オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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初の国産メダルゲーム機の記憶

2016年03月06日 21時16分25秒 | 初期の国産メダルゲーム機

 
ファロの画像。1975年に制作された「セガ・メダルゲームマシン・総合カタログ」に掲載。

 
(参考)19世紀のアメリカでFAROに興じる人々の絵(2010年ころ、ネバダ州カーソンシティのカジノに掲げられていたものを撮影)

 
(参考)セガの謎ネーミングゲームその2の「プントバンコ」の画像。上記ファロが掲載されていた同じカタログに掲載。

日本のゲームアーケード市場にメダルゲームと言うジャンルが定着したのは1972年と言って良いと思いますが、何しろできたばかりの市場ですので、草創期に設置されたゲーム機の殆どは外国から輸入してきたギャンブルマシンでした。

実際は、この時既に日本でもペイアウトのあるゲーム機が製造され、その一部はメダルゲームとして設置されることもありましたが、それらは本来、在日米軍基地や海外市場向けか、または風俗第7号営業(=当時の呼称・つまりパチンコ店のこと)向けか、もしくは違法な賭博営業を行うアングラ市場向けでした。

そんなわけで、初の国産メダルゲーム機が何であるかを特定するのは少し難しいのですが、純粋にメダルゲーム市場向けに製造された機械と限定すると、19741973年の春頃にセガから発売された「ファロ」と「シルバーフォールズ」になろうかと思います。(2024年8月5日修正)

「ファロ(FARO)」は、カジノのゲームで言えばビッグシックスに似ています。筐体前面に、ルーレットを模した大きなホイールが描かれた絵ガラスがはまり、36に分割されたホイールの外周には、2、4、6、8、10、30のいずれかの数字が描かれていました。外周の数字のすぐ内側には、本来のルーレットならボールが収まるポケットに相当する部分が描かれ、1カ所に丸い光が点灯しています。ゲームが始まると、この丸い光が時計回りに順繰りに点灯し、最終的に停止したポケットの外周に描かれている数字が当たりとなります。

ホイールの数字はそのまま当たった時の配当の倍率になっています。プレイヤーは、当たりと予想する数字のスロットにメダルを投入します。1カ所に投入できるメダルは最大で4枚までですが、「30」のみ2枚までに制限されていました。

賭けの受け付けを開始すると、ガラス面右下に「BET NOW」の文字が点灯し、内蔵されたエンドレステープが、男の声で、不明瞭な英語のアナウンスを流していました(その声が、今にも息絶えそうな老人の声に聞こえていたのは、1日に何百回も、それを毎日毎日再生し続けるハードな使用状況のため、テープまたは再生機に問題が生じていたからかもしれません)。

一定時間が経過すると賭けの受付は締め切られ、「BET NOW」の表示が消えて、ベルが一発チーンと鳴り、玉のランプが廻り始めます。当時はまだIC技術が発達していなかったので、光の玉の動きは、それぞれのポケットのランプに繋がる接点を円形に並べ、これに、モーターで回転する接点を順次接触させてひとつずつ発光させていました。光の玉が廻っている間は、「カラカラカラ」と効果音が鳴っていましたが、これは接点同士が接触する音ではなく、意図した効果音でした。「ファロ」は、今にして思うと格別面白いゲームと言うわけでもないはずなのですが、当時の殆どのメダルゲーム場に設置される大ヒット機種となりました。

ちなみに、開拓時代のアメリカで「FARO」というカードゲームが流行したのですが、セガがなぜ、その名前を、むしろルーレットに近いこのゲームに付けたのかは謎です。更にセガはこの翌年、やはりルーレットをテーマとしたメダルゲーム機を発売し、これに「プント・バンコ(PUNTO BANKO)」と名付けています。プントバンコ(英語読みならパントバンコ?)とは、やはりカードゲームであるバカラのバリエーションのゲーム名のはずで、さらに重箱の隅をつつくと、英文のつづりは「PUNTO BANCO」とするのが正しいはずです。このころのセガに、何か事情があったのでしょうか。

 

【2023年5月21日加筆】

その後、国産初のメダルゲーム機は「シルバーフォールズ」であって「ファロ」ではないことが判明し、関連記事をアップしました。

【関連記事】

【衝撃の小ネタ!】国産初のメダルゲーム機、実はファロじゃない!? (2023年5月14日)

初の国産メダルゲーム機:シルバーフォールズ (2023年5月21日)

 


「メダルゲーム」の曙を見た記憶

2016年03月02日 23時29分53秒 | 歴史
マジックトッパーズ(シグマによるリメイク版/1980)
開店して間もないころのゲームファンタジア・ミラノ店内。右奥に当時のマジックトッパーズが見える。
閉店直前のゲームファンタジア・ミラノ入り口付近。「メダルゲーム発祥の地」の文字が見える。

 ワタシのスロットマシンへの憧れは、おそらく1968年の梅雨時、小学校3年生の時の出来事から始まっていると思います。ある雨の日、学校にスロットマシンのおもちゃを持ってきたバカな級友がいて、休み時間にそれを遊んでいたのでした。周囲には、「自分にもやらせてくれ」と言いたいがきどもが群がり、ワタシは少し離れたところから眺めるばかりで、とてもその輪の中に割って入る勇気が出ず、悔しい思いをしたものでした。

 それから少し後、たぶん1970年のある日、ワタシは、渋谷道玄坂の「緑屋」という百貨店に併設されていた「ミドリボウル」というボウリング場に、一人でいました。現在は商業ビル「The Prime」が建っている場所です。なぜ、小学生が保護者の同伴もなくそのような盛り場をうろついていたのか、定かな記憶はありません。きっと親に黙ってこっそり冒険をしてみたというところだったのだと思います。そこでワタシは、日本のゲームアーケード史に残るエポックをこの目で見たのでした。

 ミドリボウルはボウリング場として当然のようにゲームコーナーがあったのですが、この時はその片隅に、チェーンで仕切られ、何台かのスロットマシン類が置かれている一角があり、そこではたくさんの大人の人たちが遊んでいたのです。やや薄暗い中で、色とりどりのライトが点滅するスロットマシンは幻想的で大変美しく、ワタシはフラフラと1台のスロットマシンに近づいていきました。そこでは、今まさに蹄鉄のシンボルが揃って大量のトークンが払い出されている最中でした。まるで夢のような心地でその様子を見ていると、店員さんがやってきて、ここは18歳未満の方は入れないので速やかに退場してください、という趣旨の注意を受けました。子供相手であるにもかかわらずその物腰は丁寧で、決して威圧的だったり粗雑だったりはしませんでした。

このゲームコーナーこそ、後に「メダルゲームの盟主」としてAM業界に確固たる地位を築き上げたシグマ社による「ゲームファンタジア・カスタム」でした。

シグマ社の創業者である故真鍋勝紀(敬称略・以下同)は、スロットマシンをアミューズメントオンリーでオペレートしても商売になると考え、それを検証するために、1969年から都内の何か所かで実験店舗を展開しました。「ゲームファンタジア・カスタム」はその実験店舗のうちの第一号店です。

業界人の多くは、換金のできないスロットマシンが成功するはずがないと真鍋の挑戦を冷やかに見ていたそうですが、あにはからんや、真鍋の思惑は大当たりし、1971年12月18日には、新宿歌舞伎町の東急ミラノビル内に、日本初の本格メダルゲーム場「ゲームファンタジア・ミラノ」をオープンするまでに成長しました。同店には46台(開店時)ものメダルゲーム機が設置されていたのみならず、当時としては破格に豪華で大規模なゲーム場として注目されました。以降、これを模倣するオペレーターが相次ぎました。

こうして始まった「メダルゲーム」というジャンルは、現在はAM業界を支える強力な柱の一本となっています。そのゲームファンタジア・ミラノは、2014年12月23日に、テナントとして入っていた東急ミラノビルの閉鎖に伴い、43年の歴史に幕を閉じました。

ゲームファンタジア・カスタムで見たゲーム機で、鮮明に覚えている機種が一つあります。ケースの中に5色のシルクハットがあり、このうちのどれにボールが隠されているかを当てるというゲームで、今調べると、「マジックハット」と「マジックトッパーズ」という二機種の断片的な画像が見つかるのですが、そのどちらだったかまではわかりません。いずれにしても、60年代の外国製品であることは間違いの無いところですが、シグマ社は、1980年にこれをリメイクしています。