OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

目から繋がる心

2006-10-01 16:22:25 | Weblog
朝、仏壇に炊きたてのご飯を供え、線香を焚き、チンして手を合わせているとき、ふと思った・・・なんで、写真を飾っちゃ駄目なんだろうって。

我が家は、父が長男ではないので、先祖代々守ってきた仏壇とか墓はない。けれど、いろいろと事情があって、父の母を父が祀っている。わたしが生まれる前に亡くなった父の母・・・だから祖母の仏壇は、わたしより先に、我が家に住まいしていた。

わたしが子どもの頃、この仏壇には祖母の写真が飾ってあった。だから、わたしは、かろうじて祖母の顔を知っている。仏壇の前に座って手を合わせるとき、わたしは、写真で見た祖母の顔を思い浮かべつつ「まんまんさん、あん」をしている。

が、ある時、両親が「仏壇に写真を飾るのは間違っている」と誰かに言われたらしく、突然仏壇から祖母写真が消えた。ずいぶん前のことだったから、藍那や裕太は、きっとその写真を見たことがないはずだ。つまり、彼らは、曾祖母の顔を知らないわけだ。

となると、彼らが我が家のお墓や仏壇に手を合わせるとき、いったい何に向かってお祈りしているのだろう。漠然と「墓」とか「仏壇」という物に、あるいはイメージに対して・・・なのだろうか。だとしたら・・・ふうむ。

仏壇に「あん」の話をしつつ何だが・・・わたしが人格形成期の十年間に通っていた学校は、プロテスタント系のミッションスクールだった。つまり、偶像崇拝を否定している人たちの運営する学校で教育をうけた。なので、特に意識することはないけれど、なんとなく偶像崇拝は好ましくないと思っているところが、わたしにはある。という意味では、漠然としたイメージだとか、具体的な造形物ではなくアクマデモ象徴的な物に向かって祈るというのは、決して変だとは思わない、というより、それが好ましいと思う土壌があるはずなのだけど・・・先祖を祀るということになると、やっぱり、出来るだけ個々の人物を思い浮かべられるようにした方がいいような気がするのだ。

だって・・・誰かを思う時、やっぱり「顔」って大切だもん。顔を知らない人のことを想うのと、その人の顔を思い浮かべながら想うのと、距離感が違うっていうか・・・強さや深さや重さが、まったく違う気がする。

たとえば、それは、亡くなった先祖を供養するみたいなことじゃなくて・・・ボランティアで、遠くの国の子どもたちの養い親になるみたいな時だって、同じじゃないだろうか。漠然と「貧しくて学校に行けない子どもの学費を寄付しましょう」ではなく「○○ちゃんの学費を負担しましょう」の方が、お金にコモル想いが違ってこないだろうか。

相手を想うとき、顔を思い浮かべられるか、名前を呼べるか・・・そういうことって、繋がっていく上で影響のあることだと思う。つまり・・・視覚って、心と深く連携していると思う。実際の目で見る視覚でなくても、心で見ることが出来れば、それはもちろんそれでいいけれど・・・とにかく、「見る」ってことは、人が何かと繋がる上で、とっても重要だと思う・・・と、仏壇の前で、そんなことを思ったのでした(^^;。


注 ☆  ちなみに、プロテスタントでなくても、キリスト教は本来、偶像崇拝否定です。イエスさん、偶像崇拝は駄目だと、神殿で大暴れしたことがあったと思います(爆)。けど、長い歴史の中で、偶像的なものは、どうしたって生まれてくるわけで・・・それと結びついた諸々の腐敗的要素を否定するプロテスタント活動というのがキリスト教の中で起こって・・・結果、カトリック教会だと、よく見られるようなマリア像なんかが、プロテスタント教会にはないと・・・そういう意味で、プロテスタントは、キリスト教の中でも、より偶像崇拝否定が強いかなと、そう私は理解しています。