のろや

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ウォルシンガム話8

2011-04-14 | 忌日
4/13の続きでございます。

1586年9月、バビントン事件の共謀者たちへの尋問が始まります。
自分の役回りをあっさり自供し、バラード神父に何もかもなすりつけるバビントン。一方バラードは甘んじて罪を引き受け、陰謀の全容解明のため恐ろしい拷問にさらされることとなりました。出廷の際にはもはや自分の足では歩けない状態だったということですから、例の羊革長靴下も使われたのかもしれません。

ワタクシが嬉しそうに拷問拷問と言うもんだから、ウォルシンガムが拷問好きであるかのような印象をお持ちになるかもしれませんが、すみません、決してそんなことはなかったのですよ。こちらによると、エリザベスの、ひいては国の安全に関わるなどよっぽどの重大事でないかぎり、取り調べに拷問を用いるべきではないとウォルシンガム本人が明言していたということです。
また取調官トマス・モートンは、有罪か無罪かの判定が拷問によってなされるということはない、つまり拷問台にかけられる容疑者は明白な反逆の証拠が挙がっている者にかぎられており、陰謀の詳細を明らかにするためにのみ使われたと証言しております。

バビントンやバラードの計画はもちろんよっぽどの重大事であり、動かしがたい反逆の証拠も挙がっております。かくして暗殺計画の首謀者である7人は9月20日、セント・ジャイルズ広場で群衆の前に引き出され、あんまり詳しく述べたくないような仕方で処刑されたのでした。南無阿弥陀仏。

さて。
本命メアリ・スチュアートの裁判は10月14日に始まりました。
メアリは裁判の席で、ウォルシンガムが彼女を陥れたのだと面と向かって非難します。
仇敵からの非難を受け、ウォルシンガムは起立してこう答えました。


I call God to witness that as a private person I have done nothing unbeseeming an honest man, nor, as I bear the place of a public man, have I done anything unworthy of my place. I confess that being very careful for the safety of the queen and the realm, I have curiously searched out all the practices against the same.
神もご照覧の通り、私の行いには、一人の誠実な人間として恥ずべきことも、また一人の公僕としての地位に相応しからざることも、何ひとつございません。ただ女王陛下の御身の安全と我が国の安泰を図るため、両者を損なう恐れのあるものを駆逐することに、ひたすら心を砕いて参ったのです。


文句の付けようがありません。
そもそもメアリさん。もと弁護士の卵で、エリザベスをはじめ数々の王や大使や執政と命がけで渡り合ってきた歴戦の外交官であるウォルシンガムと口喧嘩したって、まず勝ち目はないと思いますよ、可哀想だけど。

このウォルシンガムの言葉、メアリに対しては「陛下にとってあんたは癌」という血も涙もない宣告である一方、エリザベスとイングランドのために身を捧げ尽くして来た彼の熱い信条/心情告白でもあったと言えましょう。
その思いにエリザベスが報いてくれたらよかったのですが。

よかったのです

誰もが予想していたように、メアリの逮捕はエリザベスの機嫌を大いに損ねました。
スロックモートン事件を受けて成立したあのBond of Associationにがあるからには、陰謀に加担したメアリは当然処刑されねばなりません。しかしエリザベスは諸々の事情から、どうしてもメアリを殺したくなかったのです。セシルに対して、今回のことでメアリに害が及ばないような配慮をしろという指示さえ出しております。 しかしここはセシルもウォルシンガムも、女王の不興をこうむったぐらいで身を引くわけにはいきません。メアリの死刑執行令状に何とかエリザベスのサインを頂こうと、廷臣たちは手を焼くことに。

そんな折、ネーデルラントで対スペイン反乱のお手伝いをしているイングランド軍から、サー・フィリップ・シドニーが戦死したとの報せが届きました。ウォルシンガムにとっては娘婿であり、サン・バルテルミの虐殺事件以来の若い友人であり、その詩人としての文才を愛でてもいた、あのシドニーです。

31歳で戦地に散ったシドニーは家柄も容貌も振る舞いも華やかで、自身が優れた文学者だったばかりでなく、文芸の一大パトロンとしても高名な人物でした。だからこそ彼の早すぎる死は多くの人々に悼まれ、文学者たちは生前の彼のパトロンとしての寛大さを大いに讃えたのでした。
とはいえ彼は長い間国政の要職に就くことができず、所領からの収入もかんばしくなく、その一方で彼の身分に相応しい華やかな体面を保たねばならず、何だかんだで結局亡くなる時までに膨大な借金をこさえておりました。その額、実に6000ポンド。ちなみに『エリザベス1世 大英帝国の幕開け』(青木道彦 2000 講談社)によると、当時の国務長官の年俸は100ポンドだったのだそうで。

シドニーの実父も彼の少し前に他界していたことから、ウォルシンガムはこの娘婿の残した負債を全て肩代わりするはめになりました。彼自身も決してふところの暖かい方ではなかったというのに。以前にも少し触れたように、ウォルシンガムは広大なスパイ網の維持運営のために私財を投じておりました。国外に常駐する70人以上のスパイに対して、彼はしばしば自分のポケットから手当や活動資金を出さねばならなかったのです。

そこへ振って湧いたこの巨額の借金。しかも賄賂も受け取らず取り巻きも作らない一方、”Intelligence is never too dear 情報にはいくら払っても惜しくはない”という信条の持ち主であるこの国務長官が、不測の事態のために貯蓄に励んだりしているわけがありませんでした。

実に嫌なタイミングで訪れたこの苦境に対処するため、ウォルシンガムは女王陛下に金銭的援助を請うものの、すげなく断られます。同僚たちが「彼はあんなにも陛下のためにお仕えしているのに、酷いじゃありませんか」と口添えしてもエリザベスは全く耳を貸しません。
バビントンをはじめ反逆罪で処刑された者たちの資産はウォルシンガムの厳重な管理のもとに国庫に納められていたので、その中から幾らか拠出してやったら...とセシルが進言しても完全無視。バビントンから押収した財産は、そのほとんどがエリザベスお気に入りの廷臣ウォルター・ローリーに下賜されたのでした。

”Oxford Dictionary of National Biography(2004)”から、ディクショナリーらしからぬ共感のこもった一文を引用しましょう。

With this something snapped.
ここで何かがポッキリ折れた。


疲労と心労が積もりに積もったウォルシンガム、メアリ問題継続中の12月半ばに、印璽を補佐官のデイヴィソンに預けてロンドン郊外の別宅に引っ込んでしまいます。無理もありません。
そんな状況でも、ひとり娘の旦那であり国民的英雄でもあるシドニーを、彼に相応しい華やかさで葬送してやることをウォルシンガムは忘れませんでした。2月にイングランドに帰って来たシドニーの遺体はこの月の16日、「英国で初めての国葬」とも称される盛大な式典とともにセント・ポール大聖堂に葬られたのでした。心身のダメージが激しかったからか、あるいは仕事がとんでもなく忙しかったからか、ウォルシンガム自身は葬儀には参列しませんでした。


シドニーの葬列。

ちなみに「国葬」といっても別に国庫からお金が出たわけではなく、エリザベスはこのもと寵臣の葬儀に際しても一銭も出費しておりません。
『市民と礼儀 初期近代イギリス社会史』(ピーター・バーク他 2008 牧歌舎)から引用しましょう。

フィリップ・シドニーは、特別に、豪華な葬儀を許された初期の傑出した国家的英雄だった。しかしながら、その莫大な費用を支払ったのは国王ではなく、シドニーの義理の父フランシス・ウォルシンガムであり、その負債のために彼は自身の葬式を簡素にするように遺言した。
p.108

これ読んだ時、正直ちょっと涙が出ました。

まあエリザベスがケチであることは疑いないとはいえ、メアリ処刑を前にして苦悩と苛立ちをウォルシンガムにぶつけたことについては、彼女に同情の余地がないでもありません。
メアリを処刑すればカトリック諸国からの激しい非難は免れない上、今までエリザベスが正面対決を避けに避けて来たスペインが、ここぞとばかりに戦争を仕掛けてくることは明白だったからです。

さんざんためらった末、1587年2月1日、エリザベスはついにメアリの死刑執行令状にサインします。そしてウォルシンガムがこの令状を見たら「悲しみのあまり即死するんじゃないかしら」と辛辣なジョークを飛ばしつつ、令状を病欠中のウォルシンガムのもとに回すようデイヴィソンに指示したのでした。

例のロンドン塔近くの自宅に戻っていたウォルシンガムに令状が届けられると、もちろん悲しみもしなければ即死もしなかった国務長官、腹心デイヴィソンと話し合って速やかに令状送達の段取りや死刑執行人の手配を取り決めるのでした。その一方で、令状が届いたその日のうちに、フォザリンゲイ城で幽閉中のメアリの監視役を勤めているエイミアス・ポーレット宛に「君がこっそりメアリを暗殺してくれれば、陛下の御心労も和らぐんだけど...」といった内容の手紙を特急で書き上げ、フォザリンゲイに送り届けております。

この悪魔と言うなかれ。これはウォルシンガムの独断ではなく、エリザベス本人の指示を受けてのことだったのですから。
あのさあ、エリザベス...いや、何も言うまい。

実際、もしも拘留中にメアリが誰かに殺害されていれば、エリザベスとしては万々歳でした。自らの手を汚さずに、メアリ排除というどうしても必要なことをやりおおせられるのですから。カトリック諸国から非難されても「秘書が勝手に」式の言い逃れができようというものです。
しかしポーレットはさすがにそんなことはできない、と翌日ウォルシンガムに断りの手紙をよこします。

かくして。
恐ろしく迅速な、とはいえ正式な手続きが踏まれ、デイヴィソンは女王のサイン入りの令状をフォザリンゲイに送達し、2月8日、メアリ・スチュアートはついに断頭台の露と消えたのでした。

自宅療養中という立場のウォルシンガムはメアリの処刑には立ち会いませんでしたが、メアリが旧教徒たちによって殉教者に祭り上げられることの危険性は重々承知しておりました。そのため「聖遺物」になりそうな遺品は全て-----処刑時に着ていた服から、持ち物から、彼女の血の付いた断頭台まで-----ウォルシンガムの指示により焼き払われ、切り落とされた首と身体とは王族らしく防腐処理を施した上で、鉛で裏打ちされた棺に収められたのでした。


メアリの処刑によってウォルシンガムもセシルも大いに女王の不興を被りましたが、彼らがのんびりもしょんぼりもしていられない状況が、イングランドには迫っておりました。
スペインの誇る無敵艦隊が、その舳先を英国の海岸に向けているという情報が、ウォルシンガムのもとに集まって来ていたからです。


次回に続きます。


(追記:お分かりのように、フィリップ・シドニーの盛大な葬儀が行われたのはメアリの処刑から8日後のことです。前年10月に死亡したシドニーの埋葬がここまで遅れたのは、このタイミングで国民的英雄の葬儀を行ってメアリの処刑から人々の目をそらすためだという憶測もありますが、これはさすがにうがち過ぎではないかと。ウォルシンガムは1586年内にレスター伯宛に書いた手紙の中で「シドニーの負債を清算しないことには、彼にふさわしい立派な葬儀をするわけにもいかない」と嘆いており、やはり金銭面の問題が大きかったようです。同じ手紙の中で「あなたが帰国するまでは埋葬を延期せざるをえない」と書いていることから、シドニーの叔父であるレスター伯からの帰国後の金銭的支援を期待したものと見られます。しかしレスター伯自身もネーデルラントでの戦費に私財を投じており、決して財政状況に余裕があるとは言いがたかったのでした。だからといってエリザベスご同様に一銭も出さなかったというのはあまりにもケチすぎる話ではあり、以降レスター伯とウォルシンガムとの間が冷え込んだというのも無理からぬことです。
ちなみにシドニーの死亡時に彼の妻、即ちウォルシンガムの娘であるフランセスは彼の陣営を訪れており、その死に立ち会ったものと見られます。身ごもっていたフランセスは帰国後に娘を出産したものの、子どもは死産、または生まれた後すぐに亡くなりました。)

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