オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ポパイ@1979年(5・最終回):その4・スロットマシン

2020年12月27日 19時51分30秒 | 歴史
「ポパイ」1979年4月25日号の内容記録の最終回は、「スロットマシン」です。スロットマシンもまたアメリカ発祥ですから、ポパイにとっては絶好のネタであったと思います。

この特集記事でスロットマシンに触れているのは、65ページと103ページの2ページです。このうち65ページの方は、日本のゲームセンターの始まりはSEGAだったという文脈の中で、初期のセガのプロダクトとして5つのスロットマシンを紹介しています。


ポパイ1979年4月25日号の65ページの部分。日本にゲーム市場が発足し始めるころの、SEGAの主流プロダクトであったスロットマシンを大きく紹介している。

日本のAM業界の黎明期については中藤保則氏への取材(関連記事:ポパイ@1979年(1):AMゲームは「カッコいい」ものだった(らしい))が元になっているものと強く推察できますが、本来ならセガ以外にも太東貿易(後のタイトー)やローゼン・エンタープライゼス(後のセガの母体の一つ)の名前が出てきて然るべきです。果たして中藤氏が語らなかったのか、それともポパイが超大胆に(もしくは恣意的に)端折ったのか、今となっては確認する術はありません。

記事では、セガが米国Mills社から買い取ったハイトップ筐体の「セガ・ベル」を「国産第1号機」として掲げ、以下「国産第2号機」として「セガ・ボーナス・スター」、「名器」として「ダイヤモンド・3スター」、「人気あった」として「プログレッシブ・スター」、「秀作」として「マッド・マネー・スター」を紹介しています(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(4) セガのスロットマシンその2)。

しかし、「国産第1号機」は良いとして、それ以外の各機種に付けられているキャプションは信憑性に欠けます。まず、「国産第2号機」は「セガ・ボーナス・スターが」ではなく「ダルマ筐体が」という意味であれば納得します。以下の「名器」だの「秀作」だのの評価は、せっかく入手した貴重な昔のスロットマシン画像を掲載するにあたり、機種名を併記するだけではキャプションとして格好がつかないと考えたライターがテキトーに付け加えたのではないかと強く疑っています。なぜなら、当時のセガのスロットマシンはアジア太平洋地域の米軍基地と、そして英国向けに生産されていたもので、基本的に日本人は対象外だったからです。

130ページにはスロットマシンに関する3つの記事があり、一つ目の「スロットマシン・キングって一体どこの王様だ?」では「サイ・レッド」氏(関連記事:ワタクシ的ビデオポーカーの変遷(3) 米国内の動き)を紹介しています。


ポパイ1979年4月25日号130ページのサイ・レッド氏を紹介する記事。赤枠内は、後述するsigmaのフリーペーパーにあった内容と被る部分。

この記事中の、「サイが開発した機械でサイの夫人が大当たりを当てたが賞金の受領を辞退させられた」というエピソードには、sigmaが1977年の秋に頒布したフリーペーパー「GF」に掲載されている同内容のエピソードと一致する記述が複数個所に見られます


フリーペーパー「GF」1977年秋号3ページ目の一部。赤枠で囲った部分がポパイの記事の元ネタと思われる。

この一致には様々な可能性が考えられるので、部外者がガタガタ言うこともあるまいということにして、アメリカで発明されたスロットマシンでアメリカンドリームを遂げた男がいたというストーリー自体は良いとしましょう。

しかし、二つ目の「スロットマシンが偶然だけのゲームだなんて、ゲームを知らない男のセリフだ」という記事は読んでも時間の無駄としか言いようがありません。ろくに知見のない分野を締め切りに追われながらまるでオーソリティであるかのような口ぶりで紙面を埋めて行かなければならないご苦労は察しますが、それにしてもあまりにもひどい。こういうものは読者のリテラシーで対応しなければならないところでしょう。


130ページの「スロットマシンには勝ち方がある」と言っている部分。

なお、最後の「女の遊びなどと言われたスロットも最近は1ドルが主流」という記述を若干フォローすると、「女の遊び」については、そのような固定観念が(現在に至ってもなお)存在することは事実です。でも実は、この文言もまた前述のsigmaのフリーペーパーの中に同じ記述があるところに少し引っ掛かりを感じないこともないです。また、「1ドルが主流」については、米国で1ドルデノミの機械が一般化し始めたのは1975年からなのでまるっきり嘘ではありません。ただ、「(25セント機や5セント機と並んで)一般的になっている」とする方が正確です。

やっぱりなんだか文句ばかりになってしまっていますが、記事に添えられている二つのスロットマシンの画像は見所と言えそうです。筐体はBally製だがキャプションには「フォーチュン・コイン社製」と書かれているビデオスロットは、今や世界のカジノを席捲するビデオスロットの極めて初期の形が見られる意味で貴重です。

そして「形がユニーク」と言っている「バリー社の1ドル・スロット」は、Marshall Fey氏の著書「Bally Slot Machines」によれば、実際の開発は「Games of Nevada」社で、Ballyは販売を受け持って1976年頃に発売された「Slim Trim」というシリーズです。残念ながら市場の評価は芳しくなく短期間しか生産されなかったとのことですが、後のスラント筐体に通じるデザインであり、「早すぎた埋葬」であったかもしれないと思います。

最後となるアンティークスロットの話の冒頭は、クラシックカーの「ハラーズ・オートモビル・コレクション」の話から始まっています。このポパイが発行されていた当時、シティ・ボーイたるものクルマは必須アイテムというような風潮があったので、ポパイとしてはむしろこの話だけで占めたかったのではないかと邪推します。





アンティーク・スロットの記事。なるべく大きく表示するために4分割してある。

ここで出てくる「ハラーズ」とは、カジノホテル「ハラーズ(Harrah's)」の創立者である「ウィリアム・F・ハラー (William F. Harrah)」のことです。彼のクラシックカーコレクションの一部は長い間ラスベガスのカジノホテル「The Linq (旧インペリアルパレス)」の「クラシックカー・コレクション」で展示されていました

記事には、ハラ―氏は車だけでなくスロットマシンのコレクターでもあったと書いてありますが、記事中の2枚目の画像からネット上を調べたところ、この画像は1975年に行われたオークションのカタログの表紙であることと、ここに見える「Pony Express」とは、ハラー氏がかつて所有していた博物館の名前であることがわかりました(自分用メモ:1986年7月17日付けのロサンゼルス・タイムズの記事に「ギャンブルの起業家のハラ―氏が所有していたポニー・エクスプレス・ミュージアム 」という一文あり)。

しかし、「ポニー・エクスプレス・ミュージアム」が収蔵していたのは西部開拓時代の文物全般であって、ことさらスロットマシンを蒐集していたというわけではないようです。それはさておき、この記事はそのオークションを念頭に書かれているものと思われますが、この記事が書かれている時点の米国では既にコレクターを対象とする古いスロットマシン市場は成立しており、「めったに手に入らない」は言い過ぎです。

この記事にあるように、古いスロットマシンに感じる価値として、「一個の芸術品と言っても良いほどの美しさ、がっしりしたメカの味わい」は確かにある事でしょう。しかしワタシはこれに加えて、スロットマシンが現在の形に至るまでの進化の過程を示す「生きた化石」である点も強調しておきたいと思います。

全5回に渡って記録してきた雑誌「ポパイ」1979年4月25日号の特集記事「ポパイ・ゲームブック」の記録は以上です。一般雑誌ゆえ不正確な記述が散見されますが、それに目くじらを立てるより(指摘はしましたが)、インベーダーブームのさなかである1979年春という時期の世間一般におけるAMの捉えられ方を窺い知れることに大きな価値のある記事でした。編集に携わったみなさん、ありがとうございました。

(このシリーズ終わり)