仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

歳をとって分ること

2010年12月20日 | 浄土真宗とは?
ご法事で一緒に『阿弥陀経』を読むことが多い。昨日も何件かでご一緒しました。お経と5分ほどの法話を終え、雑談での話です。85歳のなるご老人が言われます。

昔、両親は仏前でお経をいつも読んでいました。私は“お経の意味もわからないので読んでも意味はない”と思い、いつも高いところから両親を見ていました。いま85歳になりますが、この歳になると、意味がわかる、分からないは、あまり重要でないように思われてきました。仏壇で低頭し、仏さまのお言葉に触れる、そのことがとても重要だと思われます。(以上)

分る、分からないというレベルは、人間の皮相的な問題の解決になるが、分るわかならいと言っている私そのものに、切り込んで下さるのが仏語なのでしょう。ここまで書いて、ふとご門主の言葉(「今、ここに生きる仏教」より)を思い出しました。(以下転載)

私たちの教団に対してもわかりやすいということが要求されます。ひと言で言ってくださいとか(笑)。しかし、わかりやすいということは、大事なことをわからなくさせる危うさがあります。仏教は言葉がわからないからよくわからないという不満がよく聞こえてきます。たしかに、一般には使かわれていない言葉が多いので、わかりにくいのは確かなのですが、本当にわかりにくいのは言葉ではなくて、言おうとしている内容のはずなんてすね。数値化できるような常識ではなく、人間存在の難しさをあらぬしているのですから。 ですから、たとえ仏教専門用語を外して説明できたとしても、わかりにくいということは、あまり改善されないのではないでしょうか。わかりにくいのは内容なのであり、そういう教えの考え方になじんでいないから、「愚かである」と言われたらびっくりしてしまうし、「罪深い」と言われたら受け入れられない。(83項)

そうです。言葉で表現できることって限界があります。だからこそ、さまざまな分野で芸術的な表現があります。しかしその言葉となって、私を救うというというのも阿弥陀如来の願いです。
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