ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

プロレスってさ ゴリラ・モンスーン

2012-07-12 13:23:00 | スポーツ

人間台風。

それがゴリラ・モンスーンに名付けられた肩書きだった。まァ、リングネーム自体も外見に相応しくゴリラであり、暴れっぷりもモンスーン(インド洋で発生する台風)並みであるのだから、相応しすぎる気もする。実際にリング上で見かけたら、思わず納得してしまうと思う。

とにかくデカイ! 身長196センチなのはともかく、横にも縦にもでかい。胸板の厚さなんて人間離れしていた。そした女性の太ももほどの上腕が凄まじい。このぶっとい両腕で相手の足をロックしてグルグルと自分を中心にして振り回す必殺技がジャイアント・スウィングだ。

なぜか日本ではジュニアヘビーの馳浩や、女子プロレスで使われることが多かったジャイアント・スウィングだが、ゴリラ・モンスーンのものとは別物。巨漢にもかかわらず俊敏だった彼は、その回転速度も凄まじく、見ごたえ十分で、まさに人間台風の呼び名に相応しい怪物だった。

ただ、残念なことに来日回数は少ない。日本プロレス時代に4度来ただけで、猪木の新日本プロレス、馬場の全日本プロレスともに登場することはなかった。実はNYを中心としたWWWFに所属する人気レスラーであったため、来日するとしたら新日本プロレスのはずであった。

ところが、ゴリラ・モンスーン(本名ジノ・マレラ)はジャイアント馬場と個人的に親しく、彼への友誼をビジネスに優先して馬場のライバル会社での仕事を拒否してしまったため、来日してその姿を見ることは叶わなかった。

これはNYの帝王と呼ばれたWWFの看板レスラーであるブルーノ・サンマルチノも同様であり、社長のビンス・マクマホンは頭を抱えたが、人気実力の両巨頭がそろって馬場との友誼を優先したため、認めざる得なかった。

ゴリラ・モンスーンは、その特異な外見から当初は悪役レスラーとして活躍、いや大暴れしていたが、サンマルチノとの抗争劇の後和解してタッグを組み、善玉に転向している。NYでは絶大な人気を誇るレスラーであっただけに、その生の姿を見れなかったことは残念だ。

ちなみにプロレスラーを引退後は、リングサイドに陣取って、ケーブルTVの解説者として活躍し、そのユニークな解説で視聴者を沸かせて人気を博した。そればかりか、WWFの経営陣にも名を連ね、今日のアメリカのプロレス人気の礎を築いたとされる。

怪物的な容貌ではあったが、ビジネスよりも友誼を重んじ、レスラー仲間のみならずプロレス興行関係者からも信頼が厚かった稀有な人物。

私にとっては、文字通り伝説の名レスラーでもある。一度は生で見たかっただけに残念です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

政府の無関心

2012-07-11 12:04:00 | 社会・政治・一般

これほど腹立たしいニュースも滅多にない。

昨年度、ようやく成立した東日本大震災復興予算だが、呆れたことにその40%あまりが未だ実行されていないという。それだけではない。日本赤十字をはじめ、いくつもの震災寄付が日本のみならず、世界中から寄せられたが、少なからぬ寄付も未だ使われずに残っているという。

その報道を目にした瞬間、沸騰する薬缶の蒸気にも似た怒りが噴出した。しかし、まさかという思いと、事実に基づくものなのか調べる必要があると考えた。そして、やっぱり政府の予算に関しては、やはりほぼ事実のようであることが分かった。ちなみに寄付のうち義捐金は、大半の予算を執行しているようだ。

良くも悪くも、日本の役所の几帳面さが裏目に出て、いまだ実行に移せない予算は、東北三県に限らず、けっこうあるようだ。不正を防ぐため、あるいは公平を期すためなどと、いろいろ理由が上がられていたが、それだけではあるまい。

なによりも政権与党である民主党に、東北復興への情熱がない。放射能が怖いと、自分の選挙区にすら近づかない小沢は論外だが、怒鳴るだけだった菅・前首相も当事者だったくせに、今はもう忘れてしまっているらしい。

自分が金出して作った政党が、自分の意に沿わぬとむくれている鳩ポッポもそうだが、野田首相も党内融和と野党との協調にばかり目がいって、いまだ復興途上にある東北のことなんぞ、まるで念頭にない。

あれだけの広範囲な被害と、放射能の被害がある以上、それを自治体に任せるなんて、あまりに無責任だ。国家が主導してこそ復興の道筋は確かなものとなる。

思い出されるのは、あの自社さきがけの連立で出来た村山内閣だ。村山富一自身は、自らに行政を動かす器量に乏しいことを自覚していた。だが、なにをしなければいけないことだけは分かっていたようだ。

村山は、当時霞が関の官庁の事実上のトップである事務次官を集めて、阪神淡路大震災の復興にむけて各官庁の力を結集するよう頼み込んだ。また、自民党の族議員のボスたちを集めて、復興に向けての各業界の協調を依頼した。

村山がやったことは、ただそれだけ。丸投げとの誹りはあったが、それよりも震災の被害からの復興を優先して、各官庁、関係業界は力を合わせて一年たたずして、復興計画をまとめて、それを実行した。

私は村山を首相としては、決して高い評価はしていない。しかし、この実績だけは認めてもイイ。自らが主導する器量に欠けることを自覚したうえで、最善と思える行動をしたことは立派だと思う。まァ、これで在日米軍の応援を拒否しなければ、もっと評価してもいいのですが。

一方、菅及び野田の態度はどうか。まず、菅は自らが主導しての復興を画策したことは確かだ。しかし、この御仁、霞が関の官僚に対する不信感が強すぎて、役立たずの会議ばかり開いて、肝心の復興計画が進まない。あげくに、復興計画を口実に首相の座に居座り続けた。

おかげで、東北震災被害地の復興計画は遅々として進まず、我慢しきれなくなった地方自治体、民間企業がその限られた予算と人員で復興を進める羽目に陥った。これだけ広域の被災地を、各自治体や民間の単独行動で復興できるわけがない。

菅の後任の野田は、財務省の手先となって、消費税増税の実現とそのための党内融和にばかり気を配り、東北被災地の復興にはまるで目をかけぬ有様。それゆえに、いまだに被災地復興予算は一部がつかわれたのみで、大半が預金として眠っている。

もう一度繰り返すが、これだけ広範囲に及ぶ震災被災地の復興には、国が主導しての復興計画が必要不可欠だ。具体的にいえば、各官庁の協調と、関係業界団体の協力が必要不可欠となる。それなのに、その旗振り役がいない。いないのだ。

民主党政権が、日本にとっていかに有害か、有権者はこのことをよく理解したうえで、次の選挙で投票して欲しいと切に願います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Love まさお君が行く!

2012-07-10 16:26:00 | 映画

人前で泣くのが大嫌い。

だから、泣くと分かっているような映画は、あまり見たくない。見るのならば、一人家でDVDで見ればいい。そう思っていいる。それは今でも変わらない。ただ、知人のお子さんが観たがり、その付き合いで映画館に行く羽目に陥った。

お笑いと、いささかのお涙頂戴ものだと予測はしていた。予測通りの内容でもあった。分かっていたけど、やっぱり涙腺ゆるむぞ。

犬という動物が人間の身近な存在となった歴史は古い。もっともネアンデルタール人らの旧人類には犬と共同生活を送っていた形跡は見られない。犬が人間のそばで暮らしていたことが分かる痕跡は、クロマニヨン人ら現行人類の住居跡などから分かるが、氷河時代が緩み温暖化が進んでからだと考えられる。

いかなる経緯で犬と人間が仲良くなったのかは、いまだに謎であり、諸説いろいろある。一番流布しているのは、なんらかの理由で親犬と引き離された子犬を、人間が拾って育てて狩りに使うようになったという仮説だろう。

だが、近年の研究で犬自らが人間の生息域に積極的に入り込んできて、結果として共同作業をするようになったことが契機ではないかとの新説が出た。これは今もアフリカの一部の地域であるようで、野犬は人間の集落周囲に棲み、ライオンなどが近づくと野犬を吠えて人間に知らせる。結果として野犬は自らの安全を確保し、人間も早期にライオンの接近を知り、双方が利益を得る。

ちなみに、そのアフリカの村では犬を飼う習慣はなく、なんとなく自分たちの集落の近辺に生息する友好的な生き物として扱われているそうだ。アフリカでは犬は、あまり強い存在ではないがゆえに、最強の生物すなわち人間に寄り添うことで生き残る方策としていると考えられる。

私のその研究を知った時、犬は人間の都合だけで家畜化されたのでないと分かって、妙に安堵したことを覚えている。なぜなら、人間の都合だけで飼われたり、捨てられたりする犬を見てきたからだ。

犬は忠実な友となる。裏切ることを知らず、その黒いつぶらな瞳で飼い主に付き従う。その犬を人間の都合で飼いならし、人間の勝手で捨て去る。捨て去られた犬は野犬と化して、人間不信に陥り強烈な憎悪さえ抱く。

私はそんな野犬を何度か見ている。野犬に罪はない。責任を問われるべきは、捨てた人間の側にこそある。犬を飼う以上、最後まで面倒を見る覚悟が絶対に必要だと思うし、法律で義務化して欲しいと願っている。

もっとも最近は人間の子供さえ満足に育てられないダメ親がいるようなので、可愛いとの気持ちだけで安易に犬を飼いだしたバカ飼い主が、自分の一方的な都合で犬を捨てるのも、ある意味当然なのかもしれない。

殴るぞ、馬鹿野郎!

ところで表題の映画は、実話をもとにしている。「ポチたま」とかいう番組を見かけたことがあるが、どうもそれらしい。もっとも売れない芸人は見知らぬ人で、映画でその役を演じたSMAPのお兄ちゃんではなかった。

でも、売れっ子のSMAPのお兄ちゃんのいささか過剰な演技、そう悪くなかった。こんなお笑い芸人がいたら、たしかに売れないだろうな、と思ってしまったからだ。その意味で演技は相応なのだろう。

無理に見るような映画ではないけれど、観てもそう後悔することはないと思います。まァ、犬好き故の贔屓も加算されていますがね。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブロンズの男 ケネス・ロブソン

2012-07-09 13:18:00 | 

ディック・トレイシーよりはSFだけど、バットマンより現実的。

敢えて言えば、冒険活劇小説なんだろうが、当時はSFとされていた。ただし、宇宙船もエイリアンも出てこない。それでも、1940年代から50年代のアメリカにおいて、少年たちから圧涛Iに支持されたのが、ドッグ・サヴェッジだ。

紙質の悪いパルプ紙で濫造された少年向けの雑誌は、通称パルプ・マガジンと言われていた。ターザン、スーパーマン、超人ハルクなどのアメリカン・コミックのヒーローたちが、この雑誌群から生まれて絶大な人気を博した。

パルプ・マガジンのヒーローたちは、コミックだけではない。実は小説も連載されていて、その内容は多種多彩。推理小説もあれば、冒険小説もある。ファンタジー小説からサイエンス・フィクションに至るまで多くの作品を生み出した。コンチネンタル・オプやコナン、ジョン・カーターなどが有名だ。

そのなかでも、雑誌のタイトルになるほどの人気を博したのが、この「ブロンズの男」ことドッグ・サヴェッジだ。犯罪者に両親を殺されたが、その両親の親友たち、それも各分野の超一流のエキスパートに育てられた。サヴェッジは医師であり、科学者であり、軍隊武術の達人でもあるが、なにより冒険心に富んだ犯罪を憎む正義の男である。

冒険の最中に発見したマヤの金山を財力の元として、NYのエンパイヤーステイトビルのワンフロアを独占して、世界各地へと冒険に旅立つ。全部で180編あまりの作品が刊行されたが、残念ながら日本で翻訳販売されているのは、そのほんの一部に過ぎない。

翻訳発行元は、あの早川書房である。今でこそお高くとまっていやがるが、当時の早川書房及びその編集部はSFという分野を広めようとの熱い情熱に燃えて、次々と多彩な作品を出版した。

その情熱はイラストや表紙画にもあらわれていて、画家やイラストレーターにとどまらず、漫画家にも仕事を依頼していた。ちなみにこの作品の表紙画とイラストを手鰍ッたのは、漫画家のバロン吉元だ。

いささかバタ臭い画風ゆえに、現在はまず見かけることのない漫画家ではあるが、この作品にはピッタリの画風だと思う。私はバロン吉元の漫画といえば「柔狭伝」ぐらいしか知らない。この漫画も絶版扱いなのが、いささか残念だ。

そして、なにより残念なのは早川書房の方針転換だ。これは私の推測だが、1980年代頃から早川書房は、SFの高品質化を目指したように思われる。ラリー・ニーブンらの最新のリアルでハードなSFを積極的に取り上げる一方、スペース・オペラと揶揄された低品質(?)な冒険活劇SFを冷遇するようになった。

イラストは廃止して、表紙画も大人しめのものと変え、映画のタイアップがあれば映画の映像写真を表紙にもってくる。どうも、低レベルなスペース・オペラなどであまり売れない作品は、次々と絶版にして、SFのブランド・アップを狙ったように思える。

それゆえ、典型的なパルプ・マガジンの冒険活劇であったドッグ・サヴェッジのシリーズものなんざ、あっという間に店頭から姿を消してしまう有様だった。おかげで、私なんぞ、古本屋を走り回ってシリーズを揃えなければならなかった。

私は未だに、この早川の変心を許せなく思っている。スペース・オペラが低品質だなんて、あまりに一方的な見方に過ぎない。イラスト付きの本が、低レベルだなんて偏見に過ぎない。漫画家の描く表紙画よりも、画家の描くほうが高品質なんて差別に近い。

大人には大人に相応しい作品があるし、それを否定する気はない。しかし、子供には子供向けの作品が必要だ。当然、少年たちにも夢を見させる作品は必要なんだ。そして、少年の気持ち、心を思い出したい大人だっていることを忘れて欲しくない。

そんな訳で、今後も早川が絶版にしやがった作品を、こつこつと取り上げるつもりです。もはや古本屋でしか入手できない貴重品ばかりであり、いささか不親切な気もしますが、私のわがままゆえお許しくだされ。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クッキングパパ うえやまとち

2012-07-06 12:01:00 | 

目を閉じれば、今でも思い出せる。

薄暗い通路に入り、二つ目の玄関を開けると、四畳半ほどの広さの台所兼リビングだ。狭い廊下を抜けると四畳半と六畳の部屋があり、母と私たち兄妹3人の4人家族が暮らす我が家であった。

一応、鉄筋コンクリート造りの公務員宿舎なのだが、作りは古く、隣の瀟洒なマンションとは雲泥の差であった。が、あまり貧乏を感じることはなかった。周囲には団地が多く、皆似たような作りであったし、少し歩けばアパートと称するよりも長屋と言いたくなる木造家屋が軒を並べていたからだ。

大雨が降れば蛇崩川が氾濫して、辺りにドブの臭いが漂うのには閉口したが、子供たちの遊び場所には不自由しない街でもあった。案外、緑は多く公園や神社は、かっこうの遊び場でった。

遊び疲れて家に帰ると、私は台所にたってまずは米とぎをして、炊飯器の準備をしておく。母が帰宅するのは、いつも6時過ぎなので、それまでに夕食の下準備だけは済ませておく。

母に言われたから、やっていたのかどうかは記憶に定かでないが、私としては朝早く仕事に出て、疲れて帰ってくる母を手助けするつもりの米とぎであった。決して嫌々やっていたわけではない。

いや、むしろ興味津々で台所仕事を手伝っていた。ここへ引っ越す前に住んでいた祖父母の家だと、祖母が私が台所に立つことを許してくれなかったからだ。おばあちゃん子の私ではあるが、これはちょっと嫌だった。

だから引っ越して、母子4人だけとなると、喜んで台所にたった。もっとも最初は米とぎと片付けだけだった。そのうち、母と一緒にハンバーグをこねたり、餃子の具を皮に包んだりしていた。上の妹も手伝いはじめ、ただでさえ狭い台所は余計に狭くなった。

やはり妹のほうが上手いので、夕食時の料理の手伝いは控えるようになった。でも、ちょっかい出すのは長男様の特権である。おかげで、にぎやかな夕食時であったのは確かだ。そのうち小学校5年ぐらいから、自分一人でラーメンを湯でて作ったり、オヤツのゼリーやプリンを作ることも始めた。

ラーメンはともかく、オヤツはもっぱら妹たちと食べるためである。当時、私はいろいろと具材を加えてアレンジして作ることを楽しみにしていた。缶詰のフルーツを少し小さく刻んでゼリーに混ぜて固まらせるのが好きだった。

なかでも忘れがたいのがコーヒーゼリーだ。私の場合、正確にはコーヒー寒天なのだが、インスタントコーヒーの粉を溶かして、砂糖と混ぜてから寒天に溶かし込んでオヤツとしていた。まあまあの味だと自画自賛していたら、その年の夏にコーヒーゼリーが爆発的にヒットした。

ゼリーと寒天の違いはさておいても、私は自分のアイディアが盗まれた如くに悔しがった。特許でも取っておけば金持ちになれたのにと悔しがっているのを母が可笑しそうに見ていた。たぶん、味がまるで違うからだろう。

そんな訳で、子供の頃から料理することをまじかで見て育ったので、私は下手の横好きと承知しつつも料理が好きだ。でも料理教室などに通ったことはない。私の料理のメニューの大半は、野外生活で覚えたものばかり。

特に大学時代のWV部では、一年生は食事当番であり、嫌だろうと下手だろうとやらされた。ここで料理を覚えた奴は少なくない。ちなみに私が一番得意としたのは、米炊きだ。携帯型の灯油コンロで、しかも大鍋でコメを炊くのはけっこう難しい。

なぜに飯盒ではなく、大鍋かといえば、我が部では朝は男子1合、女子0,7合のご飯がノルマであり、夜は男子2合、女子1,5合である。飯盒なんかでチマチマ炊いていたら、全然足りないのだ。

もっとも「こんなに沢山のご飯、食べられません」と一年生から当初悲鳴が上がったが、合宿が始まり過酷な行動が続くと、最後にはご飯の取り合いとなる。最初はお椀一杯のご飯で満腹だと言っていた奴が、夏合宿の頃には一人で3合食べる有様である。

だから大鍋で、一気に20合近いコメを炊くこともある。これはけっこう難しい。で、私はこれを案外と得意にしていた。ポイントは匂いである。生炊きして固いご飯は、みんなから最も嫌がられるので、少し多めに水を入れて、溢れぬようこぼれぬ様細心の注意を払うが、それだけではダメだ。

私は炊きあがり直前の蒸気の匂いに注意を払った。鍋の底から少し焦げた匂いがたつ、その直前で火から下して蒸すのがコツだからだ。ちなみに、少し焦げた部分は、おこげとして人気が高く、鍋掃除の際の一年生の特権として与えられていた。

二年、三年になると、このおこげは我慢しなくてはならないとされ、一年生が美味しそうにおこげを食べるのを羨ましく見ていた。おこげは、多すぎると全体が不味くなるし、少ないと文句が出る。私はそのあたりのさじ加減が上手かったので、食事当番の大半はこの米炊きをやっていた。

おかげで大学四年間では、あまり料理のレパートリーは増えなかった。その私が飛躍的に献立の中身を増やしたのは、やはり難病に罹患しての長きにわたる療養生活の最中であった。

低たんぱく、低塩分の食事療法は無理強いされることはなかったが、私自身が薄味に嗜好を変えていたので、改めて計量器を買ったりして、薄味の献立を覚える努力をした。料理本も何冊も買って、自分で試してみて、何度となく失敗も重ねた。

表題に掲げた漫画本も、その料理本のひとつである。この漫画で取り上げられた献立を、見よう見まねでずいぶんとやってみたものだが、正直言ってあまり美味しく出来たものは少ない。

私の料理の技量が低いのが最大の原因だと思うが、美味しそうな料理が並ぶ漫画を見ながら「何故だろう?」と首をかしげたものだ。ただし、チーズ鍋なんかは上手く出来たから、献立次第なのかもしれない。

綺麗な写真で調理過程を解説している料理本は少なくないが、率直に言って写真よりもイラストもしくは漫画のほうが素人には理解しやすい。雑誌週刊モーニングに長く連載されていた人気漫画だけに、目にされた方も少なくないのではないかと思う。でも、自分でやってみた人、どれだけ居るのだろうか。ちょっと感想を聞いてみたい気がします。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする