仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

帳尻合わせの…

2010年12月16日 | 日記
今年最後のお寺での法座でした。“帰洛路を歩く”実行中なので、親鸞聖人のご一生(ご旧跡)を撮影した写真と御絵伝をパワーポイントに落として、プレジェクターを使って解説しました。

やっぱり解説は解説で、ご法義ではないのでお茶を濁した程度で話しを終えました。

10日くらい前の深夜便で葉祥明がでて、次の言葉をご紹介下さいました。

やりたいことと
やるべきことの
バランスが大切です。
やりたいことは
自分のため。
やるべきことは
他の人や社会のため。
どちらか一方だけでは、
人生に悔いが残ります。
(以上)

さて、この物差しで今日の私の話を位置づけすると、どんなところだろう。
“やりたいこと”でもなく、“やるべことで”もなく、“帳尻を合わせてお茶を濁す”といったところだろう。

でもそのことに気づけたことを了としよう。
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先祖供養

2010年12月15日 | セレモニー
法事の席でした。「妹の方が両親のお墓を継承します。独身の私は、今後、どのように故人を追悼して行ったらいいですか」(意趣)。真剣な質問というよりも、法要までの時間つなぎの中で、心にある思いを吐露されたといった状況でした。

「お仏壇は、故人を追悼するためのものではないので、ぜひ仏壇を」という答え方もあったが、理屈を言ってもどうにもなるものではないと思ったので次のような会話になりました。

「ご両親のことを追悼する、あるいは感謝する思いになるためにお仏壇を置くのですよ。こうしてお墓へ来て、その思いになる。あるいは日常生活の中で、ふとそうしたことを感じる。その思いになることが重要なのだと思います。家庭に小さくてもお仏壇を置くと、その前に座るといつでも、そうした思いの中に自分をおくことができますから、お仏壇をお迎えになられたらいかがですか」

結論から言うと、“先祖供養が大切”するという形が重要なのではなく、“先祖を貴び先祖に感謝する”心が自分の上に整うことが先祖供養の核心なのだと思います。

これは念仏も同じです。“念仏を称える”ことが重要なのではなく、“念仏を通して如来の存在を感じる”ことが大切なのだと思います。

形が重要なのではなく、形を窓口として広やかな世界に出会っていくことです。その広やかな世界に開かれていく窓口として先祖供養や念仏が重要なのです。
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回遊式納骨堂が売れている

2010年12月14日 | セレモニー
宗教教団というものは、一定の勢力を持つようになると、社会的な安定性を求めるようになり、その時代の知識人の理解に相反しない方向を志向する。そしてドラマチックに苦しみを解放する非現実的な教えから、常識的にあまり違和感のない日常を支える修養や教育、文化といった面で、教団存在の意義を発揮するようになります。

浄土真宗も大教団であるだけに、そうした傾向は必然としてあります。個々の僧侶も、“往生成仏や生死解脱といった”本来の説教から、日常生活に役に立つ程度の説教に陥りやすい傾向にあります。これは私自身の経験としても否めません。

なぜなら多くは宗教を求めていない人に、宗教を説くのですから、お茶を濁す程度ですませがちになるのです。


また反面、真宗僧侶は、純粋な成仏の原理を説かねばらないという欲求があり、現場の門信徒は先祖供養や修養など、自分の欲求の範囲内で宗教性を寺院や僧侶へ求めます。その僧侶と門信徒との浄土真宗に対する意識のかい離が、教団の致命的な欠陥でもあります。

理屈はそのくらいにして、実際に先祖供養するという意識が急激に衰退しています。都心では、ビル型のカードを入れてお骨が出てくる回遊式納骨堂が爆発的な需要があります。大手の㈱はせがわなどは、都心で2.3か所、納骨堂をオープンしたら2年間で4000基販売したと聴きます。毎月200基は、墓地経営の点からでも驚異的な数字です。

お墓が先祖から“あなた”を追悼する場という意識は、首都圏民衆の5割に迫るという感じがします。

こうした時代なればこそ、宗門も先祖供養に意味を宗門外の人に対しても、情報提供しなければならないと思われます。(つづく)
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3.000円の勲章

2010年12月13日 | 現代の病理
今朝「入仏法要をあ勤めしてほしい」とのご依頼で、先ほど来院されました。ご本尊はたまにお見かけするレリーフ式の阿弥陀如来像でした。

ご一緒にお勤めしながら、お経中に思ったことですが、阿弥陀如来は慈しみの仏さまです。浄土真宗の教えは、無条件に救うという阿弥陀さまを告げることに極まります。無条件に救うということは、無条件でなければ救われない私という闇を明らかにして下さる如来さまです。それは“おれが”“わたしが”という自分を唯一絶対とする意識そのものが、私を苦しみにいざなう闇そのものであるということです。

その闇が明らかになるということは、稀なことですが、“自分を唯一絶対とする意識”や社会の常識という価値観を相対化させることは、浄土真宗から発信される文化として重要なことだと思っています。自分の価値観を気軽に相対化させることができれば、自殺者も減るのではないかとも思います。

中国の民主活動家、劉暁波氏に対するノーベル平和賞授賞に対抗して、急遽(きゅうきょ)設立された「孔子平和賞」の授賞式が9日と報道にありました。これも良否はともかくとして、ノーベル平和賞を、相対化してしまおうとする試みです。

今月5日付の報道に、「コンビニが葬儀仲介 ファミマ、参入検討」という記事がありました。大手コンビニエンスストアのファミリーマートが葬祭業への参入を検討しているということでした。09年9月にはイオンが葬儀斡旋に参入したことを受けたものです。

一企業が独占的に注目を浴びる「イオンのお葬儀」といった扱いを相対化させることは、企業の戦略としてはも頷けます。

昔、父が存命の頃、京都北野天満宮の市に誘ったことがあります。車いすの父は、露天商が並べる骨董品をみていき、3.000円の太平洋戦争か日露戦争のときの勲章を買い求めました。なんであの勲章が欲しかったのか不明ですが、価値観を相対化させるためには、もってこいの品物です。その勲章は父の遺品の中にもなかったので、いまはどうなっているかわかりません。
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賞味期限は?

2010年12月12日 | 日記
今日(22.12.12)は、稲田(茨城)から本願寺(京都)まで、“聖人の帰洛路を歩く”の行程中、当地区歩くので、当寺世話人が当地区の企画スタッフとして、工程や休憩場所などを立案しました。

守谷駅から松戸まで25キロ、途中、出発から2時間ほど所に、当寺の墓地があり、その墓地の管理事務所が休憩場所となっています。

私は法事出勤で顔を出せないので、昨日、管理事務所へステイック状の虎屋の羊かんとマロングラッセという栗を包んだ洋菓子を届けておきました。

朝8時30分、外出する時、「羊かんは賞味期限を確認したが、マロングラッセは、賞味期限を確認しなかったので、事務所のスタッフが出勤したら電話して確認しておいて下さい。」と言われて出勤しました。

当寺の月2回の法話会は、頂き物の饅頭やお菓子類を休憩時間に配ります。通常60人、多いときは70人を越えるので、饅頭類は法話会のために、ため置きしておきます。賞味期限の長い菓子類は重宝します。そのお菓子を事務所へ運んだので、賞味期限の問題が出たのです。

10時15分くらいになって、法要のお勤め中に、朝、言われていたことを思い出しました。“忘れていた。これは拙い。賞味期限の切れたお菓子によって集団で腹痛でも起こされたら大変だ。疲労もあるので、少しの事でも危害がある”と思いながらお経をあげました。

あ勤めが終わって10時半、管理事務所へ電話を入れると、まだ未到着だという。少し安堵。賞味期限を聴くと、来年の○月までという。一件落着でした。管理事務所では当寺の世話人たちが、参加者を迎えてくれました。

その墓地の事務所スタッフの一人が、この事務所から松戸の終点(約15キロ)まで、飛び入りで歩いてくれました。写真のバッチは参加者への参加記念バッチで、歩いた場所が記入されており、区間によってバッチの色が違うそうです。そのバッチを帽子に複数つけて歩いている人も写真でお見受けします。詳細は“帰洛路を歩く”で見て下さい。
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