仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

金閣寺へ参拝

2010年04月20日 | 苦しみは成長のとびら
本山(京都・本願寺)の朝(22.4.20)のお勤めに参拝した。御影堂(親鸞聖人の御像を安置)の勤行が終わり、係の僧が「ただいまから法話と御文章の拝読がございます」という。私は“あれっ”と、係の人は法話と御文章の順番の順番を間違えたかと思ったら、実際に法話を先にして、御文章を次に拝読した。

これは御文章の教えを讃嘆してのちに御文章を拝読した江戸時代の初期のスタイルに戻したのだろう。

御和讃は源空聖人のさいごの聖人が「頭北面西右凶」にして往生されたものを読んだ和讃でした。ふと1年くらい前、葬儀に出勤した時のことを思い出した。通常は、僧侶は正面を向き、本尊と僧の間に横向けにするように遺体を置く。ところが業者のアイデアなのか、本尊と僧侶の間に、縦向きに本尊に足を向け僧侶に頭を向けて、安置して、その両側に遺族などの関係者が囲んでの儀式でした。

それもよいアイデアだと思いますが、本尊に足を向けていることが気になったので、業者の人に尋ねた。すると業者いわく「以前、本尊に頭を向け僧侶に足を向けて安置していたら、僧侶の人が、引導をわたす私(僧)に足を向けられての勤行は勤めにくいと」と小言をいただいたという。

そうだろうと思う。浄土真宗以外の葬儀の意味は“引導をわたす”すなわちあなたと私のに二者の間で行われることで、仏様はその見とどけ人のような意味合いです。そうすると頭は僧侶に向けととなります。

しかし浄土真宗は、一緒に阿弥陀仏の世界へ向かっていこうという、二者の位置関係なので、阿弥陀仏中心の荘厳がされます。

これは苦しみにおいても同じだと思った。苦しみの渦中にある人に対した私の位置関係は、苦しんでいる人とその苦しみをいやす人の関係ではなく、ともに苦しみの中に身を置く人といった関係にあるべきです。

すこし解説が必要です。以前、ダイエットの話を書いたことがある。肥満の人が他人から「太った人は不潔だ」といわれショックを受けて、それからダイエットにトライするようになった。肥満が苦しみでなかった状況から、肥満が苦しみとなった。なにかがその人に持ち込まれたのです。それは「太った人は不潔だ」という自分の中になかった考え方が持ち込まれたのです。

生きていくことが苦しみとなる。あるいは死んでいくことが苦しみとなる。事実としてその人のもとに元からあったことが、何かを契機としてその事実が苦しみとなる。立ち位置が変わったのです。 

肥満に対しても、2方向の苦しみがある。肥満であることが苦しみ。痩せなければならないと思ってしまっている自分が嫌になるという苦しみ。またこれも立ち位置が違います。

さらに思い通りにしたいという自分が嫌になり、その苦しみから逃れたいという苦しみと、阿弥陀仏の救いの教えに出会って、思い通りにしたいという煩悩しかないのが人間ですと明らかになる。これも立ち位置が違います。

浄土真宗は「心を弘誓の仏地に樹て」と自分の立ち位置を教えてくださっています。そう考えると、同じ苦しみの仲間となります。

大学の授業を終え、中学校以来の金閣寺へ参拝しました。商魂(?)たくましく、おみくじの自動販売機が、日本語、韓国語、中国語と三台並んでいました。それと拝観冥加金にチケットの代わりに、壁に張るような印が押された家内安全のお札をもらいました。実用的(?)配慮に感心しました。
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