はじめに、ワタシが最も傾倒していた1980年代のnamco製ビデオゲームのデザインを手掛けられていたMr.ドットマンこと小野浩さんのご逝去に、謹んで哀悼の意を表します。ワタシは面識はありませんでしたが、まだ亡くなるには少し早いお歳であったはずで、残念でなりません。
ワタシの手元には、発表年を特定できないまま今日まで放置し続けてきた富士電子工業(FDEK)の製品のフライヤーがいくつかあります。これは、長くsigmaの陰に隠れていた富士電子工業が表舞台に出るまでの経緯が気になるワタシにとってずっと心に引っかかり続けていた課題でした。そこで、前回の記事で富士電子工業に触れたことを契機に調査を行ったので、今回はその結果を自分用のメモとして残しておこうと思います。
1990年
SLOT倶楽部
AOUショウ(2月)に、sigmaのブースから参考出展。フライヤーの画像では、筐体前端部に見える金色の楕円形のプレートに「SLOT倶楽部」の名とともに「FDEK」の名が刻まれているが、ショウ出展時がどうであったかは不明。なお、このショウでsigmaは「ザ・ダービーSX-1」を同時に出展している。
SLOT倶楽部のフライヤー。
1991年
アングリー・ウェイブス / ネクストダイス
AOUショウ(2月)に、sigmaのブースから出展。「ダイスポーカー・コロコロ」(関連記事:富士電子工業(FDEK)のダイスゲームとその後)で確立したダイスによる抽選機構を応用した初のシングル機。sigmaは6人用プッシャー「MILKY WAY」を出展。他に、このころなぜかsigmaと一部協業関係にあったらしい太陽自動機が「ラウンドスロット」を出展。
アングリー・ウェイブスのフライヤー。
ゴールドマイン
JAMMAショウ(10月)に、sigmaのブースから出展。2月のAOUショウで出展したダイスを使用したシングル機シリーズの新製品。sigmaはこのショウで、「ゲームファンタジア・ミラノ」(関連記事:ゲームファンタジア・ミラノ:メダルゲーム発祥の地)の開店から20年を記念して「メダル生誕20周年」を謳っていた。
ゴールドマインのフライヤー。
1992年
トップダイス
AOUショウ(2月)に、sigmaのブースから出展された。sigmaは「クリスタルダービー」と、太陽自動機製の「トップシューティング」を出展。
トップダイスのフライヤー。
フラッシュキャット
JAMMAショウ(8月)に、sigmaから出展された。「ゴールドマイン」に続くシングルダイス機。
sigmaは「マジックサーカス」と「クラウンアラウンド」を出展したとのことだが、後者はその名前に覚えがあるものの、どんなものだったかが思い出せない。また、先のAOUショウで出展した「トップシューティング」を、「NEWトップシューティング」として再び出展している。
フラッシュキャットのフライヤー。
1993年
ダイヤモンド・ブラボー / アルカード / ゴールデンフォール / 宇宙カプセル6
JAMMAショウ(8月)に、初めて自社のブースを構えて出展。ゲームマシン紙93年9月1日号によれば、「過去十数年にわたり培ってきたメダルゲームのノウハウを駆使した」とのことなので、富士電子工業がメダルゲーム機開発に関わってきたのは1980年ころからと推察される。1980年のsigmaと言えば、「TV-SLOT」などいくつかのビデオスロットを出している時期であり、富士電子工業はこの辺りからsigmaと協業していたのかもしれない。sigmaはこのショウでビデオポーカー筐体の新製品「ロータスディール」を出展した。なお、太陽自動機がビデオスロットの変種「ザ・グレードアップ」を出展しているが、この販売にsigmaがかかわっていたかどうかは記憶にない。
ダイヤモンドブラボーのフライヤー。
富士電子工業自社製品のフライヤーを独自に製作するようになったのは90年のSLOT倶楽部以降のようですが、トレーディングショウに初めて自前のブースを構えたのは93年です。おそらくは、富士電子工業は、AM業界でも単なる下請けに留まらず一本立ちしたいという野心が芽生えたものの、sigmaとの義理もあっていきなり袂を分かつわけにもいかず、また販売はsigma任せであったことから業界の慣習にも馴染んでいないため、しばらくの間はsigmaの世話になっていたということではないかと想像しています。
大御所メーカーより創業が古いとは大変驚きました!
どちらも大トラブルマシンで酷い目にあったのを覚えています。
その時に何故富士から変更したのか上司に聞いたのですがコストを理由に上げていました。
このC-15が原因でシグマと富士の仲が険悪なっていったとも聞いたことがあります。
どこまで本当のことなのかわかりませんので話半分以下で宜しくお願い致します。
「江藤判」とは、ひょっとして富士とは違う、また別の協力会社でしょうか? C-15とは従来品とどの辺が異なったのでしょうか。
また過去のことを思い出したのでお付き合いください
FDEK(当時FDK)のお付き合いはたぶん
TGN(テーブルゴールデンナゲット)の6809を使った基板の時期だと思います
成城本社によく来られてました。
TGNの基板セットは、その後 REDTANKまで使われてたはずです
メダルゲームだとTV-5line colorのあたりだったかと。筐体ごと設計されているものはメダル投入口が「あの形」なのでわかりやすかったですね。
一躍したのは、super8WAYSだったと記憶してますが、この時期以降に
自社開発部隊を技術3課に作っています。 (ダービ班 開発 ソフト)
(たしか1990-1991年くらいのことで
差異はあります)
ゴールデンナゲットの頃は、TTLで組まれていたビデオゲームにCPUが使われるようになってまだ間もないころのはずです。
そして「あの形」の筐体とは、アンティークスロット(Rol-A-Tor)を象ったアレですか? だとすると、1980年に売り出していたはずですね。やはりsigmaとFDEKは70年代から繋がりはあったのですか。マナベカツキさんのお話はいつも驚かされます。またいろいろお話を聞かせてください。
あの形 → メダル投入口ですね。シングル投入口でこの時代に作られてたぶん今でもキッズ筐体にも流用されています、内部はASAHIの700シリーズ用でかなりの高速投入にも耐えられました。
1980年 当時はまだメカスロやメカビンゴなどが数多くありビデオ系が増え始める時期だったんですが、ビデオ系の客付が悪く。どうしたら客付改善が見込めるか?とか真剣にやっていました
主導はなぜかFDKさん・・・w
そのため1から6までその目しかでないダイスをコンベアでどこに何が入ったかを把握しているとも。
1個づつなら絶対に1から6までそれしか出ないダイスを6部屋のコンベアで仕切ればいいのですが、複数ふる場合はゾロメしかでないのでしょうか?