副都心新宿に、「新宿サブナード」と言う地下街があります。今回は、かつてこのショッピングモールにあったゲームセンターの記憶を記録しておこうと思います。
半年ほど前、「ゲーム紙モノコレクターの浅野」さまより、「歌舞伎町のゲームファンタジア・カスタムのポスターを入手したが詳細がわからない。何か情報はないだろうか」と言う趣旨のコメントをいただきました(関連記事:メダルゲームの曙を見た記憶)。
「ゲームファンタジア・カスタム」は、業界に「メダルゲーム」と言うジャンルを確立させたsigma社が、渋谷のボウリング場で始めたメダルゲームの実験店舗に付けた屋号ですが、歌舞伎町にも同名のロケがあったとは聞いたことがなかったので、俄然興味を抱きました。しかし、この時点では情報らしい情報は思い当たりませんでした。
そこで、件のポスターを見てみれば何かヒントがあるかもしれないと思い、浅野さまに画像を送っていただけまいかとお伺いしたところ、すぐにメールで送ってきてくださいました。
ゲームファンタジア・カスタムのポスターの画像。大きいので、上下に分けて撮影されている。「機械ゲーム」などと言う珍妙な表現は、まだメダルゲームの概念が一般に浸透する途上段階で、そもそも「メダルゲーム」という言葉自体がまだ生まれていなかった時代に、sigmaの担当者が苦心して捻り出したコピーなのであろう。(画像提供:ゲーム紙モノコレクターの浅野さま)
ご提供いただいたポスターを見ると、「新宿サブナード・歌舞伎町入口・ロマンの森ビルB1・B2」とあります。全く聞いたこともないビルなのでさっそくググってみましたが、「”ロマンの森ビル”との一致はありません。」と言われてしまいました。しかし、「サブナードの地下1、2階」という条件は、ワタシが70年代半ば頃から90年代終わり頃にかけて良く行っていたゲームセンター「ゲームファンタジア・リトルサーカス」及び「ビンゴイン・サブナード」の立地と符合します。これらの店舗から階段を上って地上に出れば、目の前は靖国通りで、すぐ脇には歌舞伎町一番街の入り口のアーチがありました。
これらを手がかりに手持ちの資料をひっくり返してみたところ、業界誌「アミューズメント産業」の76年2月号に、「アミューズメント施設拝見 ビンゴイン・サブナード店 リトル・サーカス」という記事を発見しました。これには、「sigmaが、ゲームファンタジア・カスタムを大幅に改装し、新たな2店とした」と記述されています。更にダメ押しとして、「これまでの宣伝テーマも”機械ゲームの小宇宙”という抽象的なものであった」とも記されており、浅野さまが入手されたポスターの主体は、ゲームファンタジア・リトルサーカス及びビンゴイン・サブナードの前身という理解で間違いないとの結論に達しました。また、記事中には、「サブナードの開設にあわせたオープン以来注目を集めていた」とあるので、この「ゲームファンタジア・カスタム」は、サブナードが開業した1973年9月に同時に開業したものと思われます。
「アミューズメント産業」76年2月号に掲載された「アミューズメント施設拝見」の記事。入口に置かれたナイスボディなクラウンのポップのモデルはマリリン・モンローで、等身大だそうだ。
同記事より、リトルサーカスの店内の様子。正面に写っている「DEAD HEAT」は、タイトーが1975年に発売した、ビデオによるカーレーステーマのメダルゲーム。この写真撮影時には最新のマシンだった。
同記事より、ビンゴインの店内の様子。店内はミニスイートのホテルの部屋のように段差で二分割されており、上下のフロアを併せて20台ほどのビンゴ機と、いくらかのスロットマシン類が設置されていた。
ワタシは、1976年から1977年頃のリトルサーカスで、その後のsigmaの象徴ともなる「THE DERBY」の1号機である「Vφ(1975)」(関連記事:NASAが発明したゲーム機「ウィナーズ・サークル」)を遊んだり、また、おそらくは米国RAVEN社のキノマシン(類似機種の画像はこちら)を発見したものの遊び方が良くわからず悔しい思いをしたりしていたものでした。
リトルサーカスは、時代によって、メダルゲームよりもビデオゲームが主となることもあり、ワタシが初めてスペースインベーダーを見たのもこのリトルサーカスでした。ワタシは、それは1977年の暮れのことだったように記憶しているですが、後の資料でスペースインベーダーの発売年を「1977」としているものを見たためしがなく、自信が無くなっています。
高校卒業後の1978年から1979年にかけては、「スギウラ」という、なぜかわからないがやたらとカネ回りの良い高校時代の友人と二人で、徹夜でビンゴ・ピンボール(関連記事:都立大学駅前のビリヤード場「アサヒ」とピン・ビンゴ)に興じることも良くありました。その時に店内で良く流れており耳に残っていたBGMが、「Boney M」というグループの「Rasputin(邦題は「怪僧ラスプーチン」)」であることを知ったのは、比較的最近の事です。今、youtubeでこの曲を聴くと、当時の感覚がまざまざとよみがえります。
sigmaのロケは、18歳未満の入場を禁じ、落ち着いた雰囲気の大人の遊び場を志向しており、他社のロケとは一線を画していました。そのため、メダルの貸し出し料金はよそよりも高かった(35枚1000円。のちにビンゴインのみ50枚1000円に値下げした)にも拘らず、ワタシは社会人となってからも、このふたつのロケには時々行きました。
リトルサーカスとビンゴインが入っているビルは、先述の通り靖国通りに面しており、その正面の壁面の地上3Fから4Fにかけてと思しき部分には、sigmaのロゴが大書された看板が掲げられていました。以前、たまたまこのロケで働いていたという方とお話をする機会があった際には、「sigmaの創立者である故真鍋氏は生前、都心の一等地でたいへん目立つこの看板を維持するためにも、リトルサーカスとビンゴイン・サブナードは絶対につぶさないと言っていた」というお話も聞きました。しかし、2000年にパチスロメーカーのアルゼがsigmaに資本参加し、真鍋氏の影響力が弱まると、ゲームセンター業界全体の退潮傾向に伴い、リトルサーカスとビンゴイン・サブナードはどちらも閉店して看板も降ろされてしまいました。ワタシが最後にこの建物を見た昨年の段階では、その場所には消費者金融の看板が掲げられていました。
なお、ゲーム紙モノコレクターの浅野さまは、フェイスブックにてもオールドゲームに関するいろいろな情報を発信されてらっしゃいますので、ご興味のある方は一度ご覧いただければと思います。
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ここに書いていいのかな?
ビンゴインはミラノの所しか行ったことがありませんが!
サブナードにもあったんですね!
1000円35枚は高かったですね!
3000円のパックが安いのかと思ったら105枚だった。
リトルサーカスは地下二階、ビンゴイン・サブナードは地下一階でした。当時ビンゴイン・サブナードに勤務していた人から聞いた話によると、このロケは床が弱く、ボールをコントロールしようと台を揺すると床も一緒に揺れて他の台にも伝わってしまったのだそうです。当時のワタシはあまり意識しませんでしたが、言われてみればそんな傾向があったようにも思います。
sigmaのメダル、高かったですね(笑) sigmaは、失えば惜しいと思える程度に高く、高級感を損なうディスカウントもない価格設定によって客を選んでいました。こうして作り上げられたsigmaロケの雰囲気は確かに他とは一線を画しており、普段は安物を好むワタシでも、メダルゲームならsigmaロケでやりたいと思ったものでした。しかしその経営方針は、今のアドアーズには引き継がれていないように感じます(それが悪いことだと言っているわけではありません)。
通っているとわかるんですが、話しはしないけど顔見知りの常連さんが結構いました。その中に多分お金がなくなっちゃった常連さんが、人の斜め後ろで「こう言う場合は、次は大で、その次は小で」と指導までいかないけど、解説する少し太った人が居ました。
同じ歌舞伎町のムーランルージュの近くにあった「ルナパーク」というゲームセンターに夜中の2時、3時くらいに行くとゲーム台で寝ている人も多く店員は何も注意してなくてほとんど無法状態だったけれど、GFでは寝ている客がいると店員が声をかけるから、無法状態にならないで安心して遊ぶことが出来ましたね〜
やはり当時のsigmaの管理運営は優れていましたね。ワタシもビンゴインなどで夜通し遊ぶことがありましたが、客層が他とは全然違うと感じたものでした。
歌舞伎町の他のゲームセンターと言えば、ミラノ座前の公園を歌舞伎座の方に歩いて行ったところに地下階がフィンランドというサウナ(ある趣向の人のたまり場で驚いたところ)でその二階だったか、名前は忘れましたが(カーニバルだったか何だろうか?)ゲームセンターがあって、そこは500円だったか1000円だったか最初に払うとその日は自由にテレビゲームが出来た店があったのを覚えています。ジョイなんたらビルだったような気がする。
GFミラノ店でお腹がすくと、ミラノ座の一階にあったマクドナルドでハンバーグを買ったり、西武新宿駅前辺りにあった牛丼屋で食べたりしてました。あの名もなき牛丼屋の牛丼はこんにゃくが多くて、友達とニャク丼と称してましたっけ・・・
とにかく始発に乗るまでの間、どこかで時間を潰さないといけなかったので、大変でした。
そういえばルナパークで遊んでいた時に多い出すのが、タイトーのカラービンゴだったかな?六角形だったか八角形の筐体で中央に透明のドームがついて中でボールが回るタイプ。あの透明の半玉型のドームを外して不正をしている人たちがいたっけ・・・
ルナパークは少々怖かった・・・
GFミラノの記事を見て、懐かしくメールさせて頂きました。
自分も1978から1981年くらいまで新宿のGFで徹夜して遊んでました。
Bingo-inは、ミラノとサブナードとレインボーに行って、レインボーでバイトまでして、ビンゴにハマってました。
もしかして、面識あるかもですね!
常連だと、スズ爺、コウチ、長谷川さんとかが居ましたね。
ワタシは常連と認識してもらえるくらい頻繁に行けるほど小遣いが豊富ではありませんでしたが、ワタシが行くとほぼ必ず見かけるお顔という人は何人かいらっしゃった気がします。あの方々はどうされているのでしょう。
小松ビル・戸谷ビル地下1・2階で繋がり、サブナードとも繋がっていた変なつくりの店舗で、地下1階はトイレやビンゴフロアーがあった所ですね。
そこでバイトしていたので間違いありません。
メダルの単価が異なるまで、メダルの移動がレートで変換して移動前に内線で連絡をとっており、他店と共通の1階のメダルは他店に持ち出されたり、他店から持ち込んでビンゴに使わないように気を付けていました。
1階の床はべニア板で上底なのでグラグラするのは当たり前、冬場は乾燥するので機械が誤動作しないようにジョーロで水を撒いたりするので相当痛んでいたと思います。
傾きを調整したビンゴの筐体は、客がビンゴ台の脚にメダルを挟むなどの不正をしていたりするのを注視しながら店内を巡回していた記憶があります。
みかか子会社の英語電話帳を取り扱っていたS木さん、K元さんっていう人など数名が店舗閉店間際の時代には常連でしたね。
台の傾きを変えるのは不正だったのですか。ワタシは「左右が水平じゃない。調整がなっちょらん!」と思って、低い方の足の下に折りたたんだブックマッチを挟んだりしてしまっていました。
sigma時代にはいろいろとエピソードもあったことと思います。どうぞこれからも昔のお話を聞かせてください。