オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ワタクシ的「ビデオポーカー」の変遷(1)

2017年02月19日 00時10分40秒 | 歴史
ビデオポーカーは、ビデオゲームが出現した1970年代以降のギャンブルですので、歴史は比較的浅いですが、北米のカジノでは最も人気がある重要なジャンルとなっています。現在のワタシにとっても、カジノに行けば最も多くの時間を費やすゲームです。

しかし、ビデオポーカーは、汎用筐体に組み込まれる性格のものであるため、コレクターが喜びそうな意匠を凝らした筐体があるわけでもなく、そのせいか、リールマシンと違ってコレクターもあまりいないようですし、その歴史を語る刊行物もほとんど見受けることはありません。

というわけで、今回は、ワタシがそのスタート時点から見てきたビデオポーカーの変遷を記録しておこうと思います。とは言うものの、ワタシの知識などごく部分的なものなので、たいした内容にはならないことは現時点で明らかではありますけれども。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

1978年、タイトーのビデオゲーム「スペースインベーダー」による、日本の風俗史に残る社会現象となる「インベーダーブーム」が起きました。

この頃のビデオゲームの表示能力は、スペースインベーダーの画面を見ればわかる通り、粗い点で構成された簡単な図形や文字を表示するのがせいぜいで、また、カラー画面のゲームも少しはあったものの、標準はあくまでも白黒画面でした。


スペースインベーダー(タイトー、1978)の画像(ウィキペディアより引用)。画面の下の部分の表示が緑色なのは、この部分に緑色のセロファンをオーバーレイしているため。白黒モニターが主流の時代には、このような色セロファンによる疑似カラー表示がしばしば行われた。

この同じ年、sigmaは、日本初となるビデオポーカー機をリリースしましたが、なにしろビデオゲームの技術がまだそういう時代だったので、カードは当然白黒表示で、デザインもちょっと無理やり感のあるものでした。


TV・POKER(テレビポーカー)のフライヤーとその画面部分の拡大図。裏面には「シグマが自家使用目的で、米国メーカーと技術提携し開発製造した」とある。「米国メーカー」とは、現在の米国IGT社の前身であるSIRCOMA社A1 Supplyと思われる。

sigma社は自社ロケにこのテレビポーカーを大量に設置しましたが、この時点のワタシは、こんなものは絶対インチキに違いないと思い込んでいたため(この思い込みはかなり後まで引きずる)、よほど気まぐれを起こした時でもなければ遊ぶことはありませんでした。

1979年になると、ビデオゲームにもカラー画面が普及し、画面解像度もいくらか上がるようになります。sigmaはこの潮流を受けて、1980年(ひょっとすると1979年かも)に、カラー画像のTV・POKERを発売するようになりました。


カラーのTV-POKERのフライヤーとその画面部分の拡大図。ラスベガスのダウンタウンでは、2000年代でもまだこの同等機種(メーカーはIGTだったが、中身はこのマシンと殆ど同一と思われる)が稼働していた。

(次回に続く)
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10 コメント

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Unknown (マナベカツキ)
2018-01-01 20:29:56
sigma TVPOKERのキーワードでチェックしてきました。懐かしいTV-POKER B/W
が見られて幸せです。
実はコイツのメンテナンス要員をしておりました
 5101というRAMの不良が多かったきかいです。
筐体全面の鍵をあけると、一面のでかい基板が装着されていて、 ハンダバキュームを持って交換に追われたものです。今からは信じられないですが、この筐体は音の機能がありません
なので、プレイ中は無音です、そのためスイッチをぎゅうぎゅう押して、HOLDスイッチが
ガンガン壊れました。そのたびにオムロンのスイッチを交換するという作業もたびたび行ったものです。

シグマといえばダービーですが、
この当時ダービーV0がまだ新宿ミラノで稼動しており、V0のドドドドという走行音を聞きながらメンテをしていたのを思い出します


Unknown (nazox2016)
2018-01-02 15:09:50
マナベカツキさん、はじめまして。ワタシにとって特別な存在であるsigmaの「中の人」から、昔の貴重なお話を伺うことができて感激しております。

そう言えば、「TV・POKER」には音がありませんでしたね。拙ブログは、誰も記録しておかなかったアーケードゲームに関する逸話をなるべくたくさんとどめて後世に残しておきたいという思いがありますので、もしよろしければ今後もマナベカツキさんのご記憶に残る薀蓄をご教示いただければありがたく存じます。今後ともよろしくお願いいたします。
Unknown (マナベカツキ)
2018-01-10 08:43:38
どもです。
老人のタワゴトにリプ感謝します。

POKERB/Wの後にビデオスロット3LINEというものを自社開発してPOKERにしたりスロットにしたりしてました。

当時、TGI(テーブルゴールデンインベーダー)の筐体も自社製作してたので、
成城工場はフル稼働してました
さらにbingoとフリッパーのメンテも成城だったので 工場はモノだらけ、社長の
自宅の庭も物置と化して大変でした。

シグマの提携先は、クロンプトンで メダル落としのスプラッシュダウンを国内でライセンス生産をするという」ものが最初で
そこから
SIRCOMAやボーデンズとか、playmachic
といったメーカと仲良くなっていったようです 


ゴットリーブの社長が日本に来た時は
自社だけで京王プラザホテルを貸切り
社長だけの展示会を開いてましたね
お金は持っていたようです


うーん懐かしいな
 
Unknown (nazox2016)
2018-01-11 17:33:32
マナベカツキさん、再び貴重なコメントをいただきありがとうございます。

ビデオスロット3LINEをsigmaで自社開発されていたとは存じませんでした。1978~9年ころ、GFミラノで、当時は非常に目新しかったカラーのビデオスロットが何機種かありましたが、あれらはひょっとしてsigma製だったのでしょうか。ワタシは、4リールで、プラムもチェリーのように一つ、または二つで役になる機種を良く遊びました。「PLAY ME!」とか「I'M LOOSE!」なんてメッセージが表示されていたように記憶しています。

ゴールデンインベーダーには、当時としては破格の大画面の筐体もありましたが、その全体画像がどこにもなく、どのくらいの大きさであったかが思い出せません。その前に同じ筐体で「ゴールデンナゲット」というブロック崩しもありましたね。

クロンプトンのスプラッシュダウンも覚えています。巻きメダルが落ちそうで落ちず、何度も悔しい思いをしたものでした。巻きメダルを始めたのもsigmaでしたが、それが今では機械が自動的に供給するボールに進化しています。

ところで、playmachic は、playmatic、ではありませんでしょうか? 四角形のポップバンパーが特徴的で、アメリカ製のピンボールと区別がつきました。ワタシは「SPEAK EASY」という機種を、ダイエー碑文谷店のナムコのロケで良く遊んでいました。

ひとつ、「ボーデンズ」の名に心当たりがございません。どんな製品があったのか、ご教示いただければ幸甚です。これからもよろしくお願いいたします。
Unknown (マナベカツキ)
2018-01-12 21:20:13
どもです。もうしばらくお耳汚しをば・・・・

ゴールデンナゲット ゴルデンインベーダー
までの3枚基板までは、自社開発です。
富士電子さんは5LINEあたりから出入りしてましたから、まあ共同開発みたいな感じだったと思います。

バトルクルーザーとかthe悟空 M16 NYNY
は半分富士電子さん。
富士電子さんは、筐体図も書いてくれていたので、コインの投入口とか、
何枚も連続で入れられる構造のコイン投入口なども富士さんです


 TGIの大型筐体は ジャンボ筐体と呼んでました
レカロのシートをくっつけて、目の前にはSONYの32インチのブラウン管テレビ
を入れただけなのですが、
この筐体も成城工場発です。
TGIは3枚の組基板でできていいるのですが、
基板の真ん中に点数表示基板という
基板を差す部分があって、その基板で最高得点を記録するようになってました。
ジャンボ筐体は、その後の時代 ジャンボギャラクシアンとかジャンボパックマンに利用されてました。

playmaticですね。タイプミスです。
speakeasyという名前かどうかはちょっと思い出せないのですが、中にボンディアテープが入っていてOH! NICE!とか短文を喋るフリッパーが5-6機種ありました。
 当時はバリー ウイリアムス ゴットリーブの
3メーカーをあつかっていたのですが
そこにデーターイーストが入ってきた時期です。
あたらしい機種が欲しかったのかもしれません。

ボーデンズはイスとかの什器備品のメーカーで。当時の灰皿とか、イスとかはみんな
ボーデンズ製でした。
当時社長の乗っていた会社の座席もボーデンズ柄だった記憶があります。
ちなみにゲームファンタジア マジックランド ビンゴインなどの、看板も同メーカーで
壊すと高いんみたいなことをいわれたことがあります。


また寄ります よろしくお願いします。


Unknown (nazox2016)
2018-01-19 00:00:37
マナベカツキさん、お返事が遅れてしまいすみません。

マナベカツキさんのお話をお伺いしていると、懐かしさと、思わぬ業界裏話の連続でクラクラします。

「富士電子」はそのころから既にsigmaと協業していたんですね。the悟空やNYNYは、実はあまり面白さが理解できなかったのですが、「こんなはずはない、そのうちきっと面白くなるに違いない」と思いながらよく遊んだものでした。the悟空のサウンドはスペースインベーダーの音をそのまま流用していたように記憶していますが、TGIの部品が使われていたのでしょうか。

TGIの「ジャンボ筐体」の画面がたったの32インチだったとは驚きです。もっとはるかに大きいものと思っていました。

当時のsigmaのビデオゲームでワタシが入れ込んでいたのは「RED TANK」というドットイートゲームでした。ドットを1つ消すと砲弾が一つ補充されるというルールを悪用して点数稼ぎをして、1ゲームを30分くらいかけて遊んでおりました。当時はまだそういうことができる時代でした。

「マジックランド」の名前も懐かしいです。ワタシの家の最寄り駅である東横線都立大学駅にもできて、80年前後には夜中にも遊びに行っていたものでした。元々は隣駅の学芸大学駅の地下街にできるはずで、入り口のシャッターにはロゴまで描かれたのですが、しばらくしてロゴは塗りつぶされ、結局そこがオープンすることはありませんでした。地元住民の反対があったと聞いています。

マナベカツキさんのご記憶をこのまま埋もれさせてしまうのはあまりにも惜しいです。どうかこれからもいろいろお話を聞かせてください。よろしくお願いします。
ダービーVO (マナベカツキ)
2018-04-23 21:49:48
ダービーV0の話が出てたので
思い出した話をちょっと。

プログラムがパンチカードの時代です
リーダーにパンチカードを突っ込むと
がちゃがちゃという盛大な音をたてて読み込みが始まります。
 いまでいう再起動ですね。
毎回読み込ませてから動かします。
 読み込むと馬はスタート位置の20cm前まで移動し、全部の馬が揃ってゴール位置に止まると、ゲームがスタートします。
後の時代になり、10レースのみが
ODDを好きに替えられるようになり、
マナベ杯大0レースODDとかいって
7-8が高配当とかにしていました。
配当モニタ表示が焼きつき、3ヶ月に1回くらい交換していましたが、中身は、東芝の家庭用の白黒テレビでした。
当時進行の規則性がみつかって
ゲームが終わるまえに、勝ち馬が分かるという現象がおこり、当時のプレーヤーの中で
話題になりました


ビデオゲーム

ゴールデンナゲット
ゴールデンインベーダー
(3枚基板)
THE悟空
RED TANK
NYNY(音基板は6802)
バトルクルーザーM16
ポンポコ
(赤頭巾)
キャプテンハーロック(NYと同じ)
あたりが自社開発(冨士電子)
(6809シリーズ)が技術3課扱いで
文字通り ハードもソフトも製作していました

今でいうロケテストは、レインボーセブンで
行われることが多かったようで、
REDTANKもロケテストはレインボーセブンでした。
 そこから さくら通りやイズミ セントラルロード ミラノ フリッパールームと
新宿のマジックランド全店から配備されるという順番でした。
 渋谷や池袋は新宿の後。

 後の時代になり、シグマワンというロケが出来ると、ロケテストは新宿から池袋になりました。

取り留めのない話ですみません
また寄りますねーーー


  

Unknown (nazox2016)
2018-04-23 23:44:03
マナベカツキさん、こんにちは。ザ・ダービーV0の時代はまだパンチカードの時代でしたか。80年代前半、ワタシがコンピューターの勉強をさせられていた時分にはもう磁気媒体ばかりになっており、紙テープやパンチカードを見ることはありませんでしたが、それでもコンピュータ概論の初歩として、パンチカードの存在は教えられました。それが僅か10年前には現役だったとは。

今急に思い出したのですが、レースがスタートすると、モニターに「THERE THEY GO!」 「OUT OF THE GATE!」と表示されていたのはV0ではありませんでしたっけか。V0は筐体デザインだけでなく、メダルの払い出し口も非常にカッコ良かったことを覚えています。ただ一度だけ、まだ払い出しメダルが1枚残っているはずなのになかなか払い出されず、メダルを拳上するディスク(?)がしばらく回り続けていたと思ったら、結局払い出されぬままディスクの回転も停まってしまったことがありました。確かエラーは出なかったように記憶しています。

sigmaは、ワタシが思っていた以上に、かなり早い時期から開発技術が進んでいたのですね。この点については、ワタシの認識を変えなければいけないようです。またお話を聞かせてください。
Unknown (マナベカツキ)
2018-04-25 06:57:12
はは 無駄な話ですねww
お耳汚しで。


あーそんな標示ありましたね
その標示が出てたモニタは
テレビですから。w

1レースから8レースまで回ると、
次の1レース目にもどるのですが、
そのときに前のレースのペイアウトを計算するという時間があって
そのときにモニタに ザダービーという
標示が出るんですね。

払いだらしメダル一枚でカラカラいうのは当時の ツメ式ホッパーの特徴で
最後の一枚がツメに引っかからなくて
いつまでもカラカラいいました
今ならエラーでとめるのでしょうけど、
当時は出るまで待ってたんでしょうねえ。

V0の裏には、内部放熱のために
家庭用の換気扇が2台ついていて
常に熱風が出てまた。


ミラノの後期の時期 
お店のそとから 機械が見えるようにするということで、入り口近くに移動するという命令が出て、全員が夜間出勤して
移動したのですが
この換気扇がふさがれてしまい
再移動になりました




Unknown (nazox2016)
2018-04-26 22:42:23
マナベカツキさん、ワタシにとっては大変興味深く面白いお話でありがたいです。全く耳汚しでも無駄でもありません。これからもいろいろお話を聞かせてください。

V0はYHPのミニコンが搭載されたと聞いておりますが、コンピューターはとにかく冷やすという常識がありましたね。ワタシも80年代には大きな会社のコンピュータールームで作業をした経験がありますが、とにかく寒かったものでした。70年代半ばというと、ようやくCPUがゲーム機に導入され始めたころですが、きっと熱によるトラブルというものもよくあったのではないでしょうか。

ところでワタシは、V0はリトルサーカスでしか見た覚えがありません。ミラノに行くようになったのはおそらく1977年か78年くらいかと思いますが、その時には既にMKⅡに置き換えられておりました。MKⅡのベット数は、4つのランプにより2進法で表示されていましたが、まだパソコンなんてものが珍しかった当時のワタシは2進法をよく理解できず、大いに混乱したものでした。そのMKⅡの画像を長いこと探しているのですが、いまだに見つけられずにおります。

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