(1)安倍元首相の国葬問題はようやく岸田首相が国会で説明責任を果す意向を示している。国葬期日が9月27日と迫っており、時間的な余裕のない中で国会で与野党とも十分な議論など期待できない型通りのものとなりそうだ。
(2)「国葬」は戦前「国葬令」にもとづいて規定されていたもので、「国葬」というから宗派にもとづいて実施されるものであったのかはわからないが、戦後は廃止されて「国葬」という名称だけひとり歩きしている。
(3)日本国憲法は信教の自由を保障しているので、政府が「国葬」を行う場合に宗派に基づいて実施することはできないので、「国葬」の実態はセレモニー(ceremony)だ。安倍元首相の「国葬」にあたって安倍家の宗派にもとづいて国葬が実施されるわけでもなく、日本の伝統文化、習慣からそういうものを「国葬」というのか問題もある。
(4)国が主催するセレモニーということであれば、安倍元首相を慈しむ会とか送る会というセレモニー的表現になるのがふさわしい。
それにしても安倍元首相の「国葬」は国が全額費用を負担することになっており、2.5億円の経費が閣議決定している。
(5)「国葬」という特別支出の2.5億円は国民投資(税負担)が財源だから、もちろん岸田首相の一存、内閣の決定だけで支出するのではなくて岸田首相は国会で使途目的を説明して広く国民投資者の理解を求める仕組みが必要だ。
(6)折角、岸田政権、自民党がこれまでの安倍元首相の戦後最長政権を維持して国、国民に多大な業績、貢献を残したとして「国葬」で応えたいとするならば、岸田首相の一存、閣議決定だけで国家行事で行うなどという「不釣り合い」な決定ではなく、自信をもって広く国民、社会に意義を示して広く賛同、理解を得ることがあって当然で、それが岸田首相らの安倍元首相への畏敬を示すことになるのではないか。
(7)どうも岸田首相、内閣、自民党がやろうとしていることと実際にやっていることが一致しないパラドックス(paradox)の不可思議だ。憲法上、自由主義的権利関係から「国葬」は語彙(ごい)が不自然で、実態のともなわないもので精査しなければならない。