のろや

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ウォルシンガム話9

2011-04-15 | 忌日
4/14の続きでございます。


メアリ・スチュアートが処刑されて
ウォルシンガムはひと安心。
セシルもひと安心。
女王陛下も(本音では)ひと安心。

ここで一人、割を食ったのが死刑執行令状の送達役をつとめたデイヴィソンです。
エリザベス、メアリの処刑をどーーーしても誰かのせいにしたかったらしく、メアリの処刑を知ったあとで「令状にサインはしたけど送達しろとは言ってない」と大激怒。デイヴィソンに巨額の罰金を科した上でロンドン塔に放り込んでしまいます。
まさにスケープゴートのデイヴィソン。Wikipediaを開いても経歴”Court official(廷臣)”の下に”Scapegoat スケープゴート” しか項目がないというのが何とも。

ウォルシンガムは弟分であるデイヴィソンのとりなしをしてやるため、2月14日に職場復帰します。
なーんて言うととってもいい先輩みたいですけどね、実はウォルシンガムもデイヴィソンのことを「なすりつけ先」としてちゃっかり活用しております。

1587年1月、つまりエリザベスがメアリ処刑令状にサインする前月のこと、またも女王に対する陰謀計画が発覚しました。あるいは、発覚したように見えました。

陰謀の概要は、例の借金浸け駐仏大使スタッフォードの弟であるウィリアム・スタッフォードと駐英フランス大使が共謀してエリザベスを毒殺する計画を立てていたというものでした。これを受けてフランス大使は牢に繋がれます。メアリと繋がりのあるフランス王室はメアリの処刑に反対でしたが、大使の拘束によって抗議の道は封じられてしまいます。またここに至ってなお女王暗殺の陰謀が企てられたことは、エリザベスをメアリの処刑へと踏み切らせる後押しともなったのでした。

この「陰謀」、自白によって一旦は投獄されたウィリアム・スタッフォードが翌年には何事もなかったように釈放されていることなどから見ても、実際に暗殺計画があったわけではなく、フランスを牽制しつつエリザベスに脅しをかけるために仕組まれた、いわば偽装陰謀であったという見方が有力です。主君に対してこういうことをぬけぬけと仕組んだのは、まあ、おそらくきっと十中八九、我らが国務長官サー・フランシスでしょう。

2月にメアリが処刑され、デイヴィソンがとばっちりでロンドン塔に投獄されると、ウォルシンガムはフランス大使を訪れて容疑は間違いでしたと謝罪し、しゃあしゃあと「担当のデイヴィソン君が未熟だったもので」とのたもうたのでした。

1589年にやっとこさ釈放してもらえたデイヴィソン君。罰金は帳消しになったものの女王に再び登用されることはなく、ロンドン郊外で貧窮のままひっそり生涯を終えたのでした。ウォルシンガムはこの頃にはかなり身体が衰えており、病欠が続いて議会での影響力も弱まっておりました。しかしもし元気だったら、この弟分のために何か手を回してくれたのではなかろうかと、ワタクシは信じております。何故と言われても困りますが、何となく、そういう人のような気がするのです。

(追記:デイヴィソン君がロンドン塔から釈放されたのは、セシルとウォルシンガムからの「陛下に内緒で出してやって」という働きかけがあったからでした。また復職させるのは無理であったものの、ウォルシンガムは弟分が宮廷を離れた後も、恩給の一部を受け取れるよう根回しをしてやったのでした。)


16世紀のロンドン塔のスケッチ

不幸なデイヴィソン君の話がつい長くなりました。
アルマダ戦です。

スペインとの全面対決が避けがたいと判明したのは1587年のことですが、ウォルシンガムは1582年頃には対スペイン戦をかなり現実的なものと見ていたようで、いざとなったら教会から世俗的収入の一部を徴収するべきだという提案なんぞをしております。
エリザベスが(スペイン船に対する英海賊の襲撃は歓迎しながらも)なるべく「いざ」ということにならないよう曖昧政策をとっている間、ウォルシンガムは大陸に放ったエージェントたちからスペイン海軍の情報をかき集めておりました。中でもトスカーナ公に仕えるアンソニー・スタンデンという男が送ってよこす情報は有益で、彼を優秀な男と見込んだウォルシンガムは彼にローマへ行ってイタリアの出方を探ることや、フランス、次いでスペインに潜入してスパイネットワークを作ることを指示しております。

こちら↓で1587年5月ごろの、ウォルシンガムからスタンデン宛ての手紙を見ることができます。クリックで拡大します。
The National Archives | Research, education & online exhibitions | Exhibitions | Secrets and Spies
長官、もうちょっと丁寧な字で書いてください。読めません。

ウォルシンガムに見込まれただけあって、実際、スタンデンは優秀でした。彼の活躍のおかげでフランス・スペイン両国の宮廷内からも情報が入ってくるようになり、1587末までにはスペイン海軍の軍船の数、種類、陣容、乗員数、兵器、軍需品や糧食、さらにはドレイク船長がカディスを急襲して「スペイン王の髭を焦がし」た際のスペイン側のダメージの大きさや、スペインの巷でドレイクが恐れられていることを示す井戸端情報(士気を高めるためにドレイクを揶揄した歌が作られた)まで、ウォルシンガムのオフィスに届いていたのです。

しかしネーデルラントのスペイン総督パルマ公を通じての和平交渉に望みをかけていたエリザベスは例によって、ウォルシンガムの「スペイン戦に備えないとやばいんですってば」という警告になかなか耳を貸しません。常のごとくセシルもまた女王と同じ見解に立っております。外交政策ではいつもウォルシンガムと一致していた友人レスター伯は今はネーデルラントにおり、しかも失策によって女王の寵を失いつつありました。ちなみにレスター伯のネーデルラントでの動向や、彼のイングランド軍内での不人気のほどもウォルシンガムによってスパイされておりました。あんたって人は。

(追記:ウォルシンガムが友人にスパイを差し向けたのはこの時が初めてではなく、例のだだ漏れ大使カステルノーさんも、ウォルシンガムのフランス大使時代からの古い友人でした。何も知らないカステルノーさんは本国に召還されたのちも、彼のキャリアを潰したいわば張本人である「よき友」ウォルシンガム氏と、温かな手紙のやり取りを死ぬまで続けたのでした。)

ウォルシンガムにとって唯一幸いだったのは、彼がスペイン側の張った煙幕にすぎないと見なしていたパルマ公との和平交渉に、今度こそ引っぱり出されずに済んだことでした。また体調を崩していたので。
上述のように2月には職場復帰していたサー・フランシスですが、8月には例の泌尿器系疾患が再発、9月には熱を出して年末まで再び病欠を余儀なくされました。まあ、ワーカホリックである彼がこの間おとなしく寝ていたとは思えませんけれども。

11月にはレスター伯に宛てた手紙の中で、いつもながらの皮肉な調子で現状を嘆いております。

The manner of our cold and careless proceeding here in this time of peril,maketh me to take no comfort of my recovery of health, for that I see, unless it shall please God in mercy and miraculously to preserve us, we cannot long stand.
このような危機的状況下での人々の冷淡で無関心な態度を見ていると、我が身の健康が回復した所で喜べそうにありません。神が御慈悲を垂れて奇跡でも起こしてくださらないかぎり、我が国が長く持ちこたえられないのは明白ですから。


自分が女王陛下に嫌われていることを骨髄に沁みるほどよく分かっていたウォルシンガム、ここで巧妙な迂回路をとることにします。

エリザベスが「私の海賊」と呼ぶお気に入りのドレイク船長に、女王宛の私的な手紙を書くことをこっそり勧めたのです。ドレイクは1577-80年の世界周航の時から資金面でウォルシンガムの世話になっていた旧知の間柄で、もちろん対スペイン戦がんがん行こうぜ派でもありました。
手紙の中でドレイクは、乗組員たちがいかに意気軒昂であるか、今のタイミングで積極的な行動を起こすことがいかに重要かを強調します。翌年の春には再び女王に手紙を書き、パルマ公の和平交渉は煙幕にすぎない、というどこぞの国務長官が言いそうなことを主張し、迅速な軍事行動を重ねて求めました。
その手紙が女王のもとに届いた数日後にドレイクは枢密院に呼び出され、彼の唱える戦略について説明しております。その結果、エリザベスはやっと軍備増強に乗り出し、装備を固めた英国海軍はプリマス港へと集結したのでした。

「私が言っても聞かないくせに」と心中で愚痴をこぼしたかどうかは分かりませんが、ともかくウォルシンガムがドレイクの影に隠れてのばした長いリーチは、何とか女王を動かすことに成功したのでした。

(追記:もちろんウォルシンガムは、女王の説得をドレイクに任せてその間ぼーっとしていたわけではありません。かねてから対スペイン戦は避け得ないと見ていた彼は、この3年前からトルコが海上からのスペイン領攻撃に乗り出すようスルタンを説得せよ、という指令をトルコ駐在の英大使に出しておりました。
残念ながらトルコは動きそうにありませんでしたが、ウォルシンガムの多方面から攻めます戦法は、地理的な面での作戦に留まりません。

スペインが北イタリアの銀行家から融資を受けていることを掴んだ諜報局長、銀行家たちに働きかけて融資をストップさせます。カディス奇襲の損害を穴埋めするためにもどうしてもお金が必要だったフェリペ2世、「こんな時に貸し渋りかよ!」と嘆きつつ(多分)、目を転じてローマ教皇に融資をお願いします。教皇、融資そのものは承諾してくれたものの「君らがイングランドに上陸してから半額、残りの半額はおいおいと貸出ししたげる」と何ともケチなおっしゃりよう。思わぬ肘鉄をくらったフェリペ、「だからその上陸のためにお金が要るんだってば」と嘆きつつ(多分)、アジアから富を積んだ船が帰ってくるまで待たざるを得なくなったのでした。
「大事な時にケチられるのってつらいよね」と我らが国務長官がつぶやいたかどうかはこれまた定かではありませんが、彼が作戦がひとつ成功したからといって安心するような人ではなかったのは確かで、様々な裏工作を仕掛ける一方で、万が一陸上戦になった場合の作戦を練ることも怠りませんでした。

・海岸での総力戦か、あるいは焦土作戦を取りつつ敵軍を内陸へと誘い込み、消耗を図るか。
・襲撃を受けそうな場所はどこか、またそこへ派遣するべきいかなる人員がいるか。
・工兵を派遣するにあたって、各地において土地鑑のある案内人をどの程度用意できるか。
・女王陛下の身辺警護には馬、人、合わせてどのくらい必要か。
・ロンドンが攻撃を受ける事態となった場合、どの方面からの攻撃が考えられるか。それに対処する最善の方法は何か。

「スペイン王よりもスペイン海軍のことをよく知っている」とまで言われたウォルシンガムでしたが、あるいは、だからこそ、ドレイクやジョン・ホーキンスら有能な船長たちを信頼しつつも、英海軍の撃沈という最悪の事態をも視野に入れてこの戦いに臨んだのでした。)

一方、敵国に手強い諜報局長がいることを知っていたスペインとても、情報を洩れるがままにしておいたわけではありません。ウォルシンガムは無敵艦隊が装備を固めているという情報は得ていましたが、出航のタイミング、あるいは実際にイングランドに向けて出航するのかどうかについては、彼にも確かなことは分かりませんでした。もちろん、他の人々はなおさら分からなかったわけですが。

1588年7月、いよいよアルマダ来襲との情報が固まった時、ネーデルラントから戻って来てテムズ河口のティルベリーに軍を構えたレスター伯は、女王自身が陣営を訪れて将兵たちを激励するよう進言します。
そんな危ないことさせられるかと廷臣たちがこぞって止めるのを振り切って、エリザベスはティルベリーに赴き、白いシルクのドレスに銀の胸当てといういでたちで兵たちの前に進み出て「私は自分が女性として肉体が弱いことは知っているが、一人の国王として、またイングランド国王としての心と勇気とを持っている」のくだりで有名な、歴史に残る名演説を行ったのでした。

この時、ウォルシンガムも女王に同行してティルベリーの幕舎に身を置いておりました。
(He...intended himself) "to steale to the campe, when her majestie shall be there"
陛下が戦場においでになるならば、私もお供いたします。


ああ、なんて健気なんだフランシス。
あんなに邪険にされたのに。
もっとも、ウォルシンガムについて来られて女王陛下が喜んだかどうかはかなり怪しい所ではあります。またウォルシンガムの方でも、彼女のセキュリティのためという以上に、ことここに至って女王がいつもの優柔不断を発揮しないよう押したり引いたりするのが同行の一番の目的であったかもしれません。



女王陛下に「神が御慈悲を垂れて」くだすったのは、皆様ご承知の通り。悪天候と機動性の高いイギリス軍船に悩まされ、無敵艦隊は敗走。イングランドは喜びに沸きます。
より徹底的にスペインを叩いておくべきだと考えていたウォルシンガムは渋い顔で「leaveth the disease uncured 病気を完治せぬままに残してしまった」 とつぶやいたものの、この海戦での彼の貢献のほどをよく知っていたセシルは「you have fought more with your pen than many here in our English navy with their enemies 君はペンの力によって、我が国の海軍よりもいっそうよく敵と戦った」と言って、気難しい同僚をねぎらったのでした。
(追記:この台詞はセシルではなくドレイクによるものと書いてある資料もあります)


うーむ、やっぱり終らなかった。
もう少し続きます。



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