仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

自分を過少評価する教え

2010年04月25日 | 苦しみは成長のとびら
【土・日曜日に書く】(22.4.25)に論説委員・清湖口敏さんが、藤田まことさんのことを話題としていた。

 今年2月、藤田まことさんくなった。藤田さんは「てなもんや三度笠」で一躍人気者となったがその後、売れない時代が何年か続いた。キャバレーでの“営業”中、トイレの横のゴザの上で衣装を着替えさせられたのには、さすがに気持ちがみじめになり、急に人気が出て有頂天になっていたことを恥じたという。
 あまりの人気の急上昇に、役者としての内面の成長がついていけなかったことを反省したのだろう。人は、急激な上昇期や連戦連勝の躍進期にはどうしても上や前しか見ず(見えず)、そこに既に下降あるいは敗戦が兆していることには心が向かないものだ。(以上)

この間から“立ち位置”のことを話題としている。たとえば藤田さんの上記の弁“有名な俺にこんな扱いをしやがって”と腹を立てることもあってよい。ところが藤田さんは“有頂天になっていたことを恥じた”という。

この違いは何だろうかと思う。これは自分の値打ちをどう見ているかという違いだとも言える。自分本来のポールポジションを有名な私に置いているか、無名な私においているか、その心の置きどころによって感じられるものが違ってくる。言うまでもなく藤田さんは後者だ。なぜ後者に立てたのか。

おそらく教育の中で、難しく言えば、自分の力を過少に見ていく指導があったのだろうと思う。「人さまのお陰だよ」とか「御恩に感謝しなさい」といった、自分の上に手柄を見ないで他に感謝する感受性が養われていたのではないか。

だから落ちぶれた中で、自分を過大評価するという慢心におぼれて腹を立てることをしないで済んだ。この自分を過少評価していくことの極みが凡夫であることを肯定していんく凡夫の救いです。

こう考えてくると、世の中、すべてが自分の能力を高めて過大評価していく方向にあって、凡夫であることを積極的に評価する浄土真宗の考えは、普遍的なメッセージを発信していける可能性をもっている。

もっともっとこの浄土真宗を世の中へ解放していく必要がある。都市開教は、浄土真宗を社会へ解放していくことなのだろう。
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傘がない

2010年04月24日 | 浄土真宗とは?
火曜(22.4.20)の京都は、小雨が降っていた。所用で前泊だったので本願寺で置き傘を借りて、大学の講義へ行った。教室の傘立てには傘が一本もない。あらためて若者は少しくらいの雨では傘を差さないことを意識した。

めんどくさいこともあるが、恐らく雨が強くなったらコンビニで買うという意識があるのだと思う。その時その時を、大雑把な計画の中で過ごしてもコンビニがあれば何とかなる。またこの刹那主義は、いがいとこう有るべきだという目標設定が軽いので、気ままなのかもしれない。

18日に、立ち位置の話を書いた。肥満の人が、その肥満を指摘されて、肥満であることが苦しみとなる。太っているという状態は変わっていないが、立ち位置が変わったとうことです。

この肥満を死に置き換えても同じことが言えます。がんを患い死が告げられる。苦しみが突然起こったような錯覚をもつが、肥満が苦しみとなったことと同様、死すべき身であったことは、以前から変わらない。

そして通常の反応は、病気をたたき死を遠ざける方向に向かいます。しかし仏教はいつまでも生きていたいという煩悩が苦しみをつくっていると説き、病気の代わりにこの煩悩をたたきます。それが行というものです。

ところが浄土真宗では、煩悩はなくすことはできないことを説き、その煩悩の身を受け入れてくれる弥陀の大悲に立ちます。すなわち「弘誓の仏地に樹ち」(顕浄土真実教行証文類・後序)とあります。

こうした真宗の方程式に思いを寄せていると、この方程式は、もっと一般の人の苦しみの中でも展開できそうです。真宗の言葉をつかわずに説明することが、一般の人に真宗を解放していくことだと思う。

苦しみが深まっていくということがあります。死を告げられて苦しみをもつ。その苦しみの原因は煩悩であるとまなざしが自分に向き煩悩を退治しようと苦しむ。苦しみそのものが自分であると、煩悩のわが身を受け入れる。その苦しみの深まりこそ、弥陀弘誓の働きによる。これがいまの理解です。
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子殺し多発の原因

2010年04月23日 | 現代の病理
近年、異常に子どもの虐待とか子殺しが多い。どうなっているのかなーと思い、その関係の論文を昨日、国会図書館にリクエストしたが、まだ手元の届いていない。

国会図書館の論文複写請求は、登録しておいて、国会図書館のホームページで検索(たとえば「子殺し」と入力すると「子殺し」と付いた論文がピックアップされリクエストを入れると、見開き一枚24円で送られてくる)してリクエストするシステムです。

ふと思ったことだが、犯罪予防には2つの方向があることを昨年、何かの論文で読んだ。1つは、犯罪を犯してしまう精神性を問題として矯正していく。たとえば子殺しの原因は何かのストレスであれば、その何かのストレスをなくしていきます。

私の思考パターンもこの方向で、「子殺し」が多発するのは、文化や社会のひずみの中でどこに問題があるのだろうと考えました。

もう1つは、「子殺し」はある。という前提にたって、その子殺しを実行させない社会的なシステムをつくっていく。先進諸外国では、この方法によって犯罪の減少化を実現せさています。犯罪を起こさせたいための街づくりなど、犯罪はあるという前提で社会システムを整えていく方法です。

ふと思ったというのは、昔から「子殺し」という情念はあった。しかしそれが家族関係やお隣さんといった社会システムなどによって、実行されずに防いでいた。その実行しないですんでいた諸事情が失われたので、「子殺し」の多発につながっている。これは1つの仮説ですが、この方が凡夫は条件さえ整えば何でもするという真宗的な人間観に則しているようです。
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「村が消える」中での法座活動

2010年04月22日 | 都市開教
25年前、NHK番組「寺が消える」で、私の父(島根県の寺の住職でもあった)がテレビ出演したことがある。それが10年前から「寺が消える」から「村が消える」状態となった。そうした過疎化の進んだ地域では真宗寺院の撤退はやむを得ないだろう。

しかし踏みとどまれるなら、みんながアイデアとお金を出し合って、地域の法座活動を支えるべきだろう。

1つの法座を支える先行的な優良事業として『ミツトヨ』の存在がある。創業者は、沼田恵範氏で、会社の利益の1割を仏教伝道のために寄付している。

沼田恵範氏は、明治30 年広島県の寺の三男として生まれ、28 歳で私と同じ北米開教使として渡米し、UCLAバークレー校を卒業。北米で仏教布教のため在米日本人や知日派米国人から資金を集めて「ザ・パシフィック・ワールド」という英文の雑誌を刊行したが、2年後に資金難から発行停止。師は、「どんなにいい仕事でも、理想だけではうまくいかない。経済的な基盤が無ければダメだ。自分でお金を儲けて、人に頼らず自分の力でやろう!」と決心して、当時100%輸入に頼っていた精密測定機器・マイクロメーターの国産化に専念して、『三豊製作所』を設立しました。その利益で仏教伝道協会が運営されている。

一の法座(寺)を支えるために一般事業や社会福祉事業を行う。こうした手法を、ひとりの人のアイデアではなく、組織的に行う必要がある。それが私の過疎化対策の一プランだ。

10年ほど前に、ある地域に2000坪の土地があった。その土地利用についてある業者に社会福祉事業の可能性を研究してもらった。しばらくして14ページの数種類の社会福祉事業を行った場合の、収支データーや事業の可能性が示されて書類が送られてきた。たとえばこんな具合です。

土地利用について
  1.経営母体
     経営の母体が宗教団体であることを考慮すれば、福祉関連の事業の中でも一般
    の企業が行う事業では、利益の追求が目的であるために好ましくない。
     社会福祉法人が行う福祉事業では、利益でなく福祉そのものが目的であるから
    今回は社会福祉法人のみが行える事業を中心とする。
  2.自己資金
     自己資金はゼロで、土地担保の借入によるものとする。現実的に自己資金ゼロ
    で行える事業は無いが、今回は福祉関連の補助金事業を中心とする。
  3、福祉関連補助金事業
    1.特別養護老人ホーム
    2.介護老人保健施設
    3.ケアハウス
    4.知的障害者更生施設
  4.福祉関連外事業
    1.緩和ケア病棟
    2.児童養護施設
    3.保育所
  5.一般企業の行う事業
    1.有料老人ホーム
    2.ケア付きマンション

それぞれの自己資金なしの場合の、地域の需要を踏まえた経営データーがしめされてあった。

1つの法座を支えるために事業を行うという考え方は、宗門の意識の中にはいまだ存在していない。もちろん寺院の余禄や事業として行われているところはある。それほど寺院経営が主流だということだ。

そのもっとも小規模なものが家庭法座だろう。ひとりの会社員が余暇を使って毎月法座を開く。この形態をどこまで展開できるか。会社で毎月法座を開いている企業もある。法座活動こそお寺の生命線であるという意識、そうした意識での活動が主流となってこそ真宗の復活は現実味を帯びてくるようにも思われる。

都市開教の布教所は、ひとりの参拝があるかないかという不安の中で法座を開催してきた。法座に参拝があるという前提のもとに、少ないから法座の開催を中止するということは、阿弥陀如来の働きを甘く見ているような気がする。

特にその傾向は宗派の直轄寺院である別院に見られる。
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芝原郷音師の思いで

2010年04月21日 | セレモニー
昨日、本願寺での朝のお勤め。ゆったりと進むお経の響きのなかで、30年前、築地本願寺に勤務していた頃の朝事のことを思い出した。

毎月、聖徳太子と法然聖人の命日には、通常の勤行後、余間に移り、輪番が焼香して『早引和讃』のお勤めがある。早引とは、念仏を和讃の間に挟まないで勤めるから早引きという。同僚のSさんが、早引きだからと、どんどんと読むスピードをあげていった。

すると当時輪番であった芝原郷音師が、読経中もかかわらず立腹して、カネを撥でカンカンカンカンカンと連打して、当時、法務の主任であった篁薫海師を「篁くーん」と大声で呼び、その誤りを告げた。

私たち若い者は“輪番が怒っている”と思い、事の成り行きをみまもった。しかしそのとき最初から称え直したのかどうかは覚えていない。

おそらく輪番の心境のなかでは、法然聖人の命日にあたって和讃に接するご縁を楽しく豊かな時間を過ごしていた。すると若いものがやっつけ仕事で経を読んでいる、そのうち腹立たしくなって、カネの連打による読経中断となったのであろう。

今から思うと、その師の後ろ姿に、どれだけ導かれただろう。本山での朝の読経で思ったことは、腹を立てることによって人を導くということがあるということです。いいかげんであったら腹も立ちません。
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