仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

念仏は心臓の鼓動のように

2010年04月04日 | 浄土真宗とは?
3日の法話会が終わって、夕食の折、坊守との話題が真宗の法話の話となった。いわく講師の中には、“何はさておき聴聞をこころがけよ”という方がおられる。一方“真宗の話はいい加減に聴くくらいが丁度よい”という。西方寺は“聴聞はいい加減に聴くくらいが丁度よい”型のご講師が多い。そんな会話でした。

私は真宗の説教というものは面白いものだと思った。大経にも三千世界の大火を超えて求めよとあり、逆に阿弥陀如来の兆載永劫の修行が説かれ、凡夫の努力は一切採用しないと告げられます。

後者の方を分析してみましょう。
浄土真宗という仏道は、凡夫の努力や智慧才覚を一切採用しないという仏道です。念仏は、心臓の鼓動や息に似ています。努力して心臓を動かしている人はいません。生きている実感に感動するということがあります。その実感は、自分の自由意志やテクニックといった努力でない、そのもの自身、生命の躍動といった自分を超えた働きへの感動でもあります。生きている実感の、生きているは私が作り出したものではないということです。心臓の鼓動も同じです。

念仏は心臓の鼓動のように、自分の自由意志や努力にとって自身の上に整ったものではなく、阿弥陀如来の願いと働きよってもたらされたものだというのです。

たとえ今、自分の自由意志で念仏を称えたとしても、それは自由意思で称えようと思うようなお育て(働き)があったと、自由意志以外の働きを見ていきます。その自由意志以外の働きとして阿弥陀如来が菩薩だったときの修行が語られるのです。

念仏が私の自由意志以外の働きによると受け入れる前提には、仏の香りのするものは私の側に一切ないという自分の無明・罪悪性の見極めがあります。

実は阿弥陀如来の本願とその働きは、仏の香りのするものは私の側に一切ないという私の無明性を私の意識の上に明らかにさせて、自身へのとらわれから解放させようという意図があります。

それを説教調に言うと“真宗の法話は、いい加減に聴くくらいが丁度よい。浄土真宗は阿弥陀如来が一生懸命になって私の念仏となった”となります。

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