![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/45/4b2191460773aebf5841dc93bd72f869.jpg)
RESANDO氏のブログに驚くべき記事が紹介されていた。
詳しくはループから抜けて参照。
要するに、かの人物が恐怖した機銃掃射の敵機は本当にP51ムスタング(マスタング)だったのか?
しかし、その前にクイズだ。
下の写真を見てこの飛行機の名前を正確に言えたらたいしたもんだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/0e/eb4d85650a5168877935eb02bd05e859.jpg)
ちなみに、これを町内の文化祭に出品した時、ご近所のお年寄り達(男性のみ)は
みな一様に
「おー、これは零戦じゃ。」「なつかしいのお、零戦」とのたもうた。
さらにこちらの写真を見せたときも
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/b9/6505c3419fc4e22e3a8b66150de32b74.jpg)
「零戦だ。零戦だ。」と大はしゃぎであった。
さて、「本物の零戦」はこちら。靖国神社の正面ロビーに飾られている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/b8/5eb100fe26fad36cf9a6e25aa1fa65e2.jpg)
最初のは「紫電」(川西)で2枚目は「疾風」(中島)である。
まことに失礼ではあるが、かの御仁は上の3種類の飛行機の区別が出来ていたのであろうか?
実は私の伯父は昔(現役の頃)教師で生徒からは「グラマン先生」と呼ばれていた。
伯父は理科の授業中に飛行機の爆音が聞こえてくると必ず、学生の頃グラマンに
襲われた話になり、ベルが鳴るまで語り続けた。しばらくしてその伯父に訊いてみた
のだがグラマンにF4FとF6FがあることもTBFアベンジャーというグラマンによく似た
飛行機があることも実はよく知らず、とにかく青黒く巨大な「艦載機」はみな「グラマン」
なのであったという。
で、ようやく話がRESANDO氏の記事に戻るのだが、かの御仁が襲われたのも「グラマン」
なのではないかと推測する。以下に根拠。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/ff/a723da8637ef117dc48c00fd27afc668.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/1e/9b66f4eaa0fd2eb0f6b739287f6048d8.jpg)
(手嶋尚:戦うヘルキャット“怒濤の攻勢”「世界の傑作機No.77」所収より)
2月16日という日付は太田の方の言説と一致する。
しかし、P51はその頃はまだ硫黄島にさえ上陸していないのだ。(以下)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/66/ec8d09a72e743f9c59471eb59fb695ee.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/4b/4c3a24730182e1f49ad60e940a73212b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/4b/984554638d72fd4c62866bf00f931910.jpg)
要するに、御仁が機銃掃射を受けたときに上空にいたのはP51である可能性は殆どない。
F6FかあるいはアベンジャーもしくはF4Uコルセアならば、近海の空母からの飛来で
十分ありうると考える。では、なぜ彼はP51とはっきり機種名まで特定できたのであろ
うか?その前にグラマンとP51の区別がついていたのであろうか?
下記はレイテ海戦時の米空母群の構成である。これがほとんど無傷のまま、日本近海に
とどまり続け,西日本を中心に空爆を繰り返していた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/e4/5c70f12b64511574ddb898a46657a8e6.jpg)
そのほとんどの空母がF6F(グラマン)を搭載していた。下記。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/e6/cc0e7aa9c47ea0179021b19d8e8938ed.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/e5/260edab6b52b76dcdc4b708e58094a53.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ce/b45b5c5eab2eec7221bfdaf8d939654b.jpg)
陸軍航空隊のP51がいかに長い航続距離を誇るとはいえ、テニアンやサイパン
から日本本土へ飛来し、帰還するというのは、航法上の問題も含め不可能だ。
かといってP51の空母艦載機仕様は検討試作段階で立ち消えており、これも
ありえない。
2月16日という日付が正しいのならば、おそらく空母(たぶんホーネットあたり)からの艦載機であるF6F、TBF、F4Uと考える。
その後、硫黄島に基地を確保するや、直ちにB29の護衛として、P51は頻繁
に本土上空に現れるようになり、その情報がメタ情報となり自分に機銃掃射をか
けたのはP51と判断されたのではないだろうか。
できれば、色とか(P51はぴかぴかの銀色、グラマンは濃いブルー塗装)
形状(P51は流線型でスマート、グラマンはずんぐりむっくり)などの機
の特色を氏が覚えておられれば、とは思うが、機銃掃射を受けている最中に
そこまで余裕があったかどうか・・・・・・。つまり、あとから考えて「あれは
P51だったのでは?」という程度(失礼!)の判断ではないかと推察する。
要は太田の御仁さんはP51に掃射を受けたのではなく、F6Fなどの「グラマン」達に機銃掃射をかけられたのではないかというのが私の見解だ。
詳しくはループから抜けて参照。
要するに、かの人物が恐怖した機銃掃射の敵機は本当にP51ムスタング(マスタング)だったのか?
しかし、その前にクイズだ。
下の写真を見てこの飛行機の名前を正確に言えたらたいしたもんだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/0e/eb4d85650a5168877935eb02bd05e859.jpg)
ちなみに、これを町内の文化祭に出品した時、ご近所のお年寄り達(男性のみ)は
みな一様に
「おー、これは零戦じゃ。」「なつかしいのお、零戦」とのたもうた。
さらにこちらの写真を見せたときも
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/b9/6505c3419fc4e22e3a8b66150de32b74.jpg)
「零戦だ。零戦だ。」と大はしゃぎであった。
さて、「本物の零戦」はこちら。靖国神社の正面ロビーに飾られている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/b8/5eb100fe26fad36cf9a6e25aa1fa65e2.jpg)
最初のは「紫電」(川西)で2枚目は「疾風」(中島)である。
まことに失礼ではあるが、かの御仁は上の3種類の飛行機の区別が出来ていたのであろうか?
実は私の伯父は昔(現役の頃)教師で生徒からは「グラマン先生」と呼ばれていた。
伯父は理科の授業中に飛行機の爆音が聞こえてくると必ず、学生の頃グラマンに
襲われた話になり、ベルが鳴るまで語り続けた。しばらくしてその伯父に訊いてみた
のだがグラマンにF4FとF6FがあることもTBFアベンジャーというグラマンによく似た
飛行機があることも実はよく知らず、とにかく青黒く巨大な「艦載機」はみな「グラマン」
なのであったという。
で、ようやく話がRESANDO氏の記事に戻るのだが、かの御仁が襲われたのも「グラマン」
なのではないかと推測する。以下に根拠。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/ff/a723da8637ef117dc48c00fd27afc668.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/1e/9b66f4eaa0fd2eb0f6b739287f6048d8.jpg)
(手嶋尚:戦うヘルキャット“怒濤の攻勢”「世界の傑作機No.77」所収より)
2月16日という日付は太田の方の言説と一致する。
しかし、P51はその頃はまだ硫黄島にさえ上陸していないのだ。(以下)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/66/ec8d09a72e743f9c59471eb59fb695ee.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/4b/4c3a24730182e1f49ad60e940a73212b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/4b/984554638d72fd4c62866bf00f931910.jpg)
要するに、御仁が機銃掃射を受けたときに上空にいたのはP51である可能性は殆どない。
F6FかあるいはアベンジャーもしくはF4Uコルセアならば、近海の空母からの飛来で
十分ありうると考える。では、なぜ彼はP51とはっきり機種名まで特定できたのであろ
うか?その前にグラマンとP51の区別がついていたのであろうか?
下記はレイテ海戦時の米空母群の構成である。これがほとんど無傷のまま、日本近海に
とどまり続け,西日本を中心に空爆を繰り返していた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/e4/5c70f12b64511574ddb898a46657a8e6.jpg)
そのほとんどの空母がF6F(グラマン)を搭載していた。下記。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/e6/cc0e7aa9c47ea0179021b19d8e8938ed.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/e5/260edab6b52b76dcdc4b708e58094a53.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ce/b45b5c5eab2eec7221bfdaf8d939654b.jpg)
陸軍航空隊のP51がいかに長い航続距離を誇るとはいえ、テニアンやサイパン
から日本本土へ飛来し、帰還するというのは、航法上の問題も含め不可能だ。
かといってP51の空母艦載機仕様は検討試作段階で立ち消えており、これも
ありえない。
2月16日という日付が正しいのならば、おそらく空母(たぶんホーネットあたり)からの艦載機であるF6F、TBF、F4Uと考える。
その後、硫黄島に基地を確保するや、直ちにB29の護衛として、P51は頻繁
に本土上空に現れるようになり、その情報がメタ情報となり自分に機銃掃射をか
けたのはP51と判断されたのではないだろうか。
できれば、色とか(P51はぴかぴかの銀色、グラマンは濃いブルー塗装)
形状(P51は流線型でスマート、グラマンはずんぐりむっくり)などの機
の特色を氏が覚えておられれば、とは思うが、機銃掃射を受けている最中に
そこまで余裕があったかどうか・・・・・・。つまり、あとから考えて「あれは
P51だったのでは?」という程度(失礼!)の判断ではないかと推察する。
要は太田の御仁さんはP51に掃射を受けたのではなく、F6Fなどの「グラマン」達に機銃掃射をかけられたのではないかというのが私の見解だ。
もう、終戦間際なんですね。
戦争体験者の御話は貴重なものですが、
このような「裏付け調査」がもっと行われて
然るべきだと思います。
(新聞社がやれよ!)
大田中島飛行機工場:
「2月10日にはB29四機が来襲したばかりであった。」
って書いてあました。
よく一緒にプラモ作りましたね!!
エアモデルを製作してると、自ずと「この飛行機はこうゆう名前でこんな性能の飛行機だ!」とか、歴史などもちょこっと解ったりして面白いですね。
いいネタをありがとうございます。
ご本人様に生取材したいです。
江戸東京博物館の東京大空襲展示も江戸中火の海状態で
びっくりでした。機会があったら行ってみてください。
プラモ、また、いっしょに作ってみませんか?
きっと、また、新しい発見がありますよ。
戦時の模型を作る際には徹底して関連する史料を読み込むことで、さまざまなことが見えてきます。その上でこの模型がどうして今私たちの目の前に提供されているのかよく考えてみることが非常に大切です。
なかなか変った飛行機でSF漫画にでも出てきそうなデザイン。カエルのようで可愛いと言うか。
手にとって見ると零戦とは似ても似つかない飛行機ですが確かに非戦闘員にとって飛行機は飛行機。戦争に使う飛行機は零戦。 だったのかもしれませんね。
確かに皆さんが仰るように戦後から冷静に時代交渉を考え直すのはとても重要なことです。
でも日本では二次大戦て言うのは証言がとれる歴史にも関わらず、あらゆる面で研究が進んでないですよね。こんなのは特にトラウマが残っている日本とかドイツといった敗戦国のみなんですね。
家の親は僕が兵器について興味を持つのも嫌がりました。
でも、いま大人になって思うのは
あの戦争は恐ろしかったと思うならば、なおさら戦争についての映像や知識を広く教えるべきなのです。
人から聞いた平和主義なんてものは薄っぺらいものですからね。重要なのは自分で感想を持つこと。
ふつう買い物をするとき人は価格対効果を良く見て買いますが
政治においての戦争もまさにそれです。
自分の国の軍隊の実力は実際どうだったのか?勝てるのか?勝てないならどうして勝てないのか。
国民は戦時中の高揚感やナショナリズムに任せて、日本軍のその実力には興味がなかった。マスコミもそうだったろうし。そんなことは売り物にはならなかった。
全ての戦闘機が零戦になってしまったりするのは
根本的なところで戦争に無関心である人間の本質を良くあらわしていると思います。
悲しいかな感情論がまかり通ってしまうのは今でも変りませんけどね。