OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

"義憤"って、何者なりや、だよなぁ~

2019-12-27 08:59:58 | Weblog
義憤ってありますよね。漢字で見ると、やたらとカッコいい。義によって憤るってことでしょ。義侠心溢れる人って感じですものね。

ただ・・・当事者や苦しむ当事者を近くで見ている親しい人たちじゃなく、その出来事に全く関係ない人が、義のみで憤るって・・・すごくステキなような、ちよっと恐ろしいような・・・なんだか心が、ちょっともわもわ、ざわざわします。

よく言われる、ネットなんかの炎上のことを言ってるんじゃないですよ。それら一つ一つの発言に真摯に向き合って、ちゃんと読み解いた上で言っているわけじゃなく、わたしもまたイメージだけで言い放っちゃいますけど、あれは義憤じゃないでしょ。それは、ご本人たちも承知の上だと思うので、こう言い放っても、文句は出ないんじゃないかと思いますが、ね(^^;。

そういうのじゃなく、本当に当人も義憤と思っている場合、他の人から見てもまさしく義憤に見えるような場合でも・・・っていう話なんですけどね。

一つ考えられること・・・でもって、自分でも納得しやすい考え方としては・・・自分にも類似の体験があって、当事者に自分を投影している場合・・・また体験とまではいかなくても、当事者に自分を重ね合わせやすいような共通点があるような場合ですね。義憤というよりは、当事者の怒りへの共感というか、怒りの共鳴みたいなこと・・・そういうのはあり得ますよね。たとえば、子どもを育てている人なら、子どもが関係する事件を見聞きすると、「他人事とは思えない」ですよね。そういう感じです。

逆に言うと、わたしたちは、他人事と思えるようなことに対して、真剣に憤ったりするの、難しいですよね、違いますか?少なくても、わたしはそうですね。自分とはまったく違う環境で、自分が経験したこともないようなことを経験している人の為に本気で怒るって、なかなか難しいです。せいぜいが「ひどいねぇ」「かわいそうだね」って、ちょっと眉を顰めるくらいしかできません。

けど、そこんところを、しっかり怒れないと、遠いところで起こっている悲しい出来事を放置することにはなる・・・ふむ。

けど・・・で、元に戻るんですが・・・かといって、それを真剣に怒れることにも、なにかの怖さを感じなくもない・・・だから、本当の義憤を理解したい・・・ような気がする・・・ような気がする・・・(^^;。

結局、自分のごくごく近くの事しかちゃんと考えられない、心の狭い、器の小さい人間なんですって告白になっちゃってますけどね・・・どうしたもんなんだろうな(^^;。

ちなみに、写真は、春夏秋は玄関先に置いていた鉢たちのうち、厳しい寒さは苦手な子たちを、室内(とはいえ暖房はない寒い縁側)に入れているところです。

我が家の"今年の漢字"は『病』(^^;

2019-12-11 15:44:09 | Weblog
天邪鬼ですから、"今年の漢字"みたいな催しとは無縁でいたい方なんですが・・・今年ばかりは、勝手に頭の中で『病』という漢字がグルグルします(^^;。

母、夫、息子に、愛猫、愛車まで・・・「そんなに一気に襲って来なくてもいいじゃないですか。なにか我が家に含むところがおありですか」と、天に向かって恨み言を言いたくなってしまいました(^^;。

でもまあ、一時は深刻な事態も覚悟する場面もありましたが、全員が良い方に向かっているようですし、一山乗り越えたと思いたいですね、はい。

ただ、母は・・・運転免許更新を諦め、その直後に体調を壊し・・・その後、体調が回復しても、たぶん心の方が何とも・・・ふむ。で、一気に出来ないことが増えて、日常生活に関しても、精神的な部分においても、娘に対する依存率が一気に増加して・・・わたしとしては、プレ介護者生活に突入している感じです。とはいえ、基本的な動作で介助は必要ないですし、畑仕事も頑張って続けていますし・・・このままどんどん衰える方向ではなく、自信とやる気を取り戻してくれたら、体力や運動能力もいくらか回復するに違いないと思うんですけどね。

ところで・・・気が弱くなっているせいでしょうか・・・最近、母が、よく藍那のことを口にします。以前は、わたしを気遣ってか、そんなことは言わなかったのですが、最近はしばしば「なんでなんやろ、かわいそうに」というようなことを、繰り返し言うようになりました。

そういう言葉に対して、わたしは一切反応しません。「そうやね、なんでやろうね。まだ若かいのに、かわいそうやね。つらいね」、そう返してあげればいいのかもしれませんが、返すことができません。なので、結果として"無視"してしまいます。

母は、あたりまえですが他人ではありません。わたしの母親ですし、藍那の祖母です。口にする言葉は同情や慰めではなく、わたしと同じ痛みの中から発せられるものです。だから、それを拒否する理由はないんです。でも・・・出来ないんですよね。この気持ちは、同じ痛みをもった者同士であっても共有できない・・・完全に個々人のものなんだと思います。

夫は、それを理解してくれているからか、そういうことは一切言いません。もちろん、二人で藍那の話はよくしますが、悲しみを共有するような会話はしたことがありません。

母も以前はそうだったんですが・・・ああ~、もしかしたら・・・母はずっと、わたしと悲しみや寂しさを共有したかったのかな。でも、拒絶しているわたしの心情をおもんばかって我慢していた・・・それが、今になって噴き出しているのかな・・・そうだとしたら、申し訳ないとは思うのだけど・・・ごめんなさい、わたしにはやっぱり、それは無理なんです・・・

もちろん、夫や母が、わたしと同じようにそれぞれの心の中で今も悲しみを抱いているということ・・・それを、わたしが知っているということは、わたしにとって大きな慰めになっているし、力にもなっているんですよ。だから・・・なんというか・・・癒えることなどありようもない悲しみは、共有ではなく、距離をおいた共感によって、もっとも助けられるのかなぁ~、わたしの場合、と思います。