マジックトッパーズ(シグマによるリメイク版/1980)
開店して間もないころのゲームファンタジア・ミラノ店内。右奥に当時のマジックトッパーズが見える。
閉店直前のゲームファンタジア・ミラノ入り口付近。「メダルゲーム発祥の地」の文字が見える。
ワタシのスロットマシンへの憧れは、おそらく1968年の梅雨時、小学校3年生の時の出来事から始まっていると思います。ある雨の日、学校にスロットマシンのおもちゃを持ってきたバカな級友がいて、休み時間にそれを遊んでいたのでした。周囲には、「自分にもやらせてくれ」と言いたいがきどもが群がり、ワタシは少し離れたところから眺めるばかりで、とてもその輪の中に割って入る勇気が出ず、悔しい思いをしたものでした。
それから少し後、たぶん1970年のある日、ワタシは、渋谷道玄坂の「緑屋」という百貨店に併設されていた「ミドリボウル」というボウリング場に、一人でいました。現在は商業ビル「The Prime」が建っている場所です。なぜ、小学生が保護者の同伴もなくそのような盛り場をうろついていたのか、定かな記憶はありません。きっと親に黙ってこっそり冒険をしてみたというところだったのだと思います。そこでワタシは、日本のゲームアーケード史に残るエポックをこの目で見たのでした。
ミドリボウルはボウリング場として当然のようにゲームコーナーがあったのですが、この時はその片隅に、チェーンで仕切られ、何台かのスロットマシン類が置かれている一角があり、そこではたくさんの大人の人たちが遊んでいたのです。やや薄暗い中で、色とりどりのライトが点滅するスロットマシンは幻想的で大変美しく、ワタシはフラフラと1台のスロットマシンに近づいていきました。そこでは、今まさに蹄鉄のシンボルが揃って大量のトークンが払い出されている最中でした。まるで夢のような心地でその様子を見ていると、店員さんがやってきて、ここは18歳未満の方は入れないので速やかに退場してください、という趣旨の注意を受けました。子供相手であるにもかかわらずその物腰は丁寧で、決して威圧的だったり粗雑だったりはしませんでした。
このゲームコーナーこそ、後に「メダルゲームの盟主」としてAM業界に確固たる地位を築き上げたシグマ社による「ゲームファンタジア・カスタム」でした。
シグマ社の創業者である故真鍋勝紀(敬称略・以下同)は、スロットマシンをアミューズメントオンリーでオペレートしても商売になると考え、それを検証するために、1969年から都内の何か所かで実験店舗を展開しました。「ゲームファンタジア・カスタム」はその実験店舗のうちの第一号店です。
業界人の多くは、換金のできないスロットマシンが成功するはずがないと真鍋の挑戦を冷やかに見ていたそうですが、あにはからんや、真鍋の思惑は大当たりし、1971年12月18日には、新宿歌舞伎町の東急ミラノビル内に、日本初の本格メダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ」をオープンするまでに成長しました。同店には46台(開店時)ものメダルゲーム機が設置されていたのみならず、当時としては破格に豪華で大規模なゲーム場として注目されました。以降、これを模倣するオペレーターが相次ぎました。
こうして始まった「メダルゲーム」というジャンルは、現在はAM業界を支える強力な柱の一本となっています。そのゲームファンタジア・ミラノは、2014年12月23日に、テナントとして入っていた東急ミラノビルの閉鎖に伴い、43年の歴史に幕を閉じました。
ゲームファンタジア・カスタムで見たゲーム機で、鮮明に覚えている機種が一つあります。ケースの中に5色のシルクハットがあり、このうちのどれにボールが隠されているかを当てるというゲームで、今調べると、「マジックハット」と「マジックトッパーズ」という二機種の断片的な画像が見つかるのですが、そのどちらだったかまではわかりません。いずれにしても、60年代の外国製品であることは間違いの無いところですが、シグマ社は、1980年にこれをリメイクしています。
開店して間もないころのゲームファンタジア・ミラノ店内。右奥に当時のマジックトッパーズが見える。
閉店直前のゲームファンタジア・ミラノ入り口付近。「メダルゲーム発祥の地」の文字が見える。
ワタシのスロットマシンへの憧れは、おそらく1968年の梅雨時、小学校3年生の時の出来事から始まっていると思います。ある雨の日、学校にスロットマシンのおもちゃを持ってきたバカな級友がいて、休み時間にそれを遊んでいたのでした。周囲には、「自分にもやらせてくれ」と言いたいがきどもが群がり、ワタシは少し離れたところから眺めるばかりで、とてもその輪の中に割って入る勇気が出ず、悔しい思いをしたものでした。
それから少し後、たぶん1970年のある日、ワタシは、渋谷道玄坂の「緑屋」という百貨店に併設されていた「ミドリボウル」というボウリング場に、一人でいました。現在は商業ビル「The Prime」が建っている場所です。なぜ、小学生が保護者の同伴もなくそのような盛り場をうろついていたのか、定かな記憶はありません。きっと親に黙ってこっそり冒険をしてみたというところだったのだと思います。そこでワタシは、日本のゲームアーケード史に残るエポックをこの目で見たのでした。
ミドリボウルはボウリング場として当然のようにゲームコーナーがあったのですが、この時はその片隅に、チェーンで仕切られ、何台かのスロットマシン類が置かれている一角があり、そこではたくさんの大人の人たちが遊んでいたのです。やや薄暗い中で、色とりどりのライトが点滅するスロットマシンは幻想的で大変美しく、ワタシはフラフラと1台のスロットマシンに近づいていきました。そこでは、今まさに蹄鉄のシンボルが揃って大量のトークンが払い出されている最中でした。まるで夢のような心地でその様子を見ていると、店員さんがやってきて、ここは18歳未満の方は入れないので速やかに退場してください、という趣旨の注意を受けました。子供相手であるにもかかわらずその物腰は丁寧で、決して威圧的だったり粗雑だったりはしませんでした。
このゲームコーナーこそ、後に「メダルゲームの盟主」としてAM業界に確固たる地位を築き上げたシグマ社による「ゲームファンタジア・カスタム」でした。
シグマ社の創業者である故真鍋勝紀(敬称略・以下同)は、スロットマシンをアミューズメントオンリーでオペレートしても商売になると考え、それを検証するために、1969年から都内の何か所かで実験店舗を展開しました。「ゲームファンタジア・カスタム」はその実験店舗のうちの第一号店です。
業界人の多くは、換金のできないスロットマシンが成功するはずがないと真鍋の挑戦を冷やかに見ていたそうですが、あにはからんや、真鍋の思惑は大当たりし、1971年12月18日には、新宿歌舞伎町の東急ミラノビル内に、日本初の本格メダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ」をオープンするまでに成長しました。同店には46台(開店時)ものメダルゲーム機が設置されていたのみならず、当時としては破格に豪華で大規模なゲーム場として注目されました。以降、これを模倣するオペレーターが相次ぎました。
こうして始まった「メダルゲーム」というジャンルは、現在はAM業界を支える強力な柱の一本となっています。そのゲームファンタジア・ミラノは、2014年12月23日に、テナントとして入っていた東急ミラノビルの閉鎖に伴い、43年の歴史に幕を閉じました。
ゲームファンタジア・カスタムで見たゲーム機で、鮮明に覚えている機種が一つあります。ケースの中に5色のシルクハットがあり、このうちのどれにボールが隠されているかを当てるというゲームで、今調べると、「マジックハット」と「マジックトッパーズ」という二機種の断片的な画像が見つかるのですが、そのどちらだったかまではわかりません。いずれにしても、60年代の外国製品であることは間違いの無いところですが、シグマ社は、1980年にこれをリメイクしています。