写真:発掘現場から出土した本能寺を示す丸瓦=7日、京都市上京区の関西文化財調査会で
2007年08月07日21時15分朝日COM
織田信長が明智光秀に謀反を起こされ、自害したとされる「本能寺の変」(1582年)で焼けたとみられる瓦や堀跡などが、京都市中京区の旧本能寺跡の発掘調査で見つかった。旧寺をはっきり示す遺物や、本能寺の変の焼け瓦が見つかったのは初めてという。
関西文化財調査会(京都市、吉川義彦代表)が7月下旬から、マンション建設に伴い、同市中京区西洞院通六角下ルの旧本能寺跡の一部分とみられる約130平方メートルを調査していた。
瓦は、石垣が積まれた幅約6メートル、深さ約1メートルの堀の跡から、16世紀中頃の土器と共に出土した。ヘドロの中に大量に埋まっており、堀を埋めるために投げ入れられたとみられる。赤茶けた焼け瓦や本能寺を表す「●」(「●」は「能」のつくりが「去」)とデザインされた丸瓦もあった。本能寺は度重なる火事で「ヒ(火)」を嫌い、「能」の代わりに「●」を使っている。
焼けていない瓦もあり、吉川代表は「本能寺の変の火勢はそれほど強くなく、すべてが焼け落ちたわけではないと推測できる」と話す。今谷明・国際日本文化研究センター教授(中世史)は「本能寺の周囲に堀と石垣が見つかったことも、信長が防御に力を入れていたことを示しており興味深い」と話している。
>RESANDO氏の本能寺をご参照くだされ。
2007年08月07日21時15分朝日COM
織田信長が明智光秀に謀反を起こされ、自害したとされる「本能寺の変」(1582年)で焼けたとみられる瓦や堀跡などが、京都市中京区の旧本能寺跡の発掘調査で見つかった。旧寺をはっきり示す遺物や、本能寺の変の焼け瓦が見つかったのは初めてという。
関西文化財調査会(京都市、吉川義彦代表)が7月下旬から、マンション建設に伴い、同市中京区西洞院通六角下ルの旧本能寺跡の一部分とみられる約130平方メートルを調査していた。
瓦は、石垣が積まれた幅約6メートル、深さ約1メートルの堀の跡から、16世紀中頃の土器と共に出土した。ヘドロの中に大量に埋まっており、堀を埋めるために投げ入れられたとみられる。赤茶けた焼け瓦や本能寺を表す「●」(「●」は「能」のつくりが「去」)とデザインされた丸瓦もあった。本能寺は度重なる火事で「ヒ(火)」を嫌い、「能」の代わりに「●」を使っている。
焼けていない瓦もあり、吉川代表は「本能寺の変の火勢はそれほど強くなく、すべてが焼け落ちたわけではないと推測できる」と話す。今谷明・国際日本文化研究センター教授(中世史)は「本能寺の周囲に堀と石垣が見つかったことも、信長が防御に力を入れていたことを示しており興味深い」と話している。
>RESANDO氏の本能寺をご参照くだされ。
拙ブログの『事件の社会学―ニュースはつくられる 』のニュースにおけるオリジナルとコピーの関係がこの件に関しても該当するのではないかと思ってます。(今夜、その4を掲載予定。)
「なすび婆」の話http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/09/post_175a.html
ご参照下さい。
でも、比叡山全山を掘り返す訳にはいかないか。
これです。新聞で読んだ。探していました。
「事件の社会学・・・(その4)」もう少しあとでUPしまうす。
安土城につくられた天皇用の宿泊所とか信長の主要な合戦には公家衆が彼の勝利を祈願し同行していたなど気になる点が多々あります。