OBERON 日記

1999年1月25日。パソコン通信から始まった公開日記。
できれば、死ぬまで続けたい・・・(爆)。

原稿料の支払調書発行は法律上義務付けられているものではない

2018-02-28 13:28:45 | Weblog
今日は、すごく現実的な話題です(^^;。

確定申告の季節ですね。みなさん、もう申告はお済みですか? わたしは当然のごとくまだです。以前は、営業もしていたので、帳簿整理やらなんやら手間取って、結局いつも最終日に滑り込みって感じでしたが、今はシンプルな申告内容なので、一日あれば準備できるのですが、なんだかんだぐすぐすとまだ手を付けていません。それでも、最終日近くになると税務署が混むので、そろそろやらなくちゃと思っているところです。

え?税務署に行かなくても郵送でOKよ。なんならインターネットでも出来るよとお思いの方、多いですよね。インターネットでの手続きは、まあ、一度やれば便利なんでしょうが・・・郵送はダメなんですよね。何故か、それは受付印を押してもらえないから。確定申告がすんだら、取引のある金融機関にコピーを送らなければならないのですが、その際、税務署の受付印が押してあることが必須条件になってますから。以前、税務署の方にそのことを話したら「あの受付印になんの意味もないですよ。ただ受け取ったというだけで、その時点で中身はまだちゃんと見てないわけですし」って言われて、銀行の担当者にその話をしたら「当行の決まりですから」だって。だとしたら仕方ないよね、決まりなんだからね(^^;。

というわけで、わたしの中では「本当は必要でなくても、決められちゃったことには従わなきゃ、ものごとは一歩も進まない。そして、一度、慣例化したものは、ほとんどの人が無意味だと分かっていても、なかなかやめられない。それはきっと、ただ変更する手続きが面倒だからなんだろうな」という思いが強くなりました。

で・・・今年の話ですが・・・

フリーでライティングの仕事をしていると、年明けから続々と支払調書が郵送されてきます。毎年、それをまとめて申告用紙に張り付けています。けれど、昨年、支払調書を送ってくれないクライアントさんがあったので、今年は一月末に月の請求書を送る際に、発行をお願いしますと書き添えておきました。でも、一か月たっても音沙汰がないので、催促のメールをしたら


昨年度までは、支払調書をご郵送等で送付いたしておりましたが、委託先への支払調書の発行は法律上、義務付けられているものではないため、平成28度分より、発行を控えさせていただきますのでご了承ください。

と、昨年初めにお伝えしていますよね。でも、今回は特別にメールに添付しておきますって、支払調書が添付された返事がきました。ふ~む・・・

昨年にそのお知らせを受け取った時は、マイナンバーを送れっていうのがメインだったから、この部分はほとんど記憶にないという・・・まあ、明らかにこちらの不注意ではありますが、「委託先への支払調書の発行は法律上、義務付けられているものではない」って本当なの? 他のところは、みんな送ってきてくれてるよ。なんなら単発の安価な講演料とか、選挙の立会人の報酬なんかまで送ってきてくれているのに・・・と思い、思わずネット検索してみました。そしたら、まあ、その通りで・・・無知なわたしが源泉徴収票と言っている原稿料や講演料の支払調書は、発行の義務はなく、出しているところは慣例にしたがっているだけだそうです。で、確定申告においても添付不要だそうです・・・へぇ~。

実際、昨年は、その会社からの支払調書を添付せずに申告しましたけど、税務署から不備の指摘はなかっですけど・・・わたしのような曖昧な仕事ぶりだと、支払調書などがなかったら不安ではあるんですよね・・・いいとは言われても、それで通らないこともあるって経験もいっぱいありますし、できれば出して欲しいんですよね。だから、自動的に一斉発行しなくても、個別に依頼があれば、支払先に支払調書を出すって、してくれてもいいことじゃないかなと思うんですが・・・

ふと、自分が法人の経理を担当している時の作業を考えると・・・この部分がカットできるのは大きいかなぁ~とは思います。わたしの場合には、雇用している人の給与の源泉徴収票の作成でしたから、絶対にしないといけないことなんですが、大量のフリーのライターさんに仕事を発注している個人営業の会社だったら、義務じゃないならやりたくないところではあるでしょうね。

いつもは、不要な慣例を見直さないことを非難しておきながら、自分が楽をするためには他人に不要な慣例を押し付けてしまったのかなと反省した次第です(^^;。

これからは、支払調書に頼らず、確定申告していかなくちゃいけませんね、はい。でも、送ってくださる皆さん、お手間なのにありがとう!!助かってます(^^)。

居るのか居ないのか分からないくらい当たり前にそこにある存在でいたいです

2018-02-23 17:57:16 | Weblog
最近、頑張ってブログを書いているなって、自分のことを褒めてあげたいんだけど・・・誰も望んでないし、だから誰も褒めてくれないので、自分で褒めてあげます(^^;・・・読み返してみたら、どうも楽しくないなって感じるんですよね・・・感じるっていうか、まあ読めば明らかですけどね(^^;。

で、次は絶対に可愛い内容にしたいなって思って、一生懸命かわいいネタ探しをしているんですけど・・・猫ネタ以外に、何も可愛いものを見つけられない自分が哀しい・・・(^^;。仕方ないですかね、自分の中に可愛い要素がないんだから・・・いや、そんなことはない、わたしにだって可愛いところはあるはず!!なんだけどな・・・(^^;。

世に"癒し系"っていわれる女優さんとかタレントさんがいらっしゃいますが、その職業柄か、癒しの中にちゃんと性的な魅力がありますよね。性的って言うと、なんだかエッチな感じになりますが・・・同性にとって嫌な感じのそれじゃなくて・・・なんていうか・・・癒すだけじゃなく引き付ける魅力があるっていうか・・・だって、多くの人に愛されなきゃ成立しないお仕事をされてるわけですもんね。

だから、わたしが自分に求めているのは、そういう高度な癒し系じゃなくて・・・むしろ当たり前すぎて気づかないくらい普通にほのぼのとした癒しの雰囲気というか・・・一緒に居ると、なんかホッとするなぁ~というか、安らげるなぁ~っていうか・・・そういう気負わない特別じゃない温かさなんですよね・・・今のところ、欠片も自分の中にそれを見出せませんけど(涙)。

でもって、文章でもそういうものが書けたらどんなに素敵だろうって思うんですが・・・自分の根っこに、そういう優しさとか温かさがないから、書けないのかな・・・とほほ。

でもね・・・小説家さんとか、作詞家さんとか、ものすごくステキな言葉を紡がれる人が、どうも噂ではステキとは言い難い人柄らしいってことありますよね。言葉ではないけど、役者さんだって、もっぱら素敵な役柄を演じられる人がステキな人とは限らなさそうですし・・・まあ、それを自分でちゃんと確かめたわけではないので、断言はできませんが・・・作り出すものと本人って、どうリンクしているのか、なかなかに謎ですよね。

だとしたら、わたしだってほのぼのほっこり優しい文章が書けるかなぁ~・・・そういうのを努力して書こうとしていたら、いつか自分自身がそういう人間になれるだろうか・・・

もう、尖ってカッコつけてオレオレな自分はいいんです・・・居るのか居ないのか分からないくらい当たり前にそこにある存在でいたいです・・・はい(^^;。

というわけで、今日は、わたしに代わって、意図せずとも可愛いニャンコたちの写真で、可愛さを表現してみました(^^;。

人間90年、三人分くらいの人生を謳歌していいのでは

2018-02-20 15:14:01 | Weblog
母の老いに戸惑っています。母自身も、とても困惑していて、最近の口癖は「なんでやろう~、あかんなぁ~」です。最初の頃は、そう言われるたびに励ましていましたけれど、最近は面倒になって聞き流しています。優しくしたいと思いながらも、イラッとしてしまうこともシバシバです。

認知症の症状はありませんが、運動能力だけでなく理解力や伝達能力も衰えてきています。何度説明しても分かってもらえなかったり、繰り返し聞いても何を言いたいのか分からなかったり・・・わたしの方も「なんでやろう~、あかんなぁ~」と言いたくなってしまいます。

同じように手がかかっても、子どもの場合は「今日できなかったことも明日になったら出来るようになる」のですが、年を取るということは「今日できたことが明日には出来なくなっていく」ですから、そこに夢や希望を見出す余地はなく、恐れと諦めに心が支配されてしまいます。

そんな心理状態でいると、ついつい母の行動を制限したくなってしまいます。危ないからという理由で、できるだけ出歩かせたくないのです。車の運転はもちろん、家の周りの畑での農作業だって、転んで骨折でもしたら寝たきりになっちゃうじゃないかと思ってしまうのです。家事にしたって、やってくれても不十分なことも多くなってきているので、二度手間になるからやってくれない方が楽だというのが本音です。

でも・・・そう思う自分の気持ちも無理はないと思いつつも・・・それじゃあダメだということも、十分に分かっています。できるだけ何でもしてもらわなきゃダメですよね。運動能力の低下を防ぐためとか、ボケ防止とかってこともありますが、長生きすることが幸せじゃないような生活はダメですよね、ぜったい。

大昔の人たちは、寿命が短い分、精神的にも肉体的にも大人になるのが早く、十代でひとかどの仕事を成すようなことも珍しくはなかったのだと思います。今の我々から見れば、まさに駆け抜けるような生き様とでもいいましょうか・・・。

が、我々のように、アクシデントに見舞われなけれ結構な年月を生きるようになれば・・・昔の人の様な生き方はそぐわないように思います。では・・・どんな生き方が、今の我々に合っているのでしょう・・・

最近思うのですが・・・なんなら幾つもの人生を生きるというような選択肢があってもいいのではないかと・・・

自分でも、ちゃんとイメージできていませんし・・・だから、それを言葉にして伝えるのも難しいのですが・・・自分自身の変化や環境の変化に合わせて、まったく別人のように生活を変える、生まれ変わったみたいに考え方や生き方を変える・・・それが人生に複数回あってもいいのではないかと思うのですよ。

具体的に言ったらどういうこと?それでいったいどうなるっていうの? ・・・ぜんぜん分かりません。ぼんやり、そんな思いが浮かんできただけです。でも・・・漠然と"三十年もあれば、人は人生を全うできる"という気がするのです。じゃあ、90年生きたとすれば、人生を三回生きられるんじゃないかとかね・・・。

もちろん、90歳で亡くなる時に「天我をして五年の命を保たしめば 真正の画工となるを得べし 」といったという北斎のように、一つのことを追求するのに100年が必要だって・・・そういう心底夢中になるものに出会えた人は、人生の全てを一つっことに費やしていいとは思いますが・・・そうじゃない生き方もあっていいというか・・・現在の我々は、そうじゃない生き方の模索も必要なんじゃないかと、そんな風に思うのであります。

こうじゃなきゃいけないとか、これがあたりまえとか、こうだったんだからこれからもこうなんだとか・・・そんなことを、ある時、全部、パーンと捨てて、別の人生を生きるようなことも・・・ふむ。

ただ、難しいのは、その時に、今まで築いてきた人間関係をどうするかですよね。わたしは、嘘か本当か、出家するときに縋る我が子を縁側から庭に蹴落としたという西行のエピソードは大嫌いですから、大切な人を捨てなきゃ生まれ変われないなら、生まれ変わりたくはないとも思うんですが・・・ふむ。

この話題は、もっとちゃんと自分の中で思いが形になってから話すべきでしたかね。でも、話して考えを纏めていくタイプなもので・・・垂れ流し思考で申し訳ありません(^^;。

教育の主流は「有能な部下」の育成?

2018-02-15 10:03:54 | Weblog
『ニュース雑記帳』で「学校教育法施行規則の一部を改正する省令案及び高等学校学習指導要領案に対する意見公募」を取り上げたので、ちょっと育児・教育ってことについて思いを巡らせてみました・・・

教育ってことを考える時、いつも思い出すのが、ずっとずっと前に自宅で寺子屋をやっていた時の生徒だった女の子のことです。彼女は、ものすごく勉強が苦手でした。それはもう、とっても苦手なようでした。でも、勉強することがが嫌いなわけではないし、寺子屋に来るのも嫌ではなかったように見えました。そして何より、彼女は抜群に善い子でした。寺子屋で一緒に勉強していた幼い子たちの面倒をよく見てくれましたし、笑顔がとっても優しくて素敵だったんです。子どもたちもみんな彼女を慕っていました。わたしは、その子のことを"尊敬"できる人だと思いました。相手はまだ少女ではありましたが、大の大人のわたしが、彼女のことを人として尊敬できると感じたのです。

わたしは、彼女に勉強を教えるにあたって、何よりも"彼女が劣等感を感じないように"と、そのことを一番に考えるようになりました。彼女が一生懸命勉強しても、わたしが一生懸命教えても、きっと彼女は学校で授業についていくのが精いっぱいであろうと思いましたが、そのことで彼女が「わたしなんてダメだ」と思うことがないようにと、そのことだけを考えました。だって、彼女は全然ダメじゃないんですから・・・むしろ誇らしい人なんですから・・・そのことを彼女自身にも分かってほしいと思っていました。

残念ながら、今現在、彼女がどうしているのか、わたしは全く知らないのですが・・・仕事をしているにしても、主婦をしているにしても、きっと周りの人に信頼され愛されているに違いないと思っています。彼女のような人が幸せになれないような社会なら、それはその社会が何か間違っているからだと本気で思いますから!!

だからね・・・彼女のことを思う度に考えるんです・・・全員に習得させるべき学問のレベルって、いったいどこまでなんだろうって。世界学力ランキングで上位になるためとか、そういう問題ではないですからね、ほんと、教育って。

我が子に「なんで、こんなこと勉強しなきゃいけないの?これが社会に出てから、どう使えるの?」って聞かれたら、なるべく肯定的に答えていましたよ。「たとえば因数分解。それ自体が生活の中で役に立つことはないかもしれない。自分の子どもに教えてあげられるくらいで、他には全く使わない可能性も大きい。けれど、それが発見された経緯だとか意味だとか・・・そういうものが自分たちの生活を支える様々な事柄の基礎にあることを知っておくことは無意味じゃないでしょ。わたしたちの生活は、昔に比べるとずいぶん便利になったけど、その便利さを支えているものなんだから、そういうものを発見した人、そういうものを使って今も研究したり開発したりしている人たちがいて、自分たちの生活がなりたっているってことの入り口ぐらいは見ておいて悪くはないでしょ」とか

「何が正しいかを自分で判断し、何をするかを自分の責任で選んでいくことは、大人にとっても子どもにとっても大切なことだけど、長く生きて色んなことを経験してきた大人でさえ、いつも納得できる選択が出来るわけじゃないでしょ。時には、なんでこんなことをしなくちゃいけないのかと思うようなことを強要され、イヤイヤやっていくことで得られることは、案外たくさんあるものなのよ。だから、とりあえず幅広く学んでおく、経験しておくということは、あなたに地力をつけてくれるはずだよ。ほら、ゲームでアイテムを少しずつ獲得していくでしょ。その中には、結局一度も使わないものもあるかもしれないけど、手に入れられる機会があるなら手に入れておくべきじゃない、てじょ」とか

「人はね、時に、嫌でも頑張らなきゃいけない時があるものなのよ。その時に頑張れる精神力の鍛錬だと思いなさい」とか、一応、いろいろ説得しましたけど・・・言いながら、自分がまったく納得していませんでしたからね(爆)。

生活していくうえで必要な最低限の計算能力とか、識字能力とかは、義務教育でしっかりと教えて欲しいと思いますが、内容を必要以上にレベルアップさせて、子どもに苦手意識だとか劣等感だとかを植え付けるようなことはどうかなって思わずにいられません。幅広い分野の基礎をしっかり学ばせて、あとはそれぞれの子どもの得意を伸ばしていくってことが、どうしても望ましく思えてなりません。

教育の主流って、きっと「有能な部下」を育てるものなんじゃないかと思うんですよね。ある意味、それは理にかなっているのかもしれません。船頭多くして舩山登るっていいますから、トップに立つような資質をもった人が増えると混乱しますから、ごく少数の指導者あるいは経営者と、大多数の有能な部下がいるのが理想なのかもしれませんが・・・どのポジションにいても、どんな歯車として動いていても、ちゃんと自分に誇りがもてるような、そんな教育でなきゃ悲しいですよね。

なんだか話がまとまりませんが・・・悩ましいですよね、育てるなんて傲慢ではあるけど重要なことの正解を探すって・・・


嘘の方が本当らしい?

2018-02-13 16:13:54 | Weblog
何かを伝えたいとき、ただそのまま提示しても、うまく伝わらないこと、多くないですか? 本当のことのもつ力って、絶対にあると思うのだけど・・・なんていうのかなぁ~、相手に認識してもらえないと伝わらないから、相手の理解とかイメージとか、それに寄せて表現しないと分かってもらえないっていうか・・・

そうそう、効果音がそのいい例だと思います。たとえば雨の音。実際に降っている雨の音を録音したものより、まったく別の人工的に作った音の方が、より雨らしく聞こえますよね、ねっ。

ただ、伝えるために嘘を使って、相手が少しでもその嘘を感じてしまったら、すべてが台無しになってしまう場合もありますよね・・・だから、誠意をもって伝えるって、ほんとうに難しい。

だからね、自分が受け取る側に回った時には、手法はどうあれ、またそれが成功しているかどうかもおいておいて、その人が、どういう気持ちで何を伝えようとしているかを、こちら側でも一生懸命感じて受け取るよう努力したいと思うんですね。

あっ・・・で、思い出しましたが・・・先日、よく行くお店で「いつもは○○を買っていただいてるのに、今日は違うんですね」って言われて、わたしちょっと不快だったんですよね。なんででしょう・・・きっと、わたしの望む距離感より、ちょっと近かったのかな、そのお店の方の話し方が。でも、お店の方は、まったく悪気はないんですよね。むしろ常連扱いしてくださったというか・・・きっと「いつもありがとうございます」と同じ意味だったんだと思うんですよ。だから、不快に感じた自分を反省しました、はい(^^;。

あと、少し前にテレビドラマを見ていて・・・登場人物の一人が大切な人を亡くしたことを告白したら、告白された相手がとっさに何も言えなくて、口下手でごめんなさいと謝るシーンがありました。謝った相手に、大切な人を亡くした人は「あたなが悲しんでいたら、天国の○○さんが悲しみますよ、元気を出して、なんて言われるより、よほど好いです」って答えていました。これねぇ~、大切な人を亡くした人あるあるで・・・まさにその通りではあるんですが・・・もし、自分が告白された側だったらって考えたら・・・思わず言っちゃうかもしれないって思いませんか?何か言わなきゃいけない、でも何を言ったらいい、何を言っても慰めになんかなるはずがないと思うし、でも、何か言わなきゃ悪いし、って頭の中がぐるぐるなって、思わず言っちゃいませんか。だから、言った側は、言った責任からも、相手がどんな言葉を発しても、その気持ちだけを受け取るべきだと思うんですよね。自分の心には響かない言葉でも、むしろ傷つく様な言葉であったとしても、それを相手の人が好意でもっていってくれているのなら、口から出た言葉ではなく、その好意に感謝すべきだってね。

一対一の関係でも、小さい集団の中の人間関係でも、また国と国、民族と民族くらい大きな関わりであっても、それができればなぁ~と思います。言い方とか、やり方とか、ずいぶん違っているのは当たり前で・・・そこのところが気に食わないって言い出したら、ほんと拗れるでしょ。言い方ややり方は気に食わないけど、その根本にあるものは何なんだって相手の根っこのところを知る努力が出来たら・・・

でも、方法とか形式とか、そういうものへの拘りって、なかなか捨てられないものなぁ~・・・ふむ。

あれ・・・話がずいぶん遠くまで来ちゃいました・・・本当の雨の音より、効果で作った人工的な雨音の方が本当らしいんだよなぁ~っていうだけの話だったんですけどね(^^;。

凡夫なり

2018-02-08 17:16:24 | Weblog
窓際で日向ぼっこしていたハルちゃんが、ウググググゥ~って怒ってる。どうしたのと声を掛けると、振り返りもせず、今度はシャーって威嚇している。てんちゃんが横にいるけど、落ち着いた様子で外を見ている。二人の視線の先を見ると、白黒タキシード柄のニャンコが、窓のすぐそばまで来ている。よく聞くと、その子も声を上げているけど、どちらかというと甘えたような声だ。そしてその子は・・・右前足の先端がない。

以前から、見かけていた子で・・・足が悪いのは歩き方から分かっていたけど、今日は傷口の様子がハッキリと見て取れた。怪我をしてから、もうずいぶん経つと思うのに、まだ傷が生々しく赤い・・・。はるちゃんの威嚇を意に介すこともなく、その子はお尻を落として傷口を舐め始めた。

なぜ、なかなか治らないのだろう。体つきはふっくらしているから、食事には困っていないのだと思う。飼い猫じゃないのか・・・飼い猫なら、飼い主が病院に連れて行っているだろうに・・・。

保護して、病院に連れて行ってやるべきだろうか・・・傷口は痛々しいが、太っていて元気そうだし、大丈夫なんじゃないかな・・・他所んちの飼い猫だったら、余計なお世話ってことになるし・・・病院に連れていった後、我が家に引き取るわけにはいかないし・・・

そのニャンコを不憫に思う気持ち、なんとかしてやりたいと思う気持ちと、なるべくなら面倒をさけたいという気持ちが、わたしの内で鬩ぎあってる。

結局、その子はその後すぐにどこかへ去っていき、わたしは、これ幸いと、この難題を忘れることにしたのだけれど・・・

たぶん、わたしだけじゃなく、多くの人が、しょっちゅう、こういう葛藤に、軽く悩む日々を過ごしているのだと思う。

人の中には、他を思いやる優しい気持ちと、当事者じゃないのだから余計なことに巻き込まれたくないという身勝手な感情があり、何かの度に、どうしようかどうすべきかと迷って、どちらかを選択しているのだと思う。

きっと、ほとんどの人は、常に善行を選べるわけではなく、かといって、いつも身勝手な振る舞いをするわけじゃなく、その時々に応じて、善いことをしたり出来なかったりするのだと思う。

まあ、できるだけ自然に善いことを選べるようになれると嬉しいのだけど、わたしのような凡夫には、今回のように見て見ぬふりを選んでしまうことも多いのであった(^^;。

姉を亡くした弟の心の傷は・・・

2018-02-05 09:52:15 | Weblog
裕太が遅い正月帰省をしていた時、民生児童委員の私に小学校から、とある問い合わせがありました。その時点で、私から小学校にお伝えできる情報は何もなかったので、そのお宅の様子を見に行こうとしたら、裕太が同行すると言います。もちろん、電話の内容を裕太に話したりはしていませんが、そばに居たので状況が想像できたのでしょう。私のことを心配して、一人で行くべきじゃないと言います。けれど、民生児童委員には守秘義務があり、息子といえど同行させることは第三者に個人情報を漏らすことになりますから、同行させるわけにはいきません。大丈夫だからと言って一人で出掛けました。結果、裕太が心配したようなことは何も起こりませんでしたが、その後もずっと裕太はこの時のことを気にしています。できれば、民生児童委員をやめてほしいとまで言いました。

裕太は、決してそういうことを言う子ではありませんでした。むしろ、民生児童委員を引き受ける母親に納得していたと思います。正義感の強い子ですから。ずっと前、まだ私が民生児童委員になる前、親の虐待で子どもが亡くなったとのニュースに憤っていると、「なら、そういう子どもたちをお母さんが引き取って育ててあげればいいのに」と言った子ですから。

では、何が裕太の気持ちを変化させたのか・・・時間だけではないと思うのです・・・

上記の出来事の時、「そんなに危ないことはないよ。本当に危険がありそうなときは、他の民生児童委員さんや市の担当者、あるいは警察の人に同行してもらうし」という私に、彼は「身体的な危険だけじゃない、暴言を浴びせられたり嫌味を言われたり、他人のトラブルに巻き込まれたりもするんやろ」と言いました。「まあ、不愉快なことを言われて、なんでそんなことを言われなきゃいけないのかなと思うことはあるけど、そんなことはあまり気にしないから」と応えると、彼は「お母さんはよくても俺は嫌や」と言ったのですが・・・その時の顔が、いつもの裕太とは違って、なんとも頑なというか・・・見たことのない厳しい顔だったので、少し驚きました。

それで・・・しばらくして・・・何となく・・・裕太の気持ちが、少し分かったような気がしました。彼は、わたしが傷つくのが嫌なのです。きっと・・・わたしが傷つくことが耐え難く嫌なんだと思います・・・たぶん。

藍那の事故の時、わたしは自分の気持ちに精一杯で、周りのことが何も見えていなかったし、正直、周りの人たちの様子はもちろん、自分がどんな様子だったかも覚えていません。ただ、わたしの前で、裕太が泣いているのは目にした覚えがないのですが・・・しばらくして母が近所の人から聞いた話によると、裕太は家の外で、一人茫然と立ったまま泣いていたそうです。それで、近所の人が驚いて「どうしたの」と聞くと、「お姉ちゃんが死んだ」と一言だけ言ったそうです。たぶん・・・絶対に、わたしの前では泣かないと、そう決めていたのでしょう。

わたしたち家族は、あの時も、あれからも、一度も「つらいね」「悲しいね」という話はしません。もちろん藍那のことは話します。いわゆる思い出話になってしまいますが、あの時こうだったとか、ああだったとか、そういう話は笑いながらします・・・けど、淋しいだとか悲しいだとか、もし生きていたらどうだとかこうだとか、そういう話は一切しません。話し合って決めたわけではなく、暗黙の了解の様なことだと思いますが・・・

でも、きっと・・・あの数日間のわたしの様子は、とても酷かったのだと思います。よく覚えていませんが、まあ、きっとそうでしょう、たぶん。そんなわたしに、自分自身の悲しみは決して表に出さず、ずっと寄り添い続けていた裕太は・・・心の奥深いところ、本人も意識しないような深いところで、とっても傷ついたのだと思います。姉を失ったという弟としての悲しみだけでなく、母がもだえ苦しむ姿を見た息子としての痛みが、彼の心に深い傷をつけたのだと思います。

だから、彼は、わたしが傷つく可能性があることを、極端に嫌うようになった・・・のではないか。そう、勝手に感じています。だとしたら・・・彼の、そういう気持ちを決して軽く見てはいけないな・・・と、そう思っています。


清潔じゃない方が美味しい?

2018-02-02 09:07:54 | Weblog
はるちゃんが、窓の結露を舐めてます。
毎朝、舐めます・・・(^^;。
あまり清潔とはいえないので、やめてほしいのだけど・・・

てんちゃんが、お風呂の湯船のお湯を飲みます。
わたしが湯につかっていると、風呂場のドアを上手に開けて入ってきて
湯船の縁にのって、ちゃぴちゃぴちゃぴと湯を飲みます。
あまり清潔とはいえないので、やめてほしいのだけど・・・
ついでに、ドアを開けられると暖気が逃げで、冬場は寒いので勘弁してほしいのだけど(^^;。

ちゃんと家の中に何か所か水飲み場を作って、清潔な水を置いています。
もちろん、それも飲むんですが、結露や風呂場の水を飲みます。
でも、たとえば台所のシンクの洗い桶に、汚れた水が残っていても、それは飲みません。
彼らなりに選んではいるのだと思います。

では、なんで結露や風呂の湯が選ばれるのか・・・
ほどよい不純物の混ざり具合なんでしょうか・・・それぞれの子にとって。

今は、とかく清潔が尊ばれます。
衛生的な事柄でも、ちょっと話が飛びますが道徳的な事柄でも。
でも、それって本当に好ましいことなんでしょうか。
当然のことながら正しいというか、悪いことであるはずはないんですが
本当に好ましいでしょうか・・・不純物は全て排除しなければならないのでしょうか。

不純物から得られること、不純物から生まれることもありますよね、きっと。