各新聞(22.12.8)に「海老蔵さん、無期限謹慎」という見出し。「おごりがあった」という。昨日書いた小椋佳さんの糖尿病の話から、“欲望をコントロールするのは難しい”と思った背景に海老蔵さんの問題がありました。
どんな分野でも成功体験を自己の力量としないで謙虚に受け入れることは難しいことです。しかし慢心こそ獅子身中の虫であることを知る人は、慢心に溺れることから逃れられる。それが結論です。
欲望や慢心からどうセーブするのか。以前、私の思いを抑制する方向と解放する方向があると書きました。欲望や慢心も同様でしょう。抑制はしっかりと欲望や慢心を管理していくことです。そのためには環境を整え指導者をもつことです。
浄土教の歴史も、このことにチャレンジした歴史でもあります。この世は穢土で汚染されているので、浄土という清らかな世界に生れて直接、阿弥陀如来の指導を仰ぎ修行して成仏するという仏道です。
しかし欲望や慢心を管理して抑制することを実践する人の中から、管理という手段では、抑えきれない劣化した人間性を問題とされたのが浄土真宗の祖師方です。
抑制し管理して行こうとする考え方の中には、抑制し管理すればなんとかなるという人間理解があります。
その人間理解そのものが危うく、また驕りであることが明らかになった精神史が浄土真宗の歴史なのです。その到達点が念仏一つです。阿弥陀仏に無条件に救われていくしか救われようのない人間であるという理解です。この凡夫の自覚は、そのまま自己に対する執着からの解放でもあったのです。
欲望や慢心を管理抑制するといった次元から、欲望や慢心を通して、自分の愚かさへ目覚めていく。この目ざめの中に、欲望や慢心に皮をかぶったのが私であるという理解が生れ、その私を唯一絶対とする意識から解放されていくのです。
すごく哲学的な話になってしまいました。要は日の光に当たると、ゴミや汚れが顕わになるように、仏さまの光に照らされて欲や慢心がさらけ出されて、その欲や慢心に引きずられない生活を営むと言ったところでしょうか。
どんな分野でも成功体験を自己の力量としないで謙虚に受け入れることは難しいことです。しかし慢心こそ獅子身中の虫であることを知る人は、慢心に溺れることから逃れられる。それが結論です。
欲望や慢心からどうセーブするのか。以前、私の思いを抑制する方向と解放する方向があると書きました。欲望や慢心も同様でしょう。抑制はしっかりと欲望や慢心を管理していくことです。そのためには環境を整え指導者をもつことです。
浄土教の歴史も、このことにチャレンジした歴史でもあります。この世は穢土で汚染されているので、浄土という清らかな世界に生れて直接、阿弥陀如来の指導を仰ぎ修行して成仏するという仏道です。
しかし欲望や慢心を管理して抑制することを実践する人の中から、管理という手段では、抑えきれない劣化した人間性を問題とされたのが浄土真宗の祖師方です。
抑制し管理して行こうとする考え方の中には、抑制し管理すればなんとかなるという人間理解があります。
その人間理解そのものが危うく、また驕りであることが明らかになった精神史が浄土真宗の歴史なのです。その到達点が念仏一つです。阿弥陀仏に無条件に救われていくしか救われようのない人間であるという理解です。この凡夫の自覚は、そのまま自己に対する執着からの解放でもあったのです。
欲望や慢心を管理抑制するといった次元から、欲望や慢心を通して、自分の愚かさへ目覚めていく。この目ざめの中に、欲望や慢心に皮をかぶったのが私であるという理解が生れ、その私を唯一絶対とする意識から解放されていくのです。
すごく哲学的な話になってしまいました。要は日の光に当たると、ゴミや汚れが顕わになるように、仏さまの光に照らされて欲や慢心がさらけ出されて、その欲や慢心に引きずられない生活を営むと言ったところでしょうか。