぎるほどありますよね。

それにね・・・経済の活性化の為には、とにもかくにも消費だって、そう言われるでしょ。豊かに暮らすためには、買って捨てて、また買って捨てて・・・とにかく、どんどんと消費していかなくちゃ駄目だって。震災の復興のためにも消費だって。

そういわれると、たしかになぁ~とは思うんですよ。石原都知事が夢見ているように、かつて東京オリンピックが起爆剤になって起こった経済の躍進をもう一度・・・なんてことも、分からなくはないんですよ。けどね・・・そんな、ねずみ回し車みたいな頑張り方・・・わたしたち、いつまで続けなきゃ駄目なんでしょう。回し車を降りたら、わたしたち、ほんとうに貧しく不幸せになっちゃうんでしょうか。

と、遅ればせながら"もったいない"を辞書でひいてみたら・・・なんか「本来あるべき姿を失っている」みたいなことらしいんですよね。決して、湯水のように無駄なお金を使うことじゃなかったです、はい(爆)。

けど・・・弁解するわけじゃないですが・・・モノの本来あるべき姿を失わせる原因となるものって、お金に対する欲をはじめ、権力欲だったり名誉欲だったり、怠惰な気持ちであったりですよね。

いや・・・お金は大切ですよ。それに、わたしの場合、楽な生活とか、ちょっとした贅沢で得られる快感なんかも、捨てがたいと思っているような人間ですから、今の暮らしを捨てて清貧の中に本来の幸せを求めるなんて、絶対に出来ないですよ。

けどね・・・なんていうか・・・モノを大切にすることが、かえって贅沢なことになってしまっているのは、ちょっと変かなって・・・そう思うのですよ。モノに愛着をもち、そのモノと生活を共にして得る何かって・・・たぶん、失うと惜しいものだと思うのですよ。

大量に生産して大量に消費する豊かさと、ものを大切にして得る豊かさ・・・両方とも欲しいというのは、無理な望みなんでしょうかね・・・。


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鳥たちの動向・・・

2011-06-19 13:28:41 | Weblog
なんだかね・・・家の周りで見かける鳥の種類が増えたなぁ~って、思っていたんです。で・・・それだけ、わたしの環境に対する注意力が増したということなんだろうなぁ~・・・わたしって偉いなぁ~って、そう思っていたんです(^^;。

よくお話ししていますが・・・わたし、生まれてこの方、一度も、この地を離れたことがありません。もう半世紀も、同じ場所に住み暮しています。けれど、裕太が彼の祖父や父(つまり、わたしの父や夫(^^;)に連れられて、近くの川や池で魚獲りをするようになるまで、自分の生活範囲に、これほど多種多様な魚たちが居ることを、全く知らずに生きてきました。

事実、そこ居るものであっても、自分が興味を持たなければ、わたしにとっては居ないも同然・・・っていうか、実際、多くの魚たちのことを、まったくその存在を認識しないまま、何十年も暮してきた・・・ということに、ある時、突然、気付かされた経験があるものですから・・・今度も、要するに、そういうことだろうなと、そう思ったわけです。

今までは、わたしの関心が薄かったから、その存在に気付けなかったけれど、最近は、少しは自分の生活圏の鳥類に興味を持ち始めたから、いろんな種類の鳥の姿が見えてきたんだろうと。

けどね・・・今朝、夫が言ったんです「最近、鳥の種類が増えたな」って。だから、わたしは得意げに彼に教えてあげました、「わたしもそう思っていたけど、それは、わたしたちの鳥にたいする注意力が増したからなのよ、きっと」って。すると、夫は「俺は、前から興味を持ってみていた。その上で、種類が増えたように感じてる」って言うんです。あらら・・・ぺシャン(^^;。

そうねぇ~・・・たしかに、彼は、動植物全般に関して、わたしより造詣が深い・・・わたしの無関心だから理論は、彼には当てはまらないよなぁ(^^;。

「じゃあ、ほんとうに増えてるってこと?」と、わたしは、ちょっとばかり突っかかるように言い返しました。すると彼は「たぶんな。もっと奥で暮していた鳥たちが、住処を失って出てきたのかもしれない」と言いました。それを聞いて、わたしはなんだかとっても悲しくなりました・・・。

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親が知らぬ間に子どもは育つ・・・んだなぁ~(^^;

2011-06-18 17:03:52 | Weblog
藍那の通う大学の先生の中に、講義(ワークショップ)の様子を、サイトにUPしてくださっている方がいるのです。となれば、親バカは、必須チェックでありますよねぇ~。

いい歳をした娘に対して、恥ずかしいなぁ~とは思いつつ・・・まるで、我が子が通う幼稚園が配信する動画を食い入るように見ている保護者さんたちみたいになってます。

もちろん、幼稚園児のママさんたちのように、泣かずにいるかしらとか、お友だちと仲良くできているかしらとか、そういう心配をしているわけじゃありませんけど・・・こんなのを作ったんだとか、こんな発言をしたんだとか、親の知らないところで、娘がどのように過ごしているのかを垣間見られて、とっても嬉しいのであります(^^)。

とね・・・いや~・・・意外にねぇ~・・・しかっりしたこと、言ったりしてるようなんですよ・・・うちの我が侭娘が(^^;。

たぶん、会話は少なくない母娘だと思うのですよ、わたしと藍那って。だから、わたしとしては、かなり彼女のことは把握しているつもりだったんですが・・・いや~、思った以上に、いろんなこと考えて、いろんなこと分かってて、それをちゃんと言葉で表現できているんだなぁ~って・・・ちょっと感動しました(^^)。

わたしの認識では、藍那にしても裕太にしても、どこか歳のわりに幼いところがあると思っていたんですが・・・なんだか、失礼しましたって感じです(^^;。

裕太も、つねづね言うんですよね・・・「お母さんの、まったく知らない俺がいる」って。そうなんだろうなぁ~、親には見せない顔が、子どもにはあるんだろうな。しかも、彼らはもう、子どもとはいえない歳だし・・・親が知らない大人の顔ってものも持っているんだろうな(爆)。

それと・・・たぶん・・・彼らは、親としてのワタシを立ててくれているんだろうな。だから、わたしと会話するときは、まず、わたしの意見を聞いてくれる。だから、わたしが、いつまでも親面して、「うちの子は、いつまでたっても幼い」なんて言ってられるんだろうなぁ~。

と・・・知らぬ間の娘の成長が、嬉しくもあり、淋しくもあり・・・なのでした(^^)。

無駄な時間・・・

2011-06-17 14:21:10 | Weblog
無駄な時間なんて無い・・・ポジティブに生きている人や、人に道を説くような仕事をしている人は、きっとそう仰るだろうな。

たとえ何も生産的なことをしていない時間であっても、そこには何か意味があるとか・・・それは、あなたの人生の中で必要な時間なのだとか・・・今の時間を、無駄にするか無駄にしないかは、これからの生き方しだいなのだ・・・とか(^^;。

けど・・・どうしようもなく、あるよね・・・無駄だと感じられる時間が(爆)。でもって・・・そう、その「感じる」ってことが問題なんだよな・・・「感じてしまう」ってことがね。

だから、まっ、前出の立派な皆さんが、仰っていることは正しいということにもなる・・・つまり、実際の時間を何をして過ごしているかということより・・・その時間を、自分自身がどう感じているかってことが問題ってことだもんね。

パスカル大先生の「考える葦」だって、超平たく言っちゃえば、そういうことでしょ?違うかな(^^;。

デカルト大先生が「我思うに我あり」と仰ったことも、超くだけて受け止めれば、そういうことでしょ?違うかな(^^;。

とにかくね・・・なんだって自分次第なのですよ・・・それは分かってる・・・でも、だからって、どうしようもない・・・そういう時もあるってことですよ・・・くっそぉ~っ!!

なんてことを、お前が言うなって話なんですけどね・・・人には、ポジティブシンキング、めっちゃ薦めてますからね。でも、まっ、人間なんて、そんなものですよ(←サイテー!!)。

でも、まっ、一晩寝れば、また、蘇るさ・・・俺さまなワタシが!!(←それもサイテー!!)。



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鳩の目には・・・猫の目には・・・

2011-06-15 07:01:26 | Weblog
車で道を走っていて、どいてくれなくて困るのが、鳩と猫かなぁ~。

鳩は、とにかく動作が遅い。そこまで車が来ているのに、暢気にぽっぽっぽっと歩いてる。こちらが遠慮して速度を緩め近づいていって、それでももう駄目だぞってくらい接近してから、どっこいしょって感じで、鷹揚に飛んでいくんですよね。

で、思うんです・・・彼らの眼に、車って、どんな風に映っているのかなって。動くから、生き物っていう認識なんでしょうか。でかくて大層うごきの速い生き物。でも、それだったら、もっと警戒しても良さそうなものですよね。じゃあ、落ちてくる石とか岩とかみたいな物体として認識しているのかな。いや、彼らは、自分たちがどかなきゃ、車が速度を落とすって分かっているようだから・・・そういう駆け引きができる相手だと認識しているに違いないとも思えるんですよね。けど・・・鳩に、そんなに複雑な思考回路があるんでしょうか・・・ふむ(^^;。

猫は、車の前に飛び出してきて、正面でピタッとと止まって動かないという、いちばん厄介な反応をする生き物なんですよね。イタチなんかも飛び出してきますが、彼らは走り抜けてくれるんで、まだ対処しやすいんですが、猫って、どうして静止して、こちらを睨み付けて、そのまま動こうとしないんですかね。

威嚇しているのか、おびえて動けないのか、相手を見極めようと集中しているのか・・・とにかく、正面で、こちらをじっと見たまま動かなくなる猫は、少なくないです。まっ・・・しばらく睨み合いの時を過ごせば、そのうち動き出して去っていってくれますが・・・もし、こちにが急停車できていなければ、最悪の事態になるわけで・・・できれば、飛び出さない・・・飛び出しても走り抜けて欲しいと、そう思うのであります。

で・・・この猫たちの場合は、車を、何者と思っているんですかね。人間が動かしていく道具だ機械だって認識してるんですかね。それとも、車という生き物だと思っているんでしょうか。それとも、人間が動かしているとは分かっていないけど、動く物体だと思っているんでしょうか。猫は、人間と生活を共にしている生き物だから、かなり人間のやっていること、人間の身の回りのものに対する認識度は高いと思うんですが・・・彼らが、動くものを、命あるものと、命ないものに、分類しているかどうか、とっても興味があるのであります。

だからどうだって話じゃないんですけどね(^^;。