仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

自尊感情

2010年04月30日 | 浄土真宗とは?
深夜便「明日へのことば」は、昨日、今日(22.4.30)と【いのちの授業(1)(2)】と題して群馬県助産師会・会長である鈴木せい子さんの話でした。鈴木さんは『生きてるだけで百点満点―ベテラン助産師が贈る、あなたのいのちへの賛歌 (単行本) 』他の著作もあり、リクエストが多くH22.3.16放送の再放送であったようです。助産師として誕生に関わり、その感動と赤ちゃんの力づよさ、親の願いを語っておられた。

感動する話で、生死の現場にいる自信がみなぎっていた。講演慣れしているためか、言葉が滑らか過ぎるところがあり、その滑らかさの中に得意げな感情が見え隠れしていたのが気になった。そして講演の最後に“最近のお子さんは自尊感情が弱い”と抑えておられた。

浄土真宗の信仰の恵みも“自尊感情”が育まれることです。鈴木せい子さんの赤ちゃんの力強さや親の愛を聴いてイメージされる自尊感情と、浄土真宗の念仏者の自尊感情と何が違うのかと考えた。

通常語られる自尊感情は、一過性というか自尊感情が起こっている時だけに自分を尊ぶという心になります。自尊感情が同時に自虐感情に変わることもある。自虐感情におそわれた時、自尊感情はベールにおおわれてしまいます。それは当たりまえのことです。感情は常に一色だから、自虐感情一色の中で、ふと自尊感情が起こることもあるが、頼るところは自身の心です。

浄土真宗の語る自尊感情は、その自尊感情自体をあまり評価していないということです。人は縁に触れて自尊感情にもなれば自虐感情にもなる。自尊感情に満たされた時は、そう思えるこころをよろこび、自虐感情の中にあっては、ふと洩れる念仏の中に愚かな自分を知らせていただく。

以前、お辞儀の精神性について書いたことがある。

物質的な貧しい環境の中で、食物の大切さや有難さを伝えるのは、簡単であり、教えなくても身につくものです。ところが物質的に飽満状態の中で、食べ物への感謝を身につけることは非常にむずかしいことです。それは「ない」という事実が「ある」ことの希少性を体験させてくれるからです。でも貧しさの中での恵みに感謝する世界と、豊満な状況下で、恵まれたことに感謝する世界では、その精神性のおもむきが違うように思われます。どう違うのかと言えば、前者は我欲(思い通りになったことへの感謝)の範疇にあり、後者は感謝そものが有難きことという精神的な豊かさがあります。
それと同じことがお辞儀(頭を下げる)でもいえます。生活の向上を目指す人は、目上の人に頭を下げることは多くあり、自然に生活の中に溶け込んでいます。ところが社会的な地位を気付いた人は、頭を下げる必要がないので、頭を下げることの意味を理解していないと素直に頭を下げにくいものです。それは頭を下げることの中にある精神性が問われるからです。
(以上)

このことは自尊感情についても言えることです。赤ちゃんの時のことや親の願いを聞いて抱く自尊感情は、尊いものですが、その精神性のクオリテイーは一過性で淡白です。片や信心によって恵まれる自尊感情は、自尊感情そのものが私の感情や存在を超えた尊いものであるという意識に開かれることであり、ここに私の存在を超えた厳かなるものとの出会いがある。

というものの、ひょっとして屁理屈を並べているだけかもしれないという後ろめたさがある。それは自尊感情そのものにケチをつけている後ろめたさなのだと思う。

今朝、深夜便を聞いて思ったことです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする