仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

“神”がよみがえる

2020年09月13日 | いい話

法話のご縁を頂くようになって40数年、いい話やこれはと思う逸話などは、昔はカードにしてストックしていました。いまはそのカードも、あまり見る事なく、片隅に積まれています。そのカードの整理を始めると、廃棄処分のケースがほとんどです。現在はネットでしらばると、情報がすぐ入手できるからです。廃棄されるカードの中から、いい話をアップして紹介しておきます。

ある日、パリ(フランス)の社会事業団体事務所に、目の見えないお婆さんが訪ねて、手探りで一つの状袋を差し出しました。受付の青年が調べると数フランのお金が入っていました。青年は状袋を押し返して「おばあさんのような人から寄附して貰わなくともいいんだよ」と、なかば軽べつした態度で断りました。

 目のみえないお婆は「あなた、ちょっと待って下さい。このお金のおかけで私は“神さま”を見ることができたのです」と謎のようなことを言うので、青年は不思議に思ってそのわけを聞きました。お婆さんの言うには 「私には息子があります。遠方にいますが毎月仕送りをしてくれます。ところが昨年の暮に私は目を患って、ごらんのように盲目になりました。けじめはずいぶん苦しみました。悩みました。然し、これも神さまの深い思召しからだと信じました。私は、その思召しに適うようなことを何一つせずに死ぬことが悲しく、目が見えないわたしに出来るものはないだろうかと思案しましたところ、偶然、燈火(あかり)が不要になったことを発見いたしました。そこで、燈火代を状袋に入れて貯めたところ、これだけになったのです。広い世の中にはわたくし以上に困っているお方がたくさんおありだと存します。どうぞ、そのお方たちのお役にたったら、何もしないで死ぬよりも、神さまの思召しに少しでも叶うことと思います。どうぞ受取って下さい」と見えぬ目をしばたきながら、ていねいに頼むのです。そして、「目が見えた頃は、醜いものばかり目につきましたが、今はそれが見えません。今では世の中も嬉しく、息子の顔も、この心の瞳みえるようになりました」と、微笑を浮かべています。

 受付の青年は、身体がキユッと引きしまる思いで、さき程の失礼をわび、上役の人と共に心からお礼を言って正規の手続きをふんで、お婆さんの寄附金をいただきました。

 このお婆さんのお話を聞き伝えて社会事業に協力する人がふえて来て、ある日の新聞に「パリ全市に“神”がよみがえる」との見出しで報道されました。(リーダーダイジェスト)

 

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