仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

舞妓さんとの出会い

2010年04月06日 | 浄土真宗とは?
知人との会話でした。たとえ重要文化財の建物でも、いつもそばで見なれていると感慨もなく日常の風景になっている。という話から、京都で八坂神社方面へ行く際、花見小路で舞子さん出会った。気軽に観光客の写真に応じていたという。何か得した感じをもって1時半後に、同じ場所を通った。するとまた同じ舞妓さんがいて“あっ、これは観光キャンペーンの一環か”と得した感じが失せ興ざめしたという。

最初に出会った舞子さんは、偶然という希少性と、お茶屋に行くヒトこまという舞妓本来の仕事中の姿、それと舞妓さんの善意で写真撮影に応じていたという好印象があったのだろう。

ところがそれは観光キャンペーンの一コマとなれば、先の3つの要素が消え失せ、観光協会の作為と風景となっている京都の舞妓という本来の姿でないしつこさが意識され興ざめしたのであろう。これは私の推測です。

京都の風景となっている舞妓さんに出会った感動と、作為で作られた舞妓さんに出会ったときの無感動、この前提には希少であっても京都にいれば舞妓さんに会える機会があるという可能性があるからです。

私は、その話を聞きながら思ったことです。浄土真宗では、念仏を申すことは阿弥陀如来の一方的な作為によると説く。念仏者は、その阿弥陀如来の作為を悦んでいきます。それは凡夫の私には念仏を称える可能性が一切ないという前提があるからです。

可能性が少なければ少ないほど、それを整えてくれた作為(努力、お手まわし)が嬉しいものです。念仏は阿弥陀如来のひとり働き。それが浄土真宗です。
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