OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

収穫せよ

2009-12-31 21:06:05 | Weblog
もうすぐ2009年が終わります。わたしにとっては過渡期だった2009年。とはいっても、未だ渡るべき川は渡りきっていませんから、来年も過渡期は続きます。焦っては駄目だと分かってはいても、なんとか早く対岸に辿り着きたいと思わずにいられない弱い心を抱いたままの年越しになってしまいました。

ところで・・・母の畑仕事を見ていて思うことがあります。畑で作った野菜を農協の直売所で毎日販売することに大きな生きがいを感じているなって。

たぶん、いくら儲かるかなんてことは関係なく、畑仕事というものには魅力があるのだと思います。というより、儲けなければならないと思わなければ、畑仕事は大層楽しいものなのだと思います。決して楽な作業ではありませんが、それも含めて自然の中で命を育てる仕事は楽しいものなのだと思います。

けれど、それを売るというところにも、儲けるということ以外の喜びがあるのだろうと、そう感じるのです。それは、自分の作ったものを誰かに手渡す喜びです。そう・・・売るということには、お金を得るということとは別に、自分の作ったものを誰かに受け取ってもらうという喜びがあるのです。

お金というものが考え出されて、物々交換より複雑な物の取引が可能になり、世の中がとても便利になりました。けれどその分、売買の形態が複雑になり、自分の作ったものを、それを使う人に直接渡す機会は激減しました。

けれど・・・本来の物づくりの喜びというのは、作るということ自体の喜びの他に、それを使用あるいは消費する人に手渡す喜びまで含まれていたのだと思います。それを、母の姿から思い出すことが出来ました。

便利というのは、とても恐ろしいことです。とっても有り難いものであるのですが、とても困ったものでもあるのです。消費する人の顔を見ずに、使用する人の気持ちも知らずに、モノづくりをすることの気持ち悪さを、わたしたちはもっと自覚するべきだと、そう感じた年末なのでした、はい。

それでは、みなさま、よいお年を。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

雑談・・・来年の大河は(^^;

2009-12-29 11:26:17 | Weblog
困ったなぁ~・・・来年のNHKの大河ドラマ、洋ちゃんが出るらしいんですよね(^^;。

あの~・・・わたし、実は、福山雅治さんがちょっと苦手なんですよねぇ~。いえいえ、全然嫌いじゃないんですよ。漏れ聞く噂では、人柄もとても好い方のようだし、見た目は文句なしにカッコイイですし、世の女性たちに大人気なの、ものすごく良く理解できます。だから「なんであの人が売れているんだろう」なんて思ったこと、一度もありませんしね。けど・・・それとはまったく別の次元で、なんだかまるで心に引っかかるものがなくて面白くないって思っちゃうんですよね・・・これが、いつも言っている“好き嫌いの妙”ってものだと思うんですけどね(^^;。

それに、坂本龍馬って人がまた・・・苦手というのとは違うんですが、ましてや全く嫌いじゃないんですが・・・なんていうのかな、眩しすぎて引いちゃうんですよね(爆)。いや、ほんとに、歴史上の人物の中でも、稀に見る傑物だと思っているんですよ、龍馬さんは。とにかくその発想と行動の柔軟さには感服するし・・・人間的にも魅力的な人だなぁって思うんです。けど・・・なんだろう・・・わたしを全く必要としてくれない人とでもいうのかな(^^;。ほら、たとえば、昨日から墓が見つかったとかでちょっと話題になっている曹操さんなんか、悪者にされがちな人物なので「わたしが応援してあげるぅ~!!」って思えるんですが、龍馬さんにはその必要がまったくないでしょ、そんなことかな(^^;。

なので、その龍馬さんと福山さんの組み合わせ・・・ましてや、一年間も見続ける根気がない身としては、最初から見る予定にはしていなかったのですが・・・ありゃりゃ、洋ちゃんが、そこそこ良いお役をもらっている気配・・・だとしたら、ええぇ~、見なきゃ仕方ないかなぁ。けど・・・今や洋ちゃんも、もう、わたしを必要としない高みに行ってしまいましたねぇ~(^^;。なんだか立派になっちゃって、嬉しいやら寂しいやら、複雑な心境です(爆)。

それにしても・・・龍馬を描くドラマや映画からは、みんな同じ臭いがするんですよね。今回の大河なんかは、生身の龍馬を描くって言っていますが・・・英雄的に描くにしても、庶民的に描くにしても、結局は根っこに同じ何かがあって、決してそれが外れないんですよね。それってきっと、描く人たちが本気で龍馬さんのファンだから、そうなっちゃうんじゃないかと、わたしは思うんですけどどうでしょう。それもたぶん熱狂的なファンだからだと思うんですけど、どう思いますか。たとえ始まりはそんなに強い思いがなくても、終わる頃には熱狂的なファンになってしまう・・・それほどまでに龍馬という人は、人を惹きつけるスゴイ魅力をもった人なんだと思います。

だから、天邪鬼なわたしは、龍馬の話はもうイイやって、そんな気になるんでしょうね(^^;。ああ~、でも、『JIN』の内野聖陽さんは好かったな、悔しいけど(←なんでやねん)。

とにかく、そんな感じで、来年のNHKの大河ドラマ、見ようかどうか迷っています。見るなら最初からちゃんと見たいしね・・・う~ん、どっしよっかなぁ。

生き残る伝統というのは・・・

2009-12-27 17:47:25 | Weblog
今日は、裕太が帰ってきています。ということはぁ~・・・そう、わたしの思考は停止しています(爆)。明日には、もう大阪に戻るって言っていますが・・・(涙)。

いつも、親って子どもに対し「永遠の片思い」をしているんだよねって話していますが・・・この切ない片思い、考えてみれば恋愛より嬉しい点が一つだけあるんですよね。それはつまり「永遠」であること。終わりを恐れる必要だけはないということが、この片思いの強みですよね。恋人同士の愛情って、多くの場合、いつか終わりを迎えるでしょ。でも、親子の愛に終わりはない・・・絶対に、それだけはないのですよね。なんて言っている自分が、なんとも哀れな気はしますが(^^;。

ああ~・・・でも、終わりがあるからこそ、恋愛には魅惑的なパッションがあるのかもしれませんね・・・うんうん、そうかもしれません。

そうそう・・・わたしが卒論で取り上げたパウル・ティリヒの『永遠の今』っていう著作があるんですが・・・その中でティリヒは、「永遠」に関して「終わりのない時間」というようには捉えず、「ある一瞬になだれ込むもの」というような捉え方をしていたんですよね。恋愛における永遠とは、ある種、そのようなものなのかもしれませんね。けど、親子の愛の永遠性は、もっと・・・なんていうんだろう・・・そう、存在の根底にあるようなもの・・・一つ一つの命が生まれ出る母なる泉のようなものがあるとしたら、そこに基因するようなものなんでしょうね・・・なんて、分かった風なこと言っていますが、お察しの通り、何も分かってはいません(爆)。

ところで・・・京都に取材にいかせてもらっていていつも思うことは、京都といえば「古き守る伝統の街」って言われがちだけど、いやいやなかなか「新しもん好き」じゃないですかってことなんですよね。で、先日、南座で歌舞伎を見て、さらに強く思ったんですが・・・何であっても、自分の世界に閉じこもっていて生き残るのは、たぶん無理なんですよ。だから、守りたいものがある人ほど、何事にも興味津々であるべきなんだと思います、うん。

それを、今日の枕の愛情の話に絡めて考えるなら・・・誰かを愛し続けたいなら、その人だけを見つめるように姿勢は取っちゃ駄目なんじゃないかなってことになりますかね。プレイボーイやプレイガール(←なんだか響きがレトロ(^^;)になれって意味じゃなく・・・結局、感じる主体である自分をシッカリと持てってことなんでしょうかね。とにかく、自分も相手も窒息させるような関わり方では、人でも愛情でも伝統でも生き残れないってことになるような気がします。

ん?何が話したかったのかな・・・とにかく、今日明日のわたしは、思考停止状態ですから、まっ、こんなものでしょ(爆)。

お掃除、嫌いなのぉ~!!

2009-12-26 18:37:09 | Weblog
年賀状はポストに投函しました・・・ほっ。でも、これから大掃除が・・・ああ~、嫌だ嫌だ、マジで嫌だ。

整理整頓は嫌いじゃないです。むしろ好きな方です。でも、掃き掃除(掃除機も含む)とか拭き掃除が嫌いなんです。すごく嫌いなんです。

でも、これが仕事となると、きっと真面目に頑張ると思うんですよ。文句も言わずに黙々と作業すると思うんですよ。けど、家の仕事って自主性が重んじられるので、自分の判断次第でどうとでもなるものだから・・・ああ~、頑張れないよぉ~。

それにしても、自己判断とか自己責任って重いですよね。だれにも何も言われないのに頑張るって、ほんと難しいですもん。人から強制されるって、あまり良いことのように思えませんが、有り難い場合も多々あります。命令されるから出来ることって、いっぱいありますからね。良くないこととは分かっていますが、そういうこと少なくありません、はい(^^;。

クリスマスに考える仮想現実の力

2009-12-25 11:01:12 | Weblog
今日はクリスマス。イエスという人のお誕生日とされています。

でも皆さんがよくご存知のように、ほんとうは違うんですよね。イエスさんのリアルな誕生日、定かじゃありませんから。たしかローマ帝国の時代、コンスタンティヌス帝が、もともとあった太陽神を祭る冬至あたりの祭日に合わせようぜと12月25日をイエスさんの誕生日ってことに決めたんですよね。

それにしても、世界で一番有名な男(聖書が世界で一番売れている本ってことなので)の誕生日が不明だなんて、なんとも面白いですよね。

なので、わたし、一度聞いたことがあるんです。プロテスタント教会の牧師であり学院のチャプレンであり神学者であった大学の指導教授に、「イエスという人物は、ほんとうに実在したんでしょうか」って。

すると彼は、こう答えました。「僕は実在したと信じているよ。なぜなら、これだけ多くの人が彼の物語を信じているからね。基点(イエスの存在)が真実でなければ、この現象は起こりえないと思っている」って。

わたし、相当に疑い深い質なんですが、なんだかこの説明には、妙に納得させられちゃったんですよね(^^;。物証を並べ立てられるより、緻密な状況証拠を積み重ねられるより、なんだかこの曖昧な説明にストンと説得されたんです(^^;。

その時イメージしたのは、雪でした。雪は、空気中の塵などが核になって、その周りに水が結晶を作ってできるって聞いていたので・・・世界三大宗教の一つにまで発展したキリスト教の核として、イエスという人物が居たのかなって、そんな風にイメージしたんです。新約聖書などで語られる彼に関する様々なエピーソードは、もしかしたら本当の彼の物語ではないかもしれないけど、彼が生身の人間として生きていたということに関してだけは現実のこととして信じていいのかもって。

けれど・・・冷静に考えると、やっぱり本当にそうなんだろうかとも思うんですよね(^^;。たしかに、雪は核になる何ものかがなければできないのかもしれないけど・・・たとえば、よく出来た物語の主人公が多くの人に愛され、長い年月の中でいつしか実在の人物と思われるようになったなんてことも、大いにありそうではありませんか。

だから考えちゃうんです・・・人の想像力の力って、どれだけの広がりを持てるんだろうって。一人の人の頭の中の広がりもですけど、それが周りの人に伝わり伝わり、その度に何度も何度も生まれ変わりつつ広がっていく、その可能性ってどれほどのものなんだろうって。

もちろん、すべての想像力が参考にしているのは現実の世界の事柄で・・・だから、現実からまったく影響をうけない想像はないわけで・・・人間には、無からの創造のようなことは、たとえ思考においても不可能なのかなとは思うんですけど・・・限りなく無からの創造に近い想像であるとか・・・それを宇宙のなりたちほどに大きく育てる人々のイメージの連携力とか・・・そういうものに期待したいなぁって、今はそんな風にも思うんですよね。

断定形で話す意味と気持ち

2009-12-24 19:55:04 | Weblog
シャアの名セリフを毎日配信しているらしい携帯サイト『シャア名言アズナブログ』が、ユーザーの投票による年間ランキング一位の台詞を選び、それを発表したらしいんですが・・・選ばれたのは「認めたくないものだな。自分自身の若さゆえの過ちというものを」だってそうです・・・なるほどね(^^;。

個人的に、わたしが一番印象に残っている台詞は「これで私は自由を失った」ってヤツなんですが・・・シャアが、意外に、カリスマに成りたがらなかったことに注目してくれる人って少ないですよね(爆)。

ところで・・・いきなりですが、断定的な話し方をする人って、どういう気持ちで、あるいはどういう目的で断定的な話し方をするんでしょうね。この話題、ずっと前にも一度したことがあるとは思うんですが・・・その時も毎度の事ながら答えは出せず、今回もまた同じことを堂々巡りで考えているのであります(^^;。

断定的に話す人って、人を指導する立場であったり、命令する立場であったりすることが多いと思うんですが・・・きっとそういう人の場合は、テクニックとして断定話法を使うんだと思うんですよね。だって、曖昧な指導や命令では動きづらいですけど、「こうしなさい」「ああしなさい」ってハッキリすべきことを決めてもらうと、命令される立場や指導される立場の者は行動しやすいですものね。また、その際の意味づけとか動機付けに関しても、「○○だから××すべきなんだ」と、明確にその行動の正当性を納得させてもらえると、人はより動きやすいですよね。

ただ・・・わたしが疑問に思うのは、その正当性を、断定して語っている人自身が、どれだけ信じているのかなってことなんですよね。だって、もし本気で全面的に信じているとしたら、それはとても危なっかしてことかもしれないって、そう思うんですもの。

自分を大きく見せたいがための虚勢とか、自分を鼓舞するための大口なら、別に良いと思うんですよ。あいや、良くはないか・・・良くはないけど、まっ、仕方ないっていうか、そういう場合もあってしかるべしとは思うんですが・・・人望のあるひとかどの人が、本気で断定形を使っていたならば、それはマズイなって思っちゃいますでしょ。

軍隊のようなところでは、当然、断定で命令は下されると思うんですよ。というのも、個々人が自分の考えで動いては拙いシチュエイションで活動することが多いでしょうからね、軍隊って。

でも、軍隊のような特殊な状況で活動する組織以外は、個々人が自分の頭で考えて行動することが基本ですから、断定って好ましいことではないですよね、やっぱり。

ただ、軍隊ほどじゃなくても、迅速に行動しなきゃいけないとか、成果をはやく上げなきゃいけない状況にあるのにもかかわらず、構成メンバーが極端に未熟である場合は、それも致し方ないってことになるのかな。カリスマに率いられて、一気に急成長をとげるベンチャー企業などは、そういう感じですものね。でも結局、そういう成長の仕方って、頭打ちになってるでしょ。つまり、人が育つためには、個人であれ集団であり、急がば回れってことになりませんかね。

けど・・・ものすごく立派に見える先生でも、正解を下げ渡す人は少なくなくて・・・それって、どうしたものかなって思わずにいられないんです。なんて言っている自分こそ、若いころは生意気にも断定の鬼でしたから、お恥ずかしい限りなんですが・・・だからこそ、その反省も踏まえて、簡単に断定で人を動かそうとするのは拙かろうって思ってしまうのであります、はい。

藍那作、来年の年賀状(^^)

2009-12-23 17:33:14 | Weblog
藍那が昨日から帰ってきています。
だから、わたしは書き物ができません。
日記も書けません(爆)。

別に、藍那に邪魔されるわけじゃありません。
どっちかっていうと、わたしが藍那に邪魔にされています(^^;。
けど・・・藍那にしても、裕太にしても、帰ってきていると、わたしのプライベートな思考がストップするんですもん。

で、藍那は、ずっと年賀状を作ってくれています。
得意の千切り絵です。
すごく細かいです。
どうして、あんな細かい作業ができるのか、理解できません。
傍で見ているだけで肩がこります。

というわけで・・・本日は、これまで!!

集中しない人生宣言

2009-12-21 14:01:11 | Weblog
あと僅かで夜が明ける、そんな時間帯に、雲がぐっと下がってきて、まるで山の稜線のように見えることがあります。昨日などは、六甲の向こうにもう一つ山脈があるみたいに見えました。別の日には、東の空にあるはずのない山々が聳えたって見えました。それにしても・・・山の稜線が、あんなにも美しく感じられるのは、どうしてなんでしようね。それが“境目”だから・・・なんでしょうかね。

ところで、いきなり話は変わりますが・・・わたしが自分の我がままさ、冷たさを痛感する瞬間っていうのが幾パターンかあるのですが・・・その一つが、本気で“集中”しようとしている時なんですよ。

わたし、基本的に、あまり本気で集中しないことを心がけています。たとえば、仕事などで書き物をするときには、集中しすぎないように、TVやラジオなどの音声を流しています。ちょっと気が散るぐらいが、ちょうどよい集中加減になるからです。

けど、そんなわたしでも、マジ集中したいときが、まったくないわけではなく・・・そういう時には、自分のテリトリーに生命をもったモノが在ること自体に苛立ちを感じてしまいます。ましてや、少しでも物音を立てられたりすると、殺意すら感じるのです(爆)。

この傾向は、若い頃により酷く・・・母や子どもたちは、その被害を被ったことがあるのではないかと思います。母は「あんたは、時々、ぞっとするような冷たい表情をすることがある」と言っていましたが、そう感じさせた中の幾つかは、わたしが何かに集中しようとしている時であったのではないかと思います。子ども達からは、そのようなことを言われたことはないのですが・・・もしかしたら、それで彼らを傷つけたかもしれないと、今になって心配しています(^^;。

とまあ、そういう反省もあってのことなんですが・・・これからの人生、なるべく集中なんかしないで、だらんと生きていきたいと思っているのでありますです、はい(爆)。

公僕とは・・・

2009-12-19 12:07:04 | Weblog
農業関連の新しい事業を始めようと思っている話は、何気にしたと思うのですが・・・これがなかなか大変なのです。何がって・・・農業を取り巻く公的機関の閉鎖的思考に、正直、うんざりって感じなのです。

今まで農業をやってきた人間が、今まで通りのことを、今まで通りの土地でやっていくことに関しては、基本的には文句は言われません。それどころか、いろいろと助成金なども支給されて、優遇されているなって感じる部分もあるくらいです。まっ、それでも農業では食っていけない現実があるわけですが、他の業種なら、食っていけなければ「そりゃ、お前に力がないからだろ」って問答無用で切り捨てられるだけなわけですから、やっぱり農業はなんやかや言っても優遇はされているのだと思います。

けれど、人であれ、場所であれ、内容であれ、「今まで通り」でなければ、とたんにピシッとシャッターが下りてしまう、その速さと激しさにビックリしてしまいますよ、ほんとに。

農業政策的には、認定農家なんていう制度もあって、積極的に新しいことに挑戦していく農家を支援するっていう姿勢は打ち出されているのですが・・・にも関わらず、実際に動こうとすると“新しい”ってことに、ものすごい抵抗があるんですよね。いったい、どうしたことなんだろうって思います。

で・・・そんなことで思い悩む日々を過ごしていたら、とあるTV番組が目に入ってきたのですよ。田舎の農家などで、小規模な自家水力発電をしようと頑張っている方たちをレポートしたものなんですが・・・その苦労たるや、今のわたしたちの苦労がちゃんちゃら可笑しくなるほどだったんです。

小規模自家水力発電をするには、お役所の許可が必要ならしいです。でも、普通の家庭が自宅で使う電力を賄う程度の小規模な水力発電ですから、人が軽くまたげるくらいの溝にちょこんと納まる小さな装置を設置するだけなんですよ。それでも、役所に届けて、許可をもらわないといけないそうなんです。

でね・・・その役所というのか一箇所だけじゃなく、国土交通省だとか農林水産省とか厚生労働省とか地方自治体とか、あちこちにそれぞれ膨大な資料を添えて申請しないと駄目だっていうんです。

しかも、たとえば農林水産省に行くと「漁業権はどうなっていますか」って聞かれるんですって。「家の前の溝ですよ、漁業なんて出来ませんよ」って答えると、それを証明する書類を提出しなさいって言われるんですって。で、国土交通省に行くと「船の往来はどうなっていますか」って聞かれるんですって。「だから、家の前の人がまたげるくらいの細い溝だって言ってるでしょ。どんな船が往来するっていうんですか」って反論すると、「それを証明する書類を添付してください」って言われるんですって。万事がそんな風なんですって。

きっと、小規模水力発電ってものが、あまりにもマイナーで、それ用の法律とかルールとか、それに応じた申請の書式とか決まってないので、立派な水力発電所を作る時の決まりに従って、役所の人たちは言ってるんじゃないかと推測するんですが・・・お役所って、それでいいんですかね。

決まりって、どうやったって後手後手になるものでしょ。今後起こってくるであろう事に対する決まりを、予め作っておくなんてこと、なかなか出来るものじゃないですからね。でも、だからこそ、新しい波に、積極的に対応していって欲しいと思いませんか、お役所には。前例がないから駄目じゃなく、前例がないからこそ積極的に取り組んでいってもらいたくはないですか。世の中は刻々と変わっています。それに対応して常に変わっていく、そんなお役所であって欲しくないですか。

もし、前例のない新しい企画が役所に提出されたとして、それが市民に広く役に立ちそうなことだと思ったら、自分たちが先頭にたって情報を集めたり勉強を重ねたりして新しいルールを作り、そのことの普及に努める、そんなお役人さんたちだったら、われわれは彼らを尊敬するし感謝もするんじゃないでしょうか。っていうより、それが本来の公僕の務めではないんでしょうか。

新しいことが生まれそうになったらモグラ叩きみたいに片端から潰す役目のために、わたしたちはお役人にお給料を支払っているわけじゃないですよね。むしろ、新しい波に乗り遅れる人がいないように、わたしたちをもれなくみんな引っ張っていく人たちであって欲しいと・・・そう思っていますよね。少なくても、わたしはそう思っているんですが・・・実際の役所って、ほんとに小回りがきかないっていうか・・・正直、動きが鈍すぎます。けど、そのことを、お役人さんたちが仕方ないことだ、こういうものだって諦めて欲しくないんですよね。自分たちの仕事を、守りの仕事と考えず、攻めの仕事だと認識して欲しいんですよね。わたしは、そう思うんですよね。

白目の濁り

2009-12-18 18:24:14 | Weblog
子どもの白目って、すごく綺麗ですよね。
透明感のある白というか・・・
青っぽい白というか・・・
緑っぽい白というか・・・
とにかく、とっても綺麗です。

でもって、それって純粋さの象徴であるようなイメージですが
別に、純粋だから白くて、不純だから濁るってわけじゃないですよね、目。
要するに、白目が濁るっていうのは、老化の一つなんでしょうね、はぁ~。

でも、ということは・・・
色目以外にも、年をとると、いろいろと濁ってくるんですかね。
体の内側も・・・そして、心も(^^;。

けどね・・・
子どもが純粋で穢れてないって、考えてみれば当たり前なんですよね。
そもそも他との接触が少ないですから、他と混ざる機会が少ないでしょ。

長く生きれば生きるほど
色んなものと出遭って、色んなものと交わって、色んなものと混ざり合う。
その上で、どうあるか・・・そこが肝心ですよね。

濁りも美しい模様にできるように・・・なんて、ちょっと臭い台詞ですかね(^^;。