仏教を楽しむ

仏教ライフを考える西原祐治のブログです

死別の悲しみを昇華させる文化ー葬儀

2010年04月29日 | セレモニー
その国の文化というものは、欲望をどう抑え、どうよりよいものへと昇華させるかという機能をもっている。以前書いたが、“横綱(相撲)には、抑制の美”が備わっていなければならない。抑制の美とは、平たく言えば、「わがままを我慢する」ことですが、この表現内容では腕白坊主の躾の域を出ません。「わがままを我慢する」ことが「抑制の美」までステップアップする。ここに洗練された文化があります。

「もったいない」も同じです。単なる無駄にしない行為から、物を尊ぶという精神性が付加された言葉づかいです。

何を言おうとしているのかと言えば、葬儀のことです。

一昨日の新聞(読売22.4.27)に「チンパンジー、我が子の死悼む ギニアで3例…京大霊長研確認」とあった。チンパンジーで死を悼むという感受性をもっている。「死を悲しむ」という事実をどこまで昇華した形式で体験することができるのか。それがわが国の葬儀という文化です。

浄土真宗では“悲しみの中で大切なことに出会う”ことと“念仏の相続”ということでしょう。昨日、朝8時、門信徒のUさんから「母が死にました」という電話を受けた。そして枕経へ。仏壇の前で正信偈を一緒に読み、思いつくままに法話。以下、昨日話した思いつくままの法話です。

浄土真宗では、来迎は常来迎で、常日頃より阿弥陀如来は「なもあみだぶつ」となって私の上に至り来てくださっていると教えられていますので、ことさら臨終に重きを置くということはありません。しかし私の上から伺うと、故人が最後に自らの命をもって“命には終わりがあります。終わりのある命を生きているのですよ”と教えて下さったということは、悲しみの中でしか知ることができない事実としてしっかりと受け取ることが大切です。
私の父が往生していったとき、死ぬことが意識された頃、「おとうちゃん、浄土へ行ったら何がしたい?」と聞いたことがあります。浄土真宗では浄土へ往生することは、阿弥陀如来の慈悲と同化して、その阿弥陀如来の慈悲の活動を自由に行うとあるので、浄土へ行ったら何がしたいかという問いとなったのです。
その時父は「南無阿弥陀仏の念仏になる」と答えてくれました。その時は深く受け止めませんでしたが、私たち浄土真宗の門徒は、南無阿弥陀仏…と念仏を申すなかに、この念仏の理解を正しく教えて下さった親鸞聖人のお徳に出会うこともあれば、南無阿弥陀仏…と申す中に、この念仏を広めて下さった蓮如上人に出会うこともある。父なき今、私は南無阿弥陀仏…と念仏を称えながら、この念仏に出会う境界に生まれる縁となり念仏への導きをしてくれた父に出会っていきます。
浄土に生まれて亡き方々と出会うことも有難いことですが、いま南無阿弥陀仏…と念仏を称えながら、亡き方と出会っていくのだと思います。肉体との別れは今日のですが、私たちは念仏を申しながら亡き人と共に生きていくのだと思います。今の枕経は、その阿弥陀如来に一生ご加護頂いたことに対するお礼のお勤めでした。(以上)

葬儀という文化の核心が欠落している。そこに葬儀不必要論が生まれてくるのだと思います。でないと、チンパンジーと同じことになります。
コメント
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