ヌマンタの書斎

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大津市中二いじめ事件に思うこと

2012-07-24 12:04:00 | 社会・政治・一般
敢えて断言するが、いじめはなくならない。

社会的動物である人は、集団を作らずにはいられず、集団の内部での地位こそが重要なものであることを本能的に知っている。だからこそ、弱い個体をみつけて、いじめの対象とすることで、自らの存在をアピールして、集団のなかに強い地位を保つ。

これは人だけではない。確認されているだけでも、バンドウイルカ、チンパンジーなどにも同様ないじめがあると報告されているぐらいだ。ほぼ本能的な行動ゆえに、いじめをなくすことは出来ないと、私はほぼ確信している。

だが同時に、いじめを止めさせることも出来ると断言できる。簡単なことで、上位の地位者の命令で、いとも容易にいじめは止まる。もともと、集団内部での出来事に過ぎず、集団内の上位者には、強い権限があるがゆえに止めることが出来る。

だが、ここに厄介な障害がある。その障害の名を平等思想という。

この平等思想なる一見、素晴らしい思想が教育現場に踏み込んできたのは、やはり戦後のことだ。教え子を戦場に送り込んだ負い目からか、教職者の多くがマルクス主義の悪しき平等思想に染まった。

マルクス主義はすぐれて政治的な代物で、しかも閉鎖的な性格を持つ。学校という空間を閉鎖させて、内部を治外法権化させるのに大いに貢献したのが、このマルクス主義に染まった教職員組合であった。

私も数人そくざに思い浮かぶが、この平等思想に染まった教師たちは異様なほど、教師と生徒は平等だとの信念を持っていた。簡単に言えば、生徒と友達になりたがる。もっとえいば、壇上から降りてきて、生徒の輪の中に入りたがる。

私が小学生の頃、トラブルになった先生こそが、まさにこの生徒と友達になりたがるタイプだった。当の先生自身は、崇高な思想を自ら実践する喜びに浸っているように思えた。しかし、子供たちの視線は辛辣だ。

教師とは本来、生徒を教え導くものだ。教室という密室内部における最高権力者であると同時に、生徒に勉学を授ける重責を担っている。この責任あるがゆえに、強い権威をもつべき存在なのだ。

その特別な存在が、大人も子供も人としての権利は平等、などと言って壇上から降りてきやがるのだ。教師が自らまとう権威を脱ぎ捨てて、お友達の距離まで降りてきやがるのだ。なんだ、この自信の無さは。

私ら子供には、子供たちを教え導く自信がないからこそ、「僕、お友達だよ。だから言うこときいてね」とヘラヘラ薄ら笑いを浮かべて近づいてくる弱気な大人にしか思えなかった。

私の経験からすると、集団内部における強い地位を望む子供、すなわち「いじめっ子」にとって、この手の「お友達」先生は絶好の鴨である。この「お友達」先生を仲間に引き入れれば、どんないじめだって出来る。こんな面白いチャンス、滅多にないぞ。

現在、さかんに報道されている大津市の中学2年生自殺事件を引き起こしたのは、この手の「お友達」先生と、その先生を利用したいじめっ子だ。いじめた3人は既に転校しているようだ。なかには姓まで変えている奴もいる。親が離婚したのか、はたまた通名なのかは知らないが、ずいぶんと素早い対応だ。

そして、事件が発覚して以来、一度も姿を現さない担任教師。こいつが一番責任が重い。学校内でのいじめを止めることが出来るのは先生だけだ。その先生が、お友達のいじめっ子たちとの関係を重視して、いじめを黙認した。

私は自分で経験しているので分かるが、先生が断固たる態度でいじめを止めさせれば、必ずいじめは止まる。それが出来ないのは、まず間違いなく先生と生徒は平等などとうそぶく、情けない「お友達」教師である。

そして、子供の教育よりも組織の安泰を考える、本末転唐フ学校の最高責任者・校長が、今回はとくにひどい。ひたすらに責任回避、現実逃避に走り、保護者から如何に非難されようと、素知らぬ顔で「なかったこと」にしようと時間稼ぎ。

さらに悪質なのは、いじめっ子たちが転校して逃げ出す時間稼ぎを許した教育委員の面々だろう。もちろん被害届を受理することを避けた警察も同罪だ。当初「いじめっ子」たちの人権を口実に、責任回避を図り非難され、世論の非難を浴びて、ようやく問題があったことを認めだす始末だ。

組織ぐるみで、いじめは隠ぺいされ、子供を自殺に追いやったのが大津市だ。私に子供がいて、大津市の学校に通っていたら、転校さすことを第一に考えるし、大津市に住みたいとも思わない。

いじめって奴は、戦前どころか昔からしばしばあった。あったが、昔は大人がそれを止めた。いじめが悪質化し、暴走し、ついには自殺においやるほどひどくなったのは、戦後の民主主義教育が始まってからだ。

先生と生徒は平等だなんて、先生の責任回避に他ならない。教育現場から、この悪しき平等思想を一曹オない限り、今後もいじめを止められない教師の下でいじめは暴走するでしょう。

だが、教師のやるべき義務を怠っていても、その責任放棄を許す教職員組合ある限り、いじめは止められないと私はほぼ確信しています。実に苦々しく、憎悪さえ感じる確信なのが無念でなりませんね。
コメント (6)
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