OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

無間地獄じゃぁ~(涙)

2018-03-29 11:26:14 | Weblog
今までにも何度かお話していることですが・・・

子どもの頃から仙人に憧れ、そこそこ大きくなっても「いずれは山に籠って一人で瞑想にふけりたい」と真面目に思っていました。ですが二十歳も過ぎ、もうすぐ学生ではいられない年頃になったころからは、さすがに現実社会との折り合いが必要だと分かってきたんでしょうね(^^;・・・漠然と何か人の役に立つようなことが出来なければいけないと思うようになっていました。でも、卒業を前に就職活動はしたものの、結局どこにも雇ってもらえず、認められた組織の一員として役割を果たす道が見えなくなり・・・そのうち結婚もし子どもも生まれて、立派な社会人になるというよりは、わたしなりの社会への貢献というのを考えざるを得なくなり・・・30歳を前に自分で小さな組織を立ち上げ、それ以来、あれやこれやと形になりそうでならない活動を続けてきました。

つまり、わたしの中には、わたしが本来の自分だと思う仙人に憧れる少女の部分と、社会の一員として何かしらの役割を果たすべきだと思う常識的な大人の部分が共存しており、二十代後半頃からはずっと後者が優勢に活動していたと思うのです。けれど、藍那のことがあり、わたしは一気に少女のころに戻っていきました。

それでも、真剣に引きこもりたいと思いつつも、引きこもり切れないんですよね、どうも・・・。頑張ってきた数十年で、結局なにも成しえなかったという、罪悪感とも敗北感ともつかぬ感情が、わたしにとって理想であるべき隠遁生活を良しとしてくれないんですよね・・・ふむ。

そんな悶々とした気持ちで過ごす毎日なんですが・・・先日、NHKで『神の数式』の再放送を見ていて・・・ああ~、これが本当の理想形だなぁ~って気づきました。ちなみに『神の数式』は既観ですが、何度も見ないと理解できないので、再放送は有難いんですよね(^^;。見る度に、少しずつ、ほんとうにほんの少しずつですが理解を深めることができます・・・といいつつ、まだ表層も表層、うわっつらさえ理解しきれていませんが(涙)。

『神の数式』で取り上げられている理論物理学者さんたちって・・・思索の世界に没頭しながら、その結果が社会への貢献に繋がっている・・・わたしが、どうしても一致させられないでいる相反する二つの自分、二つの世界が見事に一致しているんですよね。これだっ!!って、今更ながら思いました、これだこれなんだ、わたしが求めていたものはっ!!って。

でも・・・残念ながら、わたしには理論物理学の世界で生きられる知力がない・・・ああ、なんという・・・残念を通り越して絶望ですよ、もう・・・

でもね・・・前にもお話したと思うのですが・・・科学の世界でいう「宇宙は何故生まれたのか」の"何故"は、わたしにとってはWhyではなくHowなんですよね。5W1Hでいうなら、WhatやWhenやWhereも含めてHowを知ろうとしているけれど、Whoも含めたWhyは、科学では問われていない。宇宙の成り立ちにWhoやWhyは必要ない、だからWhoやWhyを問わなくていいということならそれはそれでいいのですが、それならその根拠もしっかりと示して欲しいのですが、そのことについて何か説明されているものを、わたしは未だ見たことも聞いたこともないんですよね。

わたしは、理論物理学者の追い求めておられることにものすごく興味はあるけど、それが知りたいのは、その先のWhyが何より知りたいわけで・・・だから、無意識に、大学で組織神学を専攻したんだと、今になって妙に納得しているわけです。

ただ、神学だけじゃ違うんですよね、やっぱり。理論物理学的アプローチは不可欠なんですよね。ふう~・・・。

でも、何にしても、圧倒的に、わたしの頭脳は、この問題に取り組むのに知力が足りない・・・何故だ、何故なんだ・・・

とはいっても、無いものねだりをしていても何の解決にもなりません。ここでどんなに嘆いても、わたしの頭が良くなるわけじゃないですものね。自分にあるものを使って何が出来るのか・・・それを考えるしかないわけですよね・・・

ああ・・・また同じところにハマってしまいました・・・堂々巡りしては、同じ穴にハマる・・・まさに無間地獄です。とはいえ、少しずつ少しずつ、問題点はクリアになってきていると思いたいですね。人生は螺旋というでしょ・・・同じことの繰り返しのようでいて、同じところには二度と戻ってはいないってね・・・それを信じましょう(^^;。

けど、生きているうちに、何かに辿り着けるのかな・・・はぁ~・・・

六十歳以上の新人発掘企画があってもいいのでは

2018-03-24 17:05:07 | Weblog
ぼんやりテレビを見ていて、WOWOWの新人シナリオ大賞の作品募集が目に止まりました。もう随分前から、こういうコンテストに限らず、どんな職種であっても求人系の記事を見ると、無意識に年齢を確認してしまうのですが、WOWOWの新人シナリオ大賞の応募資格は「年齢満40歳以下」でした。ほぉ~。

ずっとずっと前、パン屋さんだったかのレジに並んでいて、レジ脇にアルバイト募集のチラシが貼ってあって、その年齢制限が50歳以下だったか45歳以下だったか、とにかく当時のわたしの年齢より下で・・・まったく応募したい気持ちがなかったにもかかわらず、なんだかとっても切なかった話をしたことがあるかもしれません。ふむ。

それから少し前に、求人の応募条件に「年配の人は固定観念に囚われているので若い人を希望します」とあったけど、そういっている人が「年配の人は固定観念に囚われている」という固定観念に囚われているよねって話を、ここだったか別のブログだったかで話したと思います。はい。

で、何が言いたいかというと・・・ある程度の年になると、人に雇ってもらうのが難しいってことであります。まったく職種や条件を選ばなければ何かあると思うんですが、多少なりともえり好みしたいと思うと、極狭き門になってしまうのであります。

けどね・・・シナリオの作家募集とかで若い人限定にする必要あるのかな・・・これは、すごくすごく疑問であります。

企業の正社員募集の場合なら、「しっかり育てていきますので、長く勤めてほしいと思います」ということで、若い人限定ってことになるのは大いに理解できますが、終身雇用するわけでもない「優れた作品」の募集に、年齢ってどう関係しているんでしょうかね。新しい才能に世に出る機会を与えたいということなら、プロは除外ってことでいいんじゃないでしょうかね、そう思いませんか。

少し前に、「長生きするのが幸せじゃないような超高齢化社会はどうなんだ」って話もしましたが、それにも関連して思うんですよ・・・むしろ、定年後くらいからの年齢の人にこそ、脚本を書いたり小説を書いたり、文筆活動をして欲しいなって。文筆に限らず、いわゆる表現活動全般・・・それも趣味としてではなく、仕事として世の中に打って出るような形で、創作活動をして欲しいって思うんです。

年を重ねた人だからこそ表現できること、ものすごく沢山ありますよ、絶対。それに、仕事が忙しくて出来なかっただけで、やれば技術的にも出来るという人、いっぱいいらっしゃると思いますよ、絶対。しかも自宅メインで仕事ができるから、体の負担とかも会社勤めより軽減されて、高齢者向きでしょ。だから、世の中も、そういう人たちに機会を与える方向に向かってほしいです。そうすべきですっ!!

ずっとずっと前、有名なコピーライターさんが、まだものすごく若いにもかかわらず、「もう年だからコピーは書けない」って仰ったのを何かで読んだような記憶があるんですが・・・たしかにそういうこともあると思います。でも、だとしたら、逆もまた真なりじゃないですか・・・若いと書けないものもあるはず。だったら、若い人には若い人でなきゃ書けないものを書いてもらい、年を重ねたものには年を重ねたものにしか書けないものを買いてもらえる、そんな体制づくり、しましょうよ!!

数十年前の60歳と、今の60歳・・・良くも悪くもずいぶん違うと思います。テレビでアニメ見て、インスタントラーメン食べて育った世代が、そろそろもう60歳ですからね。かなり面白い感性の年寄りだって、どんどん増えていきますよっ!!ってか、今の70歳、80歳代の諸先輩方の中にも、逸材はいっぱいいらっしゃるはずですっ!!これからの新人年寄りでは伝えられないことも、その方たちに何らかの形にして残しておいて頂きたいです。

だから、年配者を対象にした、創作の分野での新人発掘の企画を、各分野、各社、どんどん出してくださいよ!!絶対損はさせません!!って、わたしは何の根拠もなく、自信たっぷりに、そう言い放ちます!!

いつもとはちがう街の顔

2018-03-21 13:33:05 | Weblog
昨夜、車で夫を最寄りの駅までむかえに行く途中、ゾクッと違和感に襲われ、思わず身震いしてしまいました。村中の道から国道に出て、しばらく走っているのに、一台も車に出会わないのです。わたしの前を走る車も、わたしの後からくる車も、対向車も・・・見える範囲に一台も車がない状態が、国道を走っている間中、続いたのです。日頃から、交通量は決して少なくない道なので、これはほんとうに奇妙なことだったのです。
駅で夫を出迎え、一緒に家に向かった時には、もういつも通りの風景でしたが・・・ほんとうに、なんとも不思議な・・・というかなんとも不穏な、心ざわつかせる景色だったのです。

この感覚は、きっと悪いことではないですよね。なんというのか・・・そう、人間の自己防衛機能が働いた、そういうことではないでしょうか、ね。痛みを感じるということもそういう役割を担っていると聞いたことがありますが・・・不安というのは、危機に対して備えをせよという信号なんですよね。

つまり・・・危機というのは「いつもと違う」「普通じゃない」という形で現れることが少なくないと、わたしたちは経験的に知っているわけです。だから、まだ何も悪いことは起こっていないように見えるけど、この何かいつもと違う状況は、すでに何かが起こった証拠、もしくは起こることの予兆ではないのかと、わたしたちは不安を感じるわけです。

でも・・・「いつもとちがう」とか「普通じゃない」ってことなんか山ほどあるし、それにいちいち本気で不安を感じてたら身が持たないし・・・それに「いつもとちがう」「普通じゃない」ことの中には、良い変化を示すものもあれば、面白いことがそこにあるってことだったりもするわけです。

じゃあ「いつもとちがう」「普通じゃない」ことに、どう対応していくのがいいんでしょうかね・・・

そうそう、随分前に、年下の編集者さんから段取りについて、「普通は○○しますよね」と、わたしが○○しなかったことを厳しく叱責されて驚いた話をしましたが、最近、似たような話を聞きました。当然すべきことをしていないという理由で非難された話なんですが・・・当然すべきことの基準についての認識が異なっているわけです、非難した側とされた側では。

わたしが思うに、わたしを叱った編集者さんの場合、その会社一筋だったんだと思うんですよね。で、言葉の選択にしても段取りにしても、その人自身が厳しく先輩から『常識』を教え込まれたんじゃないかと思うんです。だから、その人にとって「普通」は一つしかない。まあ、だから「普通」って言ったんだと思いますが・・・彼女が教えられたルールが唯一の正しいルールになったんだと思います。けど、わたしたちのようにフリーで仕事をしていたら、普通って無いに等しいです。会社によって独自のルールがありますから、その都度、その会社のルールに合わせていくしかないわけです。外注に慣れた人なら「うちはこういうやり方ですから」って必要最小限のことは最初に指示してくれますし、会社によってはマニュアルみたいなものが用意されていて、それを渡されて「これでお願いします」って言われるのでやりやすいですが・・・前出の編集者さんのように、自分が従ってきたルールが唯一無二のもので、そんなことは「言わなくても分かって当たり前」と思っている人とお仕事する時には、何度か叱られる覚悟が必要です(^^;。

でね・・・自分や先日愚痴を聞いた相手の人を擁護するわけじゃありませんが・・・色んな人が寄り集まって仕事をしたり作業をしたりする場合は、自分が今まで従ってきたルール、自分が当たり前と思ってきたこと、それが唯一のものではないかもしれないという意識はもっていて欲しいなと思うのです。「こういうルールでいきましょう」と言ってもらえれば、それに従うこともやぶさかではないので、まずはお互いの共通認識を作っておいてから仕事をしましょうよと(^^;。

で、自分の知っていることだけで世界が作られているわけじゃないということが、自分の中で当たり前になるには、やっぱり色んな経験をするってことしかないと思います。色んな会社で働くとか、色んな業種を経験するとか、いろんな国で暮らしてみるとか・・・なかなかそういうことは難しいですから、せめて自分とは違う環境にある人、違う経験をした人の話を聞くだけでもいいので・・・自分の当たり前が、いかに狭い範囲の当たり前であるかを肝に銘じたいものだと思うのであります。

で、最初に戻りますが・・・いつもとは違う町の風景、そこに何か違和感を感じ、不安に思うって、当然の心の動きだと思うのですが・・・町の風景にも色んな顔があるってこと・・・わたしは知らなすぎるのではないかと思った・・・ということなのでありました(^^;。

痛みそのものより囚われることが苦痛

2018-03-19 13:14:52 | Weblog
我が家の梅が満開です。この間、蕾が膨らみかけていたのだけど・・・あっという間にですね。一昨日は、京都に行ってきました。土曜日の午後だったので、とんでもなく混んでいるかと思いましたが、桜がまだのようで・・・恐怖の人混みには巻き込まれませんでした(^^;。その翌日、つまり昨日ですが、新名神の全線開通の日で・・・もう数日待って、新名神で京都に行くというのもありだったのですが・・・新名神では重大事故が続いたので、なんだかすぐには利用しがたく・・・まあ、いずれ、と思っています。昨日の開通時間あたりには、ヘリコプターが五月蠅くて・・・あれは空からの取材ですかね、それとも記録のためですかね・・・ほんと、ヘリコプターのあの音は、不穏を感じさせるので苦手です。

ところで・・・いきなり話は飛びますが・・・子どもの頃から頭痛持ちです。小学校に上がる前からだったらしく、親戚の者たちに「こんな幼い子が頭痛だなんて絶対に変だ!」と、何故か母が責められて、あちこちの病院で検査したり、針治療をしたり・・・それでも一切治る気配なく、この年まで一緒に頭痛さんと暮らしてきました。

ずっと市販の鎮痛剤がおやつ代わりで・・・それも効いているのか効いていないのか(飲んでも痛みが消えるわけではないけど、多少は緩和されているのかも、というような意味です)・・・それが、偏頭痛の特効薬が出来て・・・今は、もっぱらその薬との二人三脚です。

とはいっても、偏頭痛の特効薬も万能なわけじゃなく・・・痛みの気配を感じた時に飲めば、なんとか抑えられる場合もあれば、何錠のんでものたうたずにはいられない時もあり・・・痛みの気配と服用のタイミング、飲んだ後は効き具合に神経をとがらせてしまう毎日です。薬のいらない日と薬を飲んだ日を比べれば、圧倒的に飲む日の方が多く・・・ごくたまに一週間も飲まずに過ごせたりしたら、最高に有難い気分になります。

でも思うんですよね・・・痛みはもちろん辛いんですが・・・その痛みよりも嫌だなって思うのは、いつもいつも頭痛のことを気にしていることなんですよね。ちょっと痛みの気配がしたら、もう薬を飲んだ方がいいかしら、もう少し様子を見た方がいいかしら・・・数日痛みがなければ、いつまた痛くなるかしら、今日かしら明日かしら、もしかしてら数時間後にはもう・・・なんて、いつもいつも頭痛のことを気にしている、そのことが何とも・・・ねぇ。

対象がはっきりしている恐怖より、対象が漠然としている不安の方が、人の心を蝕むっていいますが・・・それと多少似ているかもしれません。すでに痛みがあれば、成功するかどうか別にして、一心不乱にそれを消すための努力をするだけなんですが・・・痛みがない時でも、その影におびえ続けている自分に何よりイラついてしまいます。ふんっ!!もっと豪胆になれよっ!!って思います(^^;。

愛おしさの理由

2018-03-10 17:57:22 | Weblog
今日も、我が家の末っ子"はる坊"は、食べて遊んで寝て、満足げに過ごしています。そしてそれは、わたしにとっても何よりも嬉しいことであります(^^)。もう立派な大人のはずなのに、末っ子のせいでしょうか、赤ちゃんっぽさが残ったままで・・・それがまた何とも愛しいのであります。

けれど・・・わたしのこの子への愛情の源は・・・きっと自分の中のエゴそのものだと思うのですよね・・・

我が家のニャンコたちは、うちの家族それぞれにとって、特別な意味をもつ存在です。ただ可愛いペット、迎え入れた家族ということだけでなく・・・諦めきれない思いを託させてもらっている拠り所でもあるわけです。

けれど、はるは少し違います。わたしにとって彼女は、"わたしが取り上げた子""わたしが助けた命"・・・そう、何より"わたしが"な存在なのです。だからわたしは、この子がたまらなく愛おしい・・・きっとそうなのだと思うのです。

"わたしが取り上げた子""わたしが助けた命"というのは、おそらく言い過ぎではないと思います。たぶん彼女の母親にとって初めてのお産で・・・はるの兄弟姉妹たちは、みな助かりませんでした。ほとんどの子が未熟児であったことが一番の原因ですが、母親が産み落とした子の羊膜を破いてやれなかったというのも原因の一つで、はるに関しては、ようやくそれに気づいたわたしが羊膜を破いて彼女を取り出したことで、彼女はこの世に生まれ出ることが出来たのです。

"わたしが"いなければ、この子は此処には存ない・・・このことの意味は、はるにとってより、わたしにとってあまりにも大きい・・・わたしの心は、このことによって、どれだけ軽くなっていることでしょう・・・

だからこそ、はるちゃんの誕生、はるちゃんの命、はるちゃんの存在に感謝しつつ・・・なんて、わたしの愛は卑しいのだ、と思うわけです。お前は"わたしが"じゃなければ愛を感じられないのかと、情けなく思うのであります。

もちろん"わたしが"の愛があってもいいとは思います。けれど"わたしが"とか"わたしの"の愛しかない人間では、いかにも貧し過ぎるではないですか。じゃあ"わたしが"とか"わたしの"ではない愛の源って、いったい何なんでしょう。"わたしが"とか"わたしの"を押し広げていったものなのか・・・それともまったく別の種類のものなんでしょうか・・・持ち合わせた愛の薄いわたしには、それが実感として理解できないのであります・・・ああ、情けなし。

ただ静かにじっと待つ・・・

2018-03-03 14:13:11 | Weblog
我が家の庭や、家の周りの畑に、たくさんの鳥さんがやってきます。ほんとうに色んな色、色んな大きさの鳥さんたちが、たくさんやってきます。

裕太が幼い頃、近くの川で淡水魚をとってきて飼育した時に、こんなにも沢山の種類の魚たちが、私たちと一緒に、この地域に住んでいたのかと、そのことにまったく気づかず暮らしてきた自分に驚きましたが・・・

鳥さんに関しても同じですね・・・こんなにも多種多様な鳥さんが、この地域にいたなんて、まったく知りませんでした・・・

となると、写真なんかも撮りたくなるんですが、難しいですね、鳥の写真はっ!! 一緒に暮らしている猫の写真だって難しいのに、野生の鳥となると、まったくわたしの手にはあまります。

鳥の写真をとるためには、カメラのグレードとか撮影のテクニックとかだけじゃなく、きっと忍耐力ってものが何より必要なんだろうなって思います。観察を続けて鳥がやってくる場所を知り、ポイントを決定したら、そこで動かずじっと鳥がやってくるのを待つ・・・見つめ続ける、待ち続ける・・・静の活動を維持するのって、思いのほか大変ですよね・・・はぁ~。

でも、ひょっとしたら、今のわたしに必要なのはこれなのかな・・・と思ったりします。座禅くんだり写経したりってことより、こういうことなのかなって・・・。


『男たちの挽歌 2018』って(^^;

2018-03-02 18:03:34 | Weblog
3月9日金曜日から開催される第13回大阪アジアン映画祭の上映作品リストに『男たちの挽歌 2018(A Better Tomorrow 2018 [英雄本色2018])』がありました。おいおい、そんな映画、撮られていたのか!! 監督は丁晟(
ディン・シェン)で、王凱(ワン・カイ)が主演ってことだけど、周潤發(チョウ・ユンファ)の役ってことかな?わたし的には主演は張國榮(レスリー・チャン)だけど、客観的に見れば内容から考えて狄龍(ティ・ロン)だよね。でも、一般的には發仔の映画ってことになってる気がするので・・・やっぱり、王凱が演じるのはマークかな。

最近の役者さんのこと、ほとんど分からなくなってしまっていますが、王凱は、久しぶりにハマったドラマ『琅邪榜(ろうやぼう)』で靖王を演じてらしたので、かろうじてお顔を認識できます(^^;。おなじみの林雪(ラム・シュー)
も出ているらしいので・・・これはちょっと見てみたいかな。

とはいえ、映画祭に行くことはないと思うので、DVDかBLが出るまで待ちましょうか。それまでに、オリジナル『男たちの挽歌』見直しましょうかね。一時、見られなくなりましたが、今はまた、テレビ放送されていたら必ず録画して見てしまいます。DVD持ってるんだから、録画して見る必要ないのに・・・ファンの性でしょうかね(^^;。それにしても、CSで放送されるときの吹き替え、わたしは好きじゃないなぁ~・・・これもファンの悪い面がでちゃってますかね。

なんだか久しぶりに挽歌のこと話しました・・・わたしの第二の青春の幕開けになった作品ですからね・・・ひじょ~うに特別なんですよね(^^)。

映画公式サイト:http://chopflix.com/a-better-tomorrow-english/#theatres

第13回大阪アジアン映画祭公式サイト:http://www.oaff.jp/2018/ja/index.html