仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

傘がない

2010年04月24日 | 浄土真宗とは?
火曜(22.4.20)の京都は、小雨が降っていた。所用で前泊だったので本願寺で置き傘を借りて、大学の講義へ行った。教室の傘立てには傘が一本もない。あらためて若者は少しくらいの雨では傘を差さないことを意識した。

めんどくさいこともあるが、恐らく雨が強くなったらコンビニで買うという意識があるのだと思う。その時その時を、大雑把な計画の中で過ごしてもコンビニがあれば何とかなる。またこの刹那主義は、いがいとこう有るべきだという目標設定が軽いので、気ままなのかもしれない。

18日に、立ち位置の話を書いた。肥満の人が、その肥満を指摘されて、肥満であることが苦しみとなる。太っているという状態は変わっていないが、立ち位置が変わったとうことです。

この肥満を死に置き換えても同じことが言えます。がんを患い死が告げられる。苦しみが突然起こったような錯覚をもつが、肥満が苦しみとなったことと同様、死すべき身であったことは、以前から変わらない。

そして通常の反応は、病気をたたき死を遠ざける方向に向かいます。しかし仏教はいつまでも生きていたいという煩悩が苦しみをつくっていると説き、病気の代わりにこの煩悩をたたきます。それが行というものです。

ところが浄土真宗では、煩悩はなくすことはできないことを説き、その煩悩の身を受け入れてくれる弥陀の大悲に立ちます。すなわち「弘誓の仏地に樹ち」(顕浄土真実教行証文類・後序)とあります。

こうした真宗の方程式に思いを寄せていると、この方程式は、もっと一般の人の苦しみの中でも展開できそうです。真宗の言葉をつかわずに説明することが、一般の人に真宗を解放していくことだと思う。

苦しみが深まっていくということがあります。死を告げられて苦しみをもつ。その苦しみの原因は煩悩であるとまなざしが自分に向き煩悩を退治しようと苦しむ。苦しみそのものが自分であると、煩悩のわが身を受け入れる。その苦しみの深まりこそ、弥陀弘誓の働きによる。これがいまの理解です。
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