「任天堂」と言えば、家庭用ビデオゲームのハード・ソフト両分野において世界で最も成功した企業として、その名を知らない人はいないでしょう。
任天堂は、もともと花札やトランプから始まり、一般の玩具を製造販売する会社であったことは良く知られています。また、お湯を注げばできるインスタントライスの開発したり、タクシー会社や店舗型性風俗特殊第四号営業(いわゆるラブホテルのこと)を経営したりするなど多角経営を目指していた時期があることは、任天堂トリビアとしてしばしば話題になるので、これらも比較的有名なエピソードだと思います。
しかし、その任天堂が、かつてアーケードゲームを開発していたことはどれだけ意識されているでしょうか。「ドンキーコング」と聞けば、「ああ、言われてみれば」と思い当たる人は多いでしょうが、任天堂のゲームと聞いてコインマシンを想起する人は、今はもう少ないように思います。
ワタシは任天堂がコインマシンへの進出を始めた時期を把握しておりませんが、西部開拓時代のアメリカを舞台にクイックドロウ(早撃ち)で悪漢を撃ち倒す「ワイルドガンマン」(1975)や、大スクリーンに映し出される実写の戦闘機を機関銃で撃ち落とす「スカイホーク」(1976)などは、おそらくごく初期の機械と思われます。これらは、正しくは東京の千代田区に本社を構える「任天堂レジャーシステム」という子会社によるもののようですが、海外向けのフライヤーには単に「Nintendo Co., Ltd.」とのみ記され、会社所在地も京都となっています。
ワイルドガンマン。ガンベルトを腰に巻き、相対する敵キャラの目が光ったら抜いて撃つ。目が光る前にガンを抜くと映像が停止し、「ガンをベルトに収納してください」という趣旨のメッセージが出たような記憶があるがあやふや。4種類のフィルムが用意されており、毎ゲームごとに異なるフィルムでゲームを行った。1つのフィルムごとに、場面を変えて5人の敵が現れる。このゲームで使用されている映像は、任天堂の玩具「光線銃」のTVCMでも流用されていた。
任天堂はまたメダルゲームも開発しており、セルアニメによるビデオ競馬ゲーム「EVRレース」(1975)は大ヒットしました。
EVRレース。サテライトの数は最低4席から10席まで調整可能だった。
これに気を良くしたのか、任天堂は後に実写版のEVRレースや、やはり実写で上映される野球の結果を予想する「EVRベースボール」(1978?)なども開発し、これらもずいぶん普及したように記憶しています。このうちEVRベースボールは、ワタシがダイエー碑文谷店のゲームコーナーでアルバイトしていたころ(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)にも設置されたのですが、テープがうまく巻き戻されずにゲームが進行しないなどの故障が多かった覚えがあります。その原因が筐体内にこもる熱にあると見た社員は、メンテナンスドアに、まるでオーディオのスピーカー部分のような小さな穴をたくさん開けて通気性を良くしたのですが、これによって筐体内部が覗けるようになり、ゲーム基板に並んでいるLEDの点灯状況からゲーム結果が予測できると信じて穴を覗きこむプレイヤーが続出しました。ただ、本当に予測が可能だったのかどうかは覚えていません。
ところで、その関係でワタシが見た「EVRベースボール」の映像テープは、磁気テープではなく、8㎜フィルムのように肉眼で画像が見えるテープであったように記憶しているのですが、これは果たしてワタシの記憶違いでしょうか。もし正確なところをご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご教示いただけますようお願い申し上げます。
任天堂の初のCRTモニターを使用したビデオゲームが何かは定かではありませんが、おそらく1978年に発売された、グリーンモニターを使用した「コンピューターオセロゲーム」ではないかと思います。通常のオセロは円形の白黒の駒でゲームを行いますが、コンピューターオセロでは□と+の記号で行っていました。おそらく解像度が低いため円形の駒の表現では無理があったためだと思われます。
業界紙「ゲームマシン」1978年7月15日号に掲載されたコンピューターオセロゲームの広告。
「コンピューターオセロゲーム」は持ち時間制で、自分の手番の時には持ち時間が減算され、相手の手番の時には自分の持ち時間の減算は停まります。この機械の画期的な点は、コンピューター相手の1人プレイができたところにありました(2人での対戦も可能でしたが、この場合、ゲーム料金は二人分の200円を要しました)。
当時のハードウェアの能力では仕方のないことだったのでしょうが、この機械は、コンピューターの思考時間が滅法長かったです。プレイヤーが選べる難度は3段階用意されており、1ゲームに要する時間は、最もやさしいモードの場合で20分程度、最も強いモードでは1時間ほどもかかりました。考慮時間がずいぶん違うわりに難度の差はあまり感じられず、ワタシはたいてい最も難しいモードを選んで、たったの100円で1時間を過ごさせてもらっていました。コンピューターの手番の時は、画面の上部に、「カンガエテイマス」と「コマリマシタネ」というメッセージが交互に表示され、ワタシは人と会話をしている時にどう答えたものか迷ったりすると、今でもこのセリフが脳内を巡ることがあります。
1979年になると、任天堂もカラーモニターを使用したビデオゲームを精力的に発売するようになります。スペースインベーダーやギャラクシアンの亜流のようなゲームも多かったですが、画面中央にいる主人公を取り囲む悪漢に対してダイヤル式のスイッチで8方向に向かって弾を撃つ「シェリフ(1979)」のような独創的なタイトルもありました。また、「ドンキーコング」(1981)や「マリオブラザーズ」(1983)は大ヒットし、1984年に発売された家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の初期のキラーコンテンツとなります。
ドンキーコングは、「池上通信機」という東証一部上場企業がソフト開発をしたものとされており、権利問題を巡って任天堂との間で法廷闘争が行われました。最終的には和解で決着しますが、これを機に池上通信機は任天堂と袂を分かち、1983年にはセガから、「ティップ・タップ」という、ドンキーコングをクォータービューにしたようなゲームを出していますが、これはあまりヒットしませんでした。
ティップ・タップのフライヤーはこちらから見ることができます(他サイトに移動します)。
任天堂の業務用ビデオゲームで、ワタシにとって最後の大きな輝きとなったタイトルは、ボクシングテーマのゲーム「パンチアウト(1983)」と「スーパーパンチアウト」(1984)でした。ゲーム用とビルボード用の二つのモニターを使った、当時としては贅沢な筐体でした。ラスベガスにある「ピンボール・ホール・オブ・フェイム」には今も遊べる状態で設置されています(2016年10月現在)。
パンチアウトのフライヤーはこちらから見ることができます(他サイトに移動します)。
しかし、ファミコンが大ヒットした後の任天堂の業務用ビデオゲームは、ファミコンベースの「VSシステム」(1984)という筐体に、ファミコンソフトを業務用にモディファイしたタイトルを乗せたものばかりになり、粒が小さくなってしまったように思います。VSシステムは結構な期間稼働していましたが、1990年頃を境に任天堂はアーケードから撤退し、コンシューマに集中するようになってしまいました。企業戦略的には当然あって然るべき判断であることは理解しますが、「ゲームはアーケード」指向のワタシはなんだか裏切られたような気がして、以降、任天堂というメーカーには、積極的には共感を示さない傾向が強くなってしまいました。
任天堂は、もともと花札やトランプから始まり、一般の玩具を製造販売する会社であったことは良く知られています。また、お湯を注げばできるインスタントライスの開発したり、タクシー会社や店舗型性風俗特殊第四号営業(いわゆるラブホテルのこと)を経営したりするなど多角経営を目指していた時期があることは、任天堂トリビアとしてしばしば話題になるので、これらも比較的有名なエピソードだと思います。
しかし、その任天堂が、かつてアーケードゲームを開発していたことはどれだけ意識されているでしょうか。「ドンキーコング」と聞けば、「ああ、言われてみれば」と思い当たる人は多いでしょうが、任天堂のゲームと聞いてコインマシンを想起する人は、今はもう少ないように思います。
ワタシは任天堂がコインマシンへの進出を始めた時期を把握しておりませんが、西部開拓時代のアメリカを舞台にクイックドロウ(早撃ち)で悪漢を撃ち倒す「ワイルドガンマン」(1975)や、大スクリーンに映し出される実写の戦闘機を機関銃で撃ち落とす「スカイホーク」(1976)などは、おそらくごく初期の機械と思われます。これらは、正しくは東京の千代田区に本社を構える「任天堂レジャーシステム」という子会社によるもののようですが、海外向けのフライヤーには単に「Nintendo Co., Ltd.」とのみ記され、会社所在地も京都となっています。
ワイルドガンマン。ガンベルトを腰に巻き、相対する敵キャラの目が光ったら抜いて撃つ。目が光る前にガンを抜くと映像が停止し、「ガンをベルトに収納してください」という趣旨のメッセージが出たような記憶があるがあやふや。4種類のフィルムが用意されており、毎ゲームごとに異なるフィルムでゲームを行った。1つのフィルムごとに、場面を変えて5人の敵が現れる。このゲームで使用されている映像は、任天堂の玩具「光線銃」のTVCMでも流用されていた。
任天堂はまたメダルゲームも開発しており、セルアニメによるビデオ競馬ゲーム「EVRレース」(1975)は大ヒットしました。
EVRレース。サテライトの数は最低4席から10席まで調整可能だった。
これに気を良くしたのか、任天堂は後に実写版のEVRレースや、やはり実写で上映される野球の結果を予想する「EVRベースボール」(1978?)なども開発し、これらもずいぶん普及したように記憶しています。このうちEVRベースボールは、ワタシがダイエー碑文谷店のゲームコーナーでアルバイトしていたころ(関連記事:さよならダイエー碑文谷店)にも設置されたのですが、テープがうまく巻き戻されずにゲームが進行しないなどの故障が多かった覚えがあります。その原因が筐体内にこもる熱にあると見た社員は、メンテナンスドアに、まるでオーディオのスピーカー部分のような小さな穴をたくさん開けて通気性を良くしたのですが、これによって筐体内部が覗けるようになり、ゲーム基板に並んでいるLEDの点灯状況からゲーム結果が予測できると信じて穴を覗きこむプレイヤーが続出しました。ただ、本当に予測が可能だったのかどうかは覚えていません。
ところで、その関係でワタシが見た「EVRベースボール」の映像テープは、磁気テープではなく、8㎜フィルムのように肉眼で画像が見えるテープであったように記憶しているのですが、これは果たしてワタシの記憶違いでしょうか。もし正確なところをご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご教示いただけますようお願い申し上げます。
任天堂の初のCRTモニターを使用したビデオゲームが何かは定かではありませんが、おそらく1978年に発売された、グリーンモニターを使用した「コンピューターオセロゲーム」ではないかと思います。通常のオセロは円形の白黒の駒でゲームを行いますが、コンピューターオセロでは□と+の記号で行っていました。おそらく解像度が低いため円形の駒の表現では無理があったためだと思われます。
業界紙「ゲームマシン」1978年7月15日号に掲載されたコンピューターオセロゲームの広告。
「コンピューターオセロゲーム」は持ち時間制で、自分の手番の時には持ち時間が減算され、相手の手番の時には自分の持ち時間の減算は停まります。この機械の画期的な点は、コンピューター相手の1人プレイができたところにありました(2人での対戦も可能でしたが、この場合、ゲーム料金は二人分の200円を要しました)。
当時のハードウェアの能力では仕方のないことだったのでしょうが、この機械は、コンピューターの思考時間が滅法長かったです。プレイヤーが選べる難度は3段階用意されており、1ゲームに要する時間は、最もやさしいモードの場合で20分程度、最も強いモードでは1時間ほどもかかりました。考慮時間がずいぶん違うわりに難度の差はあまり感じられず、ワタシはたいてい最も難しいモードを選んで、たったの100円で1時間を過ごさせてもらっていました。コンピューターの手番の時は、画面の上部に、「カンガエテイマス」と「コマリマシタネ」というメッセージが交互に表示され、ワタシは人と会話をしている時にどう答えたものか迷ったりすると、今でもこのセリフが脳内を巡ることがあります。
1979年になると、任天堂もカラーモニターを使用したビデオゲームを精力的に発売するようになります。スペースインベーダーやギャラクシアンの亜流のようなゲームも多かったですが、画面中央にいる主人公を取り囲む悪漢に対してダイヤル式のスイッチで8方向に向かって弾を撃つ「シェリフ(1979)」のような独創的なタイトルもありました。また、「ドンキーコング」(1981)や「マリオブラザーズ」(1983)は大ヒットし、1984年に発売された家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」の初期のキラーコンテンツとなります。
ドンキーコングは、「池上通信機」という東証一部上場企業がソフト開発をしたものとされており、権利問題を巡って任天堂との間で法廷闘争が行われました。最終的には和解で決着しますが、これを機に池上通信機は任天堂と袂を分かち、1983年にはセガから、「ティップ・タップ」という、ドンキーコングをクォータービューにしたようなゲームを出していますが、これはあまりヒットしませんでした。
ティップ・タップのフライヤーはこちらから見ることができます(他サイトに移動します)。
任天堂の業務用ビデオゲームで、ワタシにとって最後の大きな輝きとなったタイトルは、ボクシングテーマのゲーム「パンチアウト(1983)」と「スーパーパンチアウト」(1984)でした。ゲーム用とビルボード用の二つのモニターを使った、当時としては贅沢な筐体でした。ラスベガスにある「ピンボール・ホール・オブ・フェイム」には今も遊べる状態で設置されています(2016年10月現在)。
パンチアウトのフライヤーはこちらから見ることができます(他サイトに移動します)。
しかし、ファミコンが大ヒットした後の任天堂の業務用ビデオゲームは、ファミコンベースの「VSシステム」(1984)という筐体に、ファミコンソフトを業務用にモディファイしたタイトルを乗せたものばかりになり、粒が小さくなってしまったように思います。VSシステムは結構な期間稼働していましたが、1990年頃を境に任天堂はアーケードから撤退し、コンシューマに集中するようになってしまいました。企業戦略的には当然あって然るべき判断であることは理解しますが、「ゲームはアーケード」指向のワタシはなんだか裏切られたような気がして、以降、任天堂というメーカーには、積極的には共感を示さない傾向が強くなってしまいました。