オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

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スロットマシンのシンボルの話(5)  「Bell-Fruit-Gum」の謎

2019年09月22日 22時13分14秒 | 歴史

現代のリールマシンに見られる「BAR」シンボルは、スロットマシンをガムの自販機であると言い張る際に、スロットマシンメーカーのMills社のスロットマシンが払い出していたガム「Bell-Fruit-Gum」の商標、もしくは模倣者たちがこぞってその商標に類似させた図柄が変化したものという説は、一般的な共通認識と理解して良さそうです(関連記事:フルーツシンボル誕生、スロットマシンのシンボルの話(3) BAR)。

ある資料によれば、ガムの自販機を標榜していたスロットマシンが払い出していたガムは1日に100万枚に及んでいたそうです。Mills社は当時の3リール機の最大手メーカーであったことを考えると、その100万枚のうちのかなりの部分が「Bell-Fruit-Gum」だったと思われます(因みに「Bell Fruit Gum」1パックは5枚入りだったらしい)。しかし、これほど大量に市場に出た「Bell-Fruit-Gum」の名は、スロットマシン以外の分野では見聞したためしがありません。「Bell-Fruit-Gum」とは一体ナニモノなんでしょうか。

ネット上を調べると、同じ疑問を持つ人は他にもいるようで、日ごろお世話になっている「PENNYMACHINES.CO.UK」のフォーラムでも、「ベルフルーツガム社は実在するのか? (Bell-Fruit Gum Company: Fact or Fiction?)」というトピックが、サイトの運営者である「pennymachines」氏によって建てられていました。

しかしながら、このトピックでは決定的な答えを示す回答は付かず、pennymachines氏は最終的に、「Millsはガムを既存のメーカーから調達したと想像する。 『Bell-Fruit-Gum』がブランドだとすると、それはMillsが作成した可能性が高いと考える」との意見を述べています。ワタシもこれに賛成なのですが、残念ながらそう断言できるだけの根拠はまだ見つかっていません。

改めてMillsの「Liberty Bell Gum Fruit (1910)」のペイテーブルを見ると、冒頭に「The Trust Does Not Manufacture or Control The Sale of BELL-FRUIT-GUM」と大きく書かれています。


Liberty Bell Gum Fruitのペイテーブル。冒頭に「The Trust Does Not Manufacture or Control The Sale of BELL-FRUIT-GUM」と大書されている。

信用はベル・フルーツ・ガムの製造や販売統制をしない」・・・? 意味が全く分かりませんが、わざわざ冒頭で主張するからには何か重大な意味があるはずです。そう思って調査を始めたところ、思いがけず米国におけるチューインガムの歴史まで調べる羽目となってしまいました。

と言うわけで、ここから米国におけるチューインガムの歴史の話になります。ただし、何しろ資料のほとんどが英語表記であるため解読に苦労するのと、しばしば異なる見解が示される複数の資料を関連づける情報が少ないため、以下に述べる話には、いくらかの省略や、複数の情報を合成している部分もあり、完全に正確とは言えない点にはご留意いただけますとありがたいです。

チューインガムのルーツは、メキシコのマヤ文明時代から伝わる、「チクル(Chicle)」と呼ばれる樹液を固めたものを噛む習慣にありました。16世紀になってスペインがこの地を征服した後は、流入してきたスペイン系移民の間にもチクルを噛む習慣が広まりました。19世紀の半ば、テキサスの所属を巡って米国とメキシコの間で争われた米墨戦争(1846-1848)を指揮した当時のメキシコの指導者(将軍だったり大統領だったりしたらしい)、サンタ・アナ(Antonio López de Santa Anna, 1794-1876)も、チクルは歯をきれいにする効果があるとして噛んでいたそうです。

米国にチクルが伝わったのは1850年代のことだったようです。サンタ・アナの秘書を務めていた米国人「トーマス・アダムス(Thomas Adams, 1818-1905)」は、大量のチクルを米国に持ち込んでタイヤのゴムを製造しようとしましたがうまくいきませんでした。そこで、チクルを噛むサンタ・アナからチューインガムの発想を得て方針を変更し、タイヤにするつもりだったチクルでチューインガムを製造する「アダムス・サンズ社」を1859年に創立しました。当初のガムは歯をきれいにすることを期待するものだったので味はなく、ドラッグストアで売られていたそうです。アダムスはこれに甘味を加えて菓子(Confection)として売り出したところ、チューインガムはおおいに売れるようになったそうです。このことからアダムスは、米国におけるガム業界の草分けとされているようです。

19世紀の米国ガム業界にはもう一人、「ウィリアム・リグレイ・Jr.(William Wrigley Jr., 1861-1932)」という重要人物がいます。元々は家業が製造する石鹸のセールスマンだったリグレイは、石鹸より儲かるとベーキングパウダーのセールスマンに転身し、販売するベーキングパウダーに2パックのガムをオマケとして付けたところ、本体のベーキングパウダーよりもオマケのガムの方が人気が高いことに気づき、シカゴで「リグレイ社」を設立してガムの製造を始めたのが1891年でした。

このリグレイがガム業界に身を投じた直後は、シカゴにあるガムメーカ「ZENO」社にOEM提供してもらっていたらしいです。その後リグレイはZENO社を吸収して、名実ともにガムメーカーとなったようです。「リグレイ・チューインガム」の名は今でも残っており、70年代半ばころ、ラジオの深夜放送を聞いていると、「W・R・I・G・L・E・Yリグレーイチューインガーム♪」というCMソングが流れていたものです。ワタシはそれでリグレイのスペルを覚えました(余談)。

米国内にはその他にもいくつものガムメーカーができていましたが、1899年、「アダムス・サンズ」を含む米国およびカナダのガムメーカー全5社(別の資料では全6社の名を挙げているものもある)で「アメリカン・チクル会社(American Chicle Company)」を設立し、中米にガム工場を建設してガム市場の独占体制を作り上げました。アダムスは最終的にリグレイと手を組んだと書いてある資料も見つかりますが、このアメリカン・チクル会社設立との時系列的な関係はよくわかりません。いずれにせよ、米国のチューインガム市場を独占しようとする強大な勢力が誕生したわけです。

ここでワタシは、中学生の時の社会科(公民的分野)で、「『市場の独占』には『カルテル(協定)』、『トラスト(合併)』、『コンツェルン(財閥)』の3形態がある」と教わったことを思い出しました。そして、「Liberty Bell Gum Fruit」のペイテーブルに書かれていた「Trust」とは、「信用」の意味ではなく、市場の独占形態の一つの「トラスト」のことだと理解しました。つまりMillsは、「Bell Fruit Gumはトラスト(=市場の独占勢力)によって製造されたり販売統制されたりしたものではない」と言っていたわけです。

本シリーズは今回を以て最終回にしようと思っていたのですが、米国におけるチューインガム業界事情が思いのほか長引いてしまい、このまま続けるとまた女房に「長くてスマホじゃ読みづらい」と言われそうなので、以下は次回に回そうと思います。

で、最後にもう一つ余談。1960年代半ばの米国に、「1910 フルーツガム・カンパニー (1910 Fruitgum Company)」という音楽グループがありました。このバンド名は、既に本シリーズで触れている、Millsが1910に発表したスロットマシン「Liberty Bell Gum Fruit」に由来していることは明らかですが、なぜそこから命名したのかはわかりません。このバンドの「Bubblegum World」という曲は、日本の国民的アニメ番組の、エンディング曲の元となったという言説もあります。Youtubeにも上がっていますので、気になる方は聞いてみてください。

(もう一回つづく)