今回も、前回に引き続いて「パチンコ歴史事典」(ガイドワークス, 2017)で気になった点を勝手に訂正します。
今回訂正する箇所は、37ページです。2カ所あり、ひとつは「第三章 1957~1972」における「オリンピアマシン初登場」という段落の記事本文、もうひとつはこのページに掲載されている画像とそのキャプションです。どちらもオリンピアマシン(関連記事:オリンピアというパチスロの元祖についての謎)に関する記述です。
ひとつめの記事本文にはこう記されています(下線はワタシによる)。
オリンピアマシン初登場
ところで、パチスロの前身機、『オリンピアマシン』が初輸入されたのもこの時代。1964年(昭和39年)にアメリカからスロットマシンとして輸入し、愛知県にある「中日シネラマ会館」という遊技場で稼働させたのが最初だと言われている。
続く1965年(昭和40年)には東京・銀座に『東宝オリンピアゲームセンター』がオープン。翌年の1966年(昭和41年)ころまでには全国で20軒の専門店が開店したという。
当時のレジャーの多様化と、スロットマシンの持つモダンな印象もあり、マスコミでは新しい遊技として取り上げられたが、人気は持続せず、やがて姿を消していくことになった。
パチンコ歴史事典の37ページ目。
ふたつめの、画像のキャプションにはこうあります(下線はワタシ)。
1964年に初輸入された「オリンピアマシン」(写真左)と、翌年の1965年に東京・銀座に開店した専門店「東宝オリンピアゲームセンター」(写真上)。
37ページの、オリンピア関連の画像部分のアップ。
まず、これらの記述は、オリンピアマシンは1964年に海外から輸入したものとしていますが、それは事実と異なると言わざるを得ません。なぜならば、警察はこれよりずっと以前に、スロットマシンは違法なギャンブル機であると言う結論を出しているからです。「パチンコ誕生」(杉山一夫著・創元社刊、2008年)という書籍の90ページに、昭和29年(注・1954年)11月18日付けの朝日新聞の記事が引用されていますので、孫引きさせていただきます。
スラップ・マシン トバクと断定
喫茶店で開帳、六人検挙
スラップ・マシンはトバクかどうか、と警視庁は法務省と研究中だったが、このほどトバク器と断定、十七日夜までに一味六人をトバク容疑で逮捕した。 (中略)
この器械はタテ六十センチ、ヨコ三十センチぐらいの器械で、米軍用のものが流れてきたものらしい。十円玉を入れハンドルを引きリンゴ、モモなど同じ柄が三つ並ぶと十円玉十個がとび出てくる仕組み。
二十六年三月業者から遊技器として営業許可の申請が出てそのままとなっていたが、このほど当局が研究しところ「技術性がない。まるっきり偶然性をねらう」ことがわかったので手入れとなった。
朝日新聞記事中の「スラップ・マシン」は、ひょっとすると「スロット・マシン」もしくは「スラグ・マシン」(関連記事:「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(1))の誤記ではないかと思います。スロットマシン(リールマシン)が日本に入ってきたのは、戦後、米軍基地が日本に置かれてからのことだったので、多くの日本人にとって、まだスロットマシンというものに対する理解がほとんどなかったことによるものと思われます。
それはともかくとして、この朝日新聞の記事は、1954年、すなわちオリンピアが風俗営業機としての許可を得る昭和39年(1964年)の10年も前に、当局(警視庁と法務省?)によって、スロットマシンは違法なギャンブル機と結論付けられ、逮捕者すら出ていることを伝えています。そして、その後その判断が覆るような社会的変化があったわけでもないのに、輸入されたスロットマシンがそのまま風俗営業機オリンピアとして中日シネラマ会館で稼働するとは到底考えられません。
さらに、初めてのオリンピアマシンが本当に「輸入」されたものなのかという疑問があります。「1964年に初輸入された「オリンピアマシン」とのキャプションが付いたスロットマシンの画像は、現存するパチスロメーカーである「株式会社オリンピア」社(この会社自体は、1964年に風営許可を得たオリンピア・マシンの製造販売には関係していない)のウェブサイト中にある「遊技機産業の歴史」ページに記載されている「オリンピアマシン」の画像と同一です。そして株式会社オリンピア社はその画像に「写真提供:(C)パチンコ百年史(アド・サークル)/山田清一氏」との権利表記を付しています。
この「パチンコ百年史」は、「パチンコ歴史事典」に資料協力しているアド・サークル社の刊行物であるとのことですので、パチンコ歴史事典の記事を書くにあたっては大いに参照されていたことと思います。ワタシはこの本を読んだことが無いのであまりうかつなことは言えませんが、おそらくこの「パチンコ百年史」におけるオリンピアの記述にはあいまいな部分があり、それを「パチンコ歴史事典」ではライターの推測または憶測を交えて記事にしているのではないかと感じます。
そもそも、「パチンコ歴史事典」(と、株式会社オリンピアのウェブサイト)で「オリンピアマシン」として掲載しているスロットマシンは、セガが1960年前後ころから日本で生産を始めた「スター・シリーズ」の筐体(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1)であり、海外に輸出されることはあっても、海外から輸入されることは極めて考えにくいものです。そして画像の機械は、スキルストップボタンが付かない、オリンピアマシンに改造される以前の筐体であって、正しくオリンピアマシンと呼べるものではありません。
もう一つの下線部、「1965年(昭和40年)には東京・銀座に『東宝オリンピアゲームセンター』がオープン」の部分についても疑問が残ります。昭和42年(1967年)1月9日付の報知新聞では、「昨年(注・記事の掲載時期から1966年のことと思われる)の暮れまでに全国に二十軒のゲーム場が開店した。十二月に開店した東京・有楽町の東宝オリンピア・ゲーム・センターは百台の機械を持ち(後略)」とあります。この記事を素直に読めば、東宝オリンピアゲームセンターがオープンしたのは1966年(昭和41年)の12月ということになります。
また、報知新聞による報道のおよそ3週間前、昭和41年(1966年)12月20日付のデイリースポーツでは、「人気呼ぶ遊びの”新兵器” オリンピア・スター」という記事を掲載しており、その中で「都内では銀座ニュートーキョー裏のビルに百台(注・これが東宝オリンピアゲームセンターだと思われる)、浅草新世界に九十台、新宿に2軒で三十台ずつだが、近日中に新宿劇場内にも開店、北海道や九州にも誕生が予定されているなど隆盛が予想されている」と記述されており、これらの報道から見て、東宝オリンピアゲームセンターの開業時期を1965年と認識することは難しいです。
以上から、「パチンコ歴史事典」37ページのこの部分は、以下のように勝手に訂正したいと思います(下線部が訂正箇所)。
オリンピアマシン初登場
ところで、パチスロの前身機、『オリンピアマシン』が初登場したのもこの時代。1964年(昭和39年)に風俗営業機としての認可を受け、愛知県にある「中日シネラマ会館」という遊技場で稼働させたのが最初だと言われている。
1966年(昭和41年)には東京・有楽町に百台のオリンピアマシンを設置する『東宝オリンピアゲームセンター』がオープンした他、全国で20軒の専門店が開店した。
当時のレジャーの多様化と、スロットマシンの持つモダンな印象もあり、マスコミでは新しい遊技として取り上げられたが、人気は持続せず、やがて姿を消していくことになった。
また、写真およびそのキャプションについても以下のように訂正しておきます(下線部が修正箇所)。
差し替え用のオリンピア画像
1964年に風俗営業機としての認可を受けた「オリンピアマシン」(写真左)と、1966年に東京・有楽町に開店した専門店「東宝オリンピアゲームセンター」(写真上)。
蛇足になるとは思いますが、ワタシは前回の記事でも申し上げた通り、風俗4号営業の業界が文化保存に無関心と言っても過言ではないほど極めて消極的な中、「パチンコ歴史事典」はたいへんに貴重な資料であると認識しています。ただ、何事も誤りが含まれてしまうことは避けられないので、後に続く者がそれを修正していくことはより資料的価値を高めていくことになると信じてこの記事を公開するものであることを、ご高覧下さる皆様には何卒ご理解いただきたいと思います。
(このシリーズ終わり)
今回訂正する箇所は、37ページです。2カ所あり、ひとつは「第三章 1957~1972」における「オリンピアマシン初登場」という段落の記事本文、もうひとつはこのページに掲載されている画像とそのキャプションです。どちらもオリンピアマシン(関連記事:オリンピアというパチスロの元祖についての謎)に関する記述です。
ひとつめの記事本文にはこう記されています(下線はワタシによる)。
オリンピアマシン初登場
ところで、パチスロの前身機、『オリンピアマシン』が初輸入されたのもこの時代。1964年(昭和39年)にアメリカからスロットマシンとして輸入し、愛知県にある「中日シネラマ会館」という遊技場で稼働させたのが最初だと言われている。
続く1965年(昭和40年)には東京・銀座に『東宝オリンピアゲームセンター』がオープン。翌年の1966年(昭和41年)ころまでには全国で20軒の専門店が開店したという。
当時のレジャーの多様化と、スロットマシンの持つモダンな印象もあり、マスコミでは新しい遊技として取り上げられたが、人気は持続せず、やがて姿を消していくことになった。
パチンコ歴史事典の37ページ目。
ふたつめの、画像のキャプションにはこうあります(下線はワタシ)。
1964年に初輸入された「オリンピアマシン」(写真左)と、翌年の1965年に東京・銀座に開店した専門店「東宝オリンピアゲームセンター」(写真上)。
37ページの、オリンピア関連の画像部分のアップ。
まず、これらの記述は、オリンピアマシンは1964年に海外から輸入したものとしていますが、それは事実と異なると言わざるを得ません。なぜならば、警察はこれよりずっと以前に、スロットマシンは違法なギャンブル機であると言う結論を出しているからです。「パチンコ誕生」(杉山一夫著・創元社刊、2008年)という書籍の90ページに、昭和29年(注・1954年)11月18日付けの朝日新聞の記事が引用されていますので、孫引きさせていただきます。
スラップ・マシン トバクと断定
喫茶店で開帳、六人検挙
スラップ・マシンはトバクかどうか、と警視庁は法務省と研究中だったが、このほどトバク器と断定、十七日夜までに一味六人をトバク容疑で逮捕した。 (中略)
この器械はタテ六十センチ、ヨコ三十センチぐらいの器械で、米軍用のものが流れてきたものらしい。十円玉を入れハンドルを引きリンゴ、モモなど同じ柄が三つ並ぶと十円玉十個がとび出てくる仕組み。
二十六年三月業者から遊技器として営業許可の申請が出てそのままとなっていたが、このほど当局が研究しところ「技術性がない。まるっきり偶然性をねらう」ことがわかったので手入れとなった。
朝日新聞記事中の「スラップ・マシン」は、ひょっとすると「スロット・マシン」もしくは「スラグ・マシン」(関連記事:「メダル」と「メダルゲーム」という呼称についての備忘録(1))の誤記ではないかと思います。スロットマシン(リールマシン)が日本に入ってきたのは、戦後、米軍基地が日本に置かれてからのことだったので、多くの日本人にとって、まだスロットマシンというものに対する理解がほとんどなかったことによるものと思われます。
それはともかくとして、この朝日新聞の記事は、1954年、すなわちオリンピアが風俗営業機としての許可を得る昭和39年(1964年)の10年も前に、当局(警視庁と法務省?)によって、スロットマシンは違法なギャンブル機と結論付けられ、逮捕者すら出ていることを伝えています。そして、その後その判断が覆るような社会的変化があったわけでもないのに、輸入されたスロットマシンがそのまま風俗営業機オリンピアとして中日シネラマ会館で稼働するとは到底考えられません。
さらに、初めてのオリンピアマシンが本当に「輸入」されたものなのかという疑問があります。「1964年に初輸入された「オリンピアマシン」とのキャプションが付いたスロットマシンの画像は、現存するパチスロメーカーである「株式会社オリンピア」社(この会社自体は、1964年に風営許可を得たオリンピア・マシンの製造販売には関係していない)のウェブサイト中にある「遊技機産業の歴史」ページに記載されている「オリンピアマシン」の画像と同一です。そして株式会社オリンピア社はその画像に「写真提供:(C)パチンコ百年史(アド・サークル)/山田清一氏」との権利表記を付しています。
この「パチンコ百年史」は、「パチンコ歴史事典」に資料協力しているアド・サークル社の刊行物であるとのことですので、パチンコ歴史事典の記事を書くにあたっては大いに参照されていたことと思います。ワタシはこの本を読んだことが無いのであまりうかつなことは言えませんが、おそらくこの「パチンコ百年史」におけるオリンピアの記述にはあいまいな部分があり、それを「パチンコ歴史事典」ではライターの推測または憶測を交えて記事にしているのではないかと感じます。
そもそも、「パチンコ歴史事典」(と、株式会社オリンピアのウェブサイト)で「オリンピアマシン」として掲載しているスロットマシンは、セガが1960年前後ころから日本で生産を始めた「スター・シリーズ」の筐体(関連記事:セガ60周年記念・1960年以前のプレセガ期(3) セガのスロットマシンその1)であり、海外に輸出されることはあっても、海外から輸入されることは極めて考えにくいものです。そして画像の機械は、スキルストップボタンが付かない、オリンピアマシンに改造される以前の筐体であって、正しくオリンピアマシンと呼べるものではありません。
もう一つの下線部、「1965年(昭和40年)には東京・銀座に『東宝オリンピアゲームセンター』がオープン」の部分についても疑問が残ります。昭和42年(1967年)1月9日付の報知新聞では、「昨年(注・記事の掲載時期から1966年のことと思われる)の暮れまでに全国に二十軒のゲーム場が開店した。十二月に開店した東京・有楽町の東宝オリンピア・ゲーム・センターは百台の機械を持ち(後略)」とあります。この記事を素直に読めば、東宝オリンピアゲームセンターがオープンしたのは1966年(昭和41年)の12月ということになります。
また、報知新聞による報道のおよそ3週間前、昭和41年(1966年)12月20日付のデイリースポーツでは、「人気呼ぶ遊びの”新兵器” オリンピア・スター」という記事を掲載しており、その中で「都内では銀座ニュートーキョー裏のビルに百台(注・これが東宝オリンピアゲームセンターだと思われる)、浅草新世界に九十台、新宿に2軒で三十台ずつだが、近日中に新宿劇場内にも開店、北海道や九州にも誕生が予定されているなど隆盛が予想されている」と記述されており、これらの報道から見て、東宝オリンピアゲームセンターの開業時期を1965年と認識することは難しいです。
以上から、「パチンコ歴史事典」37ページのこの部分は、以下のように勝手に訂正したいと思います(下線部が訂正箇所)。
オリンピアマシン初登場
ところで、パチスロの前身機、『オリンピアマシン』が初登場したのもこの時代。1964年(昭和39年)に風俗営業機としての認可を受け、愛知県にある「中日シネラマ会館」という遊技場で稼働させたのが最初だと言われている。
1966年(昭和41年)には東京・有楽町に百台のオリンピアマシンを設置する『東宝オリンピアゲームセンター』がオープンした他、全国で20軒の専門店が開店した。
当時のレジャーの多様化と、スロットマシンの持つモダンな印象もあり、マスコミでは新しい遊技として取り上げられたが、人気は持続せず、やがて姿を消していくことになった。
また、写真およびそのキャプションについても以下のように訂正しておきます(下線部が修正箇所)。
差し替え用のオリンピア画像
1964年に風俗営業機としての認可を受けた「オリンピアマシン」(写真左)と、1966年に東京・有楽町に開店した専門店「東宝オリンピアゲームセンター」(写真上)。
蛇足になるとは思いますが、ワタシは前回の記事でも申し上げた通り、風俗4号営業の業界が文化保存に無関心と言っても過言ではないほど極めて消極的な中、「パチンコ歴史事典」はたいへんに貴重な資料であると認識しています。ただ、何事も誤りが含まれてしまうことは避けられないので、後に続く者がそれを修正していくことはより資料的価値を高めていくことになると信じてこの記事を公開するものであることを、ご高覧下さる皆様には何卒ご理解いただきたいと思います。
(このシリーズ終わり)