仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

嫁のお陰

2020年09月04日 | いい話

古い資料を見ていたら、西方寺へご法話に来て下さる栗山一思師の月刊誌『大乗』への投稿記事がありました。法事の席で、よくお念仏を称えている人がおられたので、事情をお尋ねしたところ、その奥さんが教えてくれたという内容です。

 (奥さん)「ご院家さん、私の善知識は息子の嫁なのです。実は私は息子に嫁が来てくれた時、私は大変うれしかった、また、期待もしました。大切な息子の嫁ですから、私なりに嫁に尽くしたつもりですが、嫁は私に対して心を開いてくれませんでした。たとえば、外出した時など必ず嫁にお上産品を買って帰るのですが、お礼一つ言ってくれません。一から十までがこの調子で、私なりに嫁の為にと色々手を尽くしたつもりですが、どうしても駄目でした。私のことを『お母さん』と呼んくれないのです。私の心は鬼になりました。会う人には愚痴をこぼし、嫁を心の中でなじり続けました。
 そうして十年程経ったある日、私はお念仏の同行に嫁のことを愚痴りました。『私は十年間辛抱してきたが、嫁といったら相変わらずでね。いつになったら気付いてくれるかと待ち続けたが、もう愛想も尽きた……』
その時、黙って聞いていた同行が私に言ってくれた言葉が私の胸に突き刺さりました。  『あんたは十年間嫁が気付いてくれることを待ったと言うが、阿弥陀さまはそれどころではないよ。十劫の間、あんたを喚び続け、待って下さっていたのではないかね……』
 私は長年御法縁に遇いながら、何を聞いていたのかと思いまし拒み続ける私を抱いて下さっていた。嫁が私を『お母さん』と呼んでくれない十年間、私はつらい毎日でしたが、阿弥陀さまは十刧の間、どんなお気持ちだったろうかと思うと申し訳けないやら、有難いやら、ご院家さん、それから私はお念仏が喜べるようになったのです。
そして不思議なことがありました。それまでの私の嫁の態度の一つ一つが気になり心に障り続けて来ていたのですが、嫁の態度が気に障ら度が気にならなくなったのです。私が、お念仏を喜べるようになっだのは嫁のおかげなのですよ」。
お念仏の薫るご法事でした。

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