元ベース弾きの田舎暮らしは

60歳で田舎にUターン、素人の「米と野菜」作り
音楽が縦軸の人生
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私の音楽・人生の師「保科洋」

2006年11月04日 | 作曲家 保科洋
作曲家でもあり指揮者でもある保科洋先生が私の「人生の案内人」です。大学の入学式のオリエンテーションで生演奏を聴き迷わず大学のオーケストラに入りました。それまでは親父の好きな三波春夫と祖父の浪曲が音楽でした。でも何かが私を衝き動かしたのです。そしてコントラバスを始めました。

そのとき指揮者だったのが保科先生です。およそ40年前です。音楽の何たるかは未だに良くわかりませんが、私にとって先生は「羅針盤」だったのです。先生は当時30歳前後だったのでしょうが、他の人とまったく別次元の人でした。怒る代わりに戸惑ったような、困ったような、寂しそうな表情が当時の先生の感情表現でした。しかしうれしいときには、顔中で笑い周りもそれに吊られて明るくなるそんなことが今でも思い出されます。大学の汚い合宿所(馬場の隣の旧兵舎跡?)で一緒に過ごしました。自分が健忘症かボケに入っているので、経験か伝聞か定かではありませんが、五右衛門風呂を洗いその中で大量のおでんを作り食べたこと(今になって言えますが昔人にはとても言えませんでした)が良き思い出です。

保科先生が最近私の住む浜松にも、財団の依頼で指導者育成やクリニックに来られます。娘の音大進学の件で相談に乗っていただくとき我が家においでいただきました。トランペットで進学したい三女やジュニアオケでチェロを弾いている四女がカミさんの横でうなずきながら聞いていたのが2年前です。親子二代に亘り先生にお世話になるなんて幸せです。今でも大学で指揮してもらっていて、教え子の数はすごいでしょう。こんなに長期間指揮者を続けているケースは他にはないでしょう。

就職するとき、音楽が頭から離れず、浜松の今の会社に入りましたが、部門は希望と異なり仕事で音楽に携わったことはありません。社内でカミさんと知り合い結婚しました。そして4人の娘を授かりました。音楽が好きで、楽器会社に入社し、子供の中に音楽を志す娘がでてきたこと、その源は保科先生の人柄と音楽観です。
コメント (2)
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