仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

遺言は南無阿弥陀仏

2020年09月26日 | いい話

法話メモ帳より

 

岩田屋(昭和10年開業)は、九州最大の繁華街である天神(福岡市)に本店を置くむ三越伊勢丹ホールデイングス傘下の百貨店で、天神本店は九州最大の売上高を誇っています。

岩田屋は、初代中牟田喜兵衛(大正10年没)が、日本の伝統的な帳合を止めて西洋式の簿記を導入し、1903年(明治36年)に博多支店で従来の掛け売りを止めて正札販売に切替えるなど近代化を進めたことが成功して1906(明治39年)には博多でトップの呉服店へと成長し、そしてご養子には入った2代目中牟田喜兵衛が、天神(福岡市)で岩田屋百貨店を創業します。博多の発展と共に経営を拡大していきました。

 

その初代中牟田喜兵衛の逸話です。40年前に法話で聞いた話です。

 

初代の福岡県甘木市(現在合併)生まれで、有難い浄土真宗の門徒であった。丁稚奉公から一代で財をなした。臨終の時、子どもたちを枕元によび「わしは今からお前たちに遺言を言う」と云い「財産譲り渡し状が遺言ではない。それは言わずとも法律が決めて下さる。その遺言は、今言っても、お前たちの胸にピシャッとこないだろうから、私が死んでお葬式が終わり、お墓まで送って、何もかも終わったときに、遺言状をお仏壇に中に入れておくから、、その遺言状を開きなさい。」と言われた。遺言状を開く日となって皆が集まった。仏間でこれから遺言状を開く旨を伝え開くと、中には白紙の包み紙、3.4.5.6枚目に「遺言のこと」と記してあった。その中に一枚紙が入っており、「南無阿弥陀仏」とあった。一瞬、シーンとした空気が流れたが、子どもたちは大きなため息をついた。(以上)

 

後継者たちは、初代中牟田喜兵衛の真意を分かっていなかったという話ですが、本当の話か不明でした。本日、『天神のあけぼのー中牟田喜兵衛伝』(西日本新聞社刊・花田衞著)を購入して落掌しました。これは二代目の中牟田喜兵衛伝です。この二代目が、大阪の阪急デパートが終着駅にあるひとをヒントに、西鉄電車の終着駅である福岡天神にデパートを創業して博多の町を盛り上げた方です。その一部始終は「天神のあけぼの」に記されています。その本の中に初代中牟田喜兵衛のことが記されてありました。その部分のみを転載します。

 

喜兵衛は初代喜兵衛についてさらに言う。

  「趣味や道楽はありませんでしたね。相場というほどのことはないけど、株を少しやっていましたが、損をしたことは一度もないと話していましたね」

 「信仰心は厚かったですね。浄土真宗です。毎朝三十分ほどお経をあげてお勤めをしていました。仏壇の前には養母(エン)も私も一緒にすおりまして読経です。朝食前のお勤めは眠気が覚めて心も落ち着くし、健康にもいい。これは間違いありませんな。夜も同じように三十分ほどお経を唱えます。おかげて私も、いまでもお経は読めますし、長命できています」

  「説教もよく聞きに行きました。菩提寺だけでなく、福岡市内に高名なお坊さんが来られて説教があるというと、連れられて私も店員たちもよく出かけました。正法寺では年一回、親鸞のご命日に報恩講があります。これにも行きました。永代講といって一週間続くのがあり、このときは先代以下全従業員がそろって出かけました。一週間は店でも精進料理です。

 肉、魚など生臭いものはいっさいいけないとあって、料理人は包丁をといでにおいを消したものです。一週間が終わると精進落としで、盛大なスキヤキ会を開きました。店員たちもこれは楽しみにしていましたねえ」

 この朝夕の勤行も喜兵衛は引き継いだ。長男・喜一郎(岩田屋社長)はじめ子拱たちは喜兵衛の横にすわらされてお勤めをさせられた。だから喜一郎社長も栄蔵専務も、少しぐらいならお経を読める自信がある。(以上)

 

この方ならば「南無阿弥陀仏」の遺言を書くだろうと味わったことです。

 

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