「インドの魔術師」と呼ばれた天才数学者・シュリニヴァーサ・ラマヌジャンの伝記映画である。僕は文系で数学はさっぱりだが、例の「フェルマーの最終定理」を読んでから数学者たちのエピソードとかに興味が湧き、この映画にたどり着いた。
僕のような文系人間にとっても、ラマヌジャンは面白い人物だ。円周率を無限に言えたとか、3000個以上の定理を見つけて全部ノートに書いたとか、数学しかやらないので大学を退学させられたとか。劇中に
定理は創られるのではなく、すでにそこにあり、誰かに発見されるのを待っている。
というようなフレーズが出てくる。数学の進歩や発展には脈絡とか順番があるらしい。例えばA、B、Cという定理があったら、次に見つかる定理はDだ。稀にEや、さらに飛ばしてFを見つける数学者が現れ、その人は天才と呼ばれて歴史に名を残す。
ラマヌジャンは、そこでいきなりZを見つけてしまう。そういう天才だったらしい。なぜそれが分かったのかというと、寝てる間にナーマギリ女神が教えてくれたから。
そんなだから定理を見つけても証明はしない。定理だけ大量に覚えてタイムスリップしてきた未来人という説もある。
だが、この映画では、面白エピソードや化け物じみた直感力のことはあまり描かれない。宗主国と植民地の差別の問題や、ハーディとの友情ばかりが描かれる。
ラマヌジャンを題材にした意味ある? 少ないが、劇中でも何人かのインド人学生が出てくる。彼らをモデルにしたフィクションでもいいんじゃね?
各種資料によると、ハーディは、ラマヌジャンの直感力を損ねないように、証明を強制しなかったという。ところがこの映画では、ハーディは証明することを厳しく求め、リトルウッドに何度も諌められる。その指導は徐々に緩くなっていくのだが、ラマヌジャンの個性を認めて友情を築くまで至ったという展開に持っていくために、事実を改変したのかなと思った。
要するに、ラマヌジャンの生涯をというよりは、国や宗教(ラマヌジャンは敬虔なヒンドゥー教徒でハーディは無神論者)や世代を越えた友情を描きたい映画なのかなと。でもそれだと、僕みたいなラマヌジャンの変態天才ぶりを映像で見たいという層は満足しないし、一応実話なので嫁姑が仲悪いとか、ラマヌジャンがあっさり病没するとかも入れねばならず、ストレートなヒューマンドラマにはなれてない。非常に中途半端な作品だった。
有名なタクシー数の話は一応出てくるが、これも友情を演出するためのシーンで、軽く流される。あと、字幕のフォントが汚かった。蔦屋で借りたんだけど。