仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

大学の初講義でした

2010年04月14日 | 苦しみは成長のとびら
昨日は大学(龍谷大学大学院)の初講義、始めてなので勝手が分からず、ずいぶん不安で、まごまごしました。まごまごする中、お年寄りも電車に乗ったり等、現代文明の中で、こんなまごまごした気持ちで事をなしているんだろうなあと思った。

講義は重要文化財の建築物の教室(写真)、ふたを開けると学生数10名想定が37名、これでは講義のあり方も修正すること大です。

さて昨日の続き。

なぜ“応える”なのかといえば、自分の思いを伝え、あとはあなたの責任においてうまくやってください。といった対応を感じます。まさに対応です。といって私が解決できる答えを提供できるというものではありません。

回答者は、質問者の力になりたいという立場です。力になるとは質問者が不利益をこうむらないことです。具体的にはいま離婚すれば損だから、経済的な力をつけて、夫お対等な立場になる。そうすれば場合によっては離婚してもいいだろうし、その心の余裕が夫とのいい関係をもたらすかも知れない。ここは感情のままに動くな。といったところです。

回答者の価値観は、経済的にも精神的にも自立して安心して過ごすことが無償の価値であるといったところでしょうか。

これはごく当たり前のことですが、“思い通りになることを無上の価値とする”、これが凡夫の生き方だとすると、聖道門仏教(自分の精神性を高めていく仏道)では、思い通りになるという自分の心自体に変更を加えていきます。

たとえば不完全な夫の受け入れる大きな愛に生きるなどです。カウンセリングもこの傾向があります。これに対して「心の専門家はいらない」((新書 - 2002/3)の著者である小沢牧子さんなどが、社会のひずみから目をそらし個人の心の問題への単純に集約してしまう心理主義の弊害だと警告を鳴らしています。

この心理主義の弊害は、昨今の新自由主義の経済と思想が自己実現・自己啓発・自己責任などの「個人還元主義」にあるので、「自分さえよければよい」という現代の病理の片鱗であるといえるかもしれません。

浄土真宗の考え方(あくまで私の)は、当たり前のごとく苦しみを解決する方向に向かいましが、精神的な領域では、苦しみの中にわが身を置くことを重要視しています。

たとえば『仏説観無量寿経』に韋提希という女性が釈尊に向かって「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる」とこころの中にある感情をぶつけます。“なんとかしてほしい”という叫びです。

この苦しみの中にわが身を置くことは重要です。上記の韋提希の言葉の中には、まだ幸せでない自分を裁く善なる私がいます。しかし苦しみの中にわが身を置いておく中に、善なる私がそのベールが暴かれて、闇(悪)そのものとなります。その闇に閉ざされるときは、闇の中に輝き続けていた光が明らかになる時でもあるのです。わが身が闇に閉ざされるとき光が明らかになる、これが浄土真宗という仏道です。

では私からのへぼ回答。

お辛いですね。どうしていいか分からないということが、あなたの正直な気持ちでしょう。いま大切なことは、あなたがどうしたいのかをはっきりと見定めることでしょう。それは離婚ということではなくて、“でも一緒にいたい”“絶対許せない”など、自分の中にある気持ちを見定めて、その気持ちを相手にぶつけていいと思います。

主人の「「子どもの母親」としか見られない」という言葉は、自分の今を正当化する詭弁かもしれません。よりよい家族になるように努力すべきでしょう。

そうした努力を続ける中に、きっと嫉妬やにくしみ、怒りなどの感情が起こってくることでしょう。その起こってきた歓迎されない感情をどう処理していくのか。これはあなた自身の問題です。この歓迎されない感情は、ご主人との関係が解決されればなくなりますが、その感情は縁に触れてまたきっと起こってきます。その感情に対して自分自身の問題として関心を向けてほしい。これは私からの願いです。ここにあなたが今回のことを契機として、成長していける大切な要素があるからです。
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