ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

エヴァン・スコットの戦争 ミッチェル・スミス

2012-07-02 12:04:00 | 

気が付いたら、身近なところに、見知らぬ外国人が普通に暮らしている。

ただ、それだけで不安が募る。表面上は礼儀正しい普通の隣人に思える。でも、どこか違う。肌の色、言葉、食べるもの、服装と、やっぱり違う。きっと考え方も、行動も違うのではないか。

そんな不安感を押し隠しながら暮らしている人は多いと思う。日本は海に囲まれて、大和民族と言われた日本人だけで、長年暮らしていたのは確かだが、それも今は昔のこと。

現代の日本では、いたるところに外国人が暮らしている。シナやコリアだけではない。フィリッピンやバングラデッシュ、イラン、インドといったアジアの国もあれば、遠く中南米からの人たちもいる。

日本語を話すだけでなく、文章も書いて小説まで出している欧米人もいる。都心の丸の内界隈のオフィス街では、スーツ姿の白人の姿は珍しくもない。山手線のガード下の居酒屋に足を運べば、そこで立ち飲みしている若者に給仕するのはアジアの若者だったりする。

都心から離れた郊外の住宅地に行けば、パキスタン人が集団で住む界隈もあるし、スキーリゾート地である別荘には、オーストラリア人が豪勢な邸宅で冬を過ごしている。農村地帯に行けば、フィリピン人配偶者を迎えた家は珍しくもない。

当たり前の話だが、当然に地域社会との軋轢はある。それが事件となるケースだって珍しくはない。外国人が係る事件が増えるのも当然の流れであり、必然的に古くから住む日本人の間に反感と不信感が募るのは致し方ない。

だが、少子高齢化が進む一方で、社会システム自体が日本人だけで運営してくのが難しくなるのも必然的な流れでもある。安定して豊かな日本には、今後も外国人が流入してくるのは、到底抑えきれない。

既に地方の役場、市役所などでは、その変化に応じて現実的な対応を始めている。私が毎月訪れる群馬県の太田市の役所内は、六か国語で案内図が各所に置かれている。日系ブラジル人だけでなく、多数の外国人労働者とその家族が市内の下請け企業で働いている現実を踏まえての、試験的かつ先進的な対応をせざる得ないからだろう。

また東日本大震災を契機に、不安を募らせる在日外国人家庭への情報提供や、地域との交流を促進する動きもある。いやおうなしに、見知らぬ外国人が隣人として暮らしている現実が目の前にある。

そして、日本以上に外国人が流入しているアメリカでは、そのストレスに悩まされる。いくら人類みな平等だと謳おうと、異なる文化、風習、言語をもつ見知らぬ外国人への違和感は、そう簡単にぬぐえるわけがない。

そんな違和感が、表題の小説が書かれた背景にあると思う。率直に言って、有色人種に対する反感、嫌悪感、不信感があまりにきつく、読んでいながら、ここまで嫌わなくてもと思ってしまったのは事実だ。

ただ、その根っこには異文化に対するアメリカ人の無知と無関心、そして蔑視があるように思える。そして、その感情の対象である異文化の人々にも、同様な反応があることも確実だと思う。

アメリカという国がもつ表面的な姿だけ観て、その背景にあるキリスト教的価値観、民主主義の葛藤、人種差別に対する単純ならざる悩み、移民を多数受け入れた国が、これまで悩み苦しみ、解決策を模索してきた道程を理解しない異文化の人たちは少なくない。

とりわけ自分たちの文化の伝統、価値観をアメリカにあっても強固に守ろうとし、平気でアメリカの法慣習を踏みにじる人たちは実在する。犯罪大国でもあるアメリカにおいて、アメリカへ移民してきた人たちによる犯罪の多発こそが、それを証明している。

それでもアメリカは人種平等を謳い、有能なる者へチャンスを与え、豊かな富を享受する自由を誇りに思い、この立派な立て看板を守らんと頑固に振る舞う。それゆえに、理不尽な異文化によるアメリカ蹂躙を見逃しているのではないか。

そう考えるのは表題の著者だけではないはずだ。だからこそ、この本はアメリカではかなり人気を博した。ただし、それは密やかな支持にとどまる。なぜなら、アメリカの掲げる立派な立て看板に相応しい内容ではないからだ。

それでも売れた、それでも読まれ続けた。主人公は先祖より引き継いだ豪華な家に住み、名門の建築事務所でマイペースで仕事を楽しむ中年男性だ。趣味はヨットに乗馬と明らかに上流階級のアメリカ人である。悩みといえばヴィトナム戦争のトラウマに悩む程度で、あまりに恵まれた境遇は読者の共感を得にくいタイプ。

だがある日、建築中のビルの視察中に、墜落するアメリカ人女性を見かけてしまったがゆえに、理不尽な迫害を受ける。自殺というより事故に思える墜落事故を、ただ見ただけ。それだけなのに、謎の訪問者の来訪を受け、わけの分からぬ話をされ、あげくに偽警官の来訪まで受ける。

いったい、ぜんたい、何なのだ。

恵まれた環境のなかで、のんびりと仕事をこなし、良き夫、良き父親を演じてきた自分の人生に吹き込んだ、理解できぬ微風に戸惑っているうちに、愛人が殺された。しかも惨殺としか言いようがない。

妻の冷たい目線と、娘の困惑の眼差しに戸惑いながら、自分がのっぴきならぬ状況に追いやらている現実を知るが、誰も分かってくれない。なぜ自分がこのような目に合わねばならぬのか、理解できぬまま、彼はそれでも戦うことを選択する。

思いもかけぬ理解者と出会い、戦士として共に戦うことを決断した主人公は、この窮地を如何に切り抜けるのか。自分の国にいながら、自分の理解できぬ外国人に、自分の大切なものが奪われていく恐怖と怒りが、主人公を駆り立てる。

主人子はスーパーヒーローではないことが、この作品のミソだと思う。ただヴェトナム戦争に従軍した経験だけを頼りに、武器をつかむアマチュア戦士だ。政府に泣きつくでもなく、世間の手助けも求めない。

その意味では、きわめてアメリカ的なヒーローだ。だからこそアメリカで売れたのだと思う。正直、そのエンディングにはいささか違和感がある。いくらなんでも過剰防衛に過ぎる気がするが、その結論を受け入れてしまうのがアメリカなのだろう。一市民が脅かされただけでなく、アメリカの価値観に対する戦いだからこそ、なのだと理解するしかない。

その意味で、アメリカ人の好戦的傾向が端的に示された作品でもある。有色人種の私としては、ちょっと拒否したくなる部分はあるのだが、この作品がヒーローものとして受け入れられた背景は、よく分かる。

絶対にお勧めというほどの内容ではありませんが、興味がありましたらどうぞ。

コメント (2)
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