NASA(アメリカ航空宇宙局)と言えば、フリーズドライ食品をはじめ、さかさまでも書けるボールペン、放射性物質まで除去できる浄水器、マジックテープ、びっくりするほど水を吸い込む特殊雑巾、切ったものがくっつかない包丁など、生活便利グッズやアイディアグッズを数多く発明する機関として有名です(たくさんのNASAが発明したと言われるグッズの中には、騙りや事実誤認も含まれているようですが)。
1974年、sigmaは、「ウィナーズ・サークル(Winners Circle)」と称する、約2000万円もするというゲーム機を2台輸入しました。二人同時プレイが可能なこの競馬ゲーム機もまた、NASAの落し子だったそうです。
業界誌「アミューズメント産業1974年8月号に掲載されたウィナーズサークルの広告。
業界誌「アミューズメント産業」1974年6月号によれば、「電子技術をフルに応用して、競馬を再現する機械」として、「制御器にはIC千二十個とMSI(筆者注・LSIの誤植?その後調べたところ、昔はLSIよりも集積する素子が少ないMSI、あるいはSSIなどと言うものもあったのだそうです。MSI、SSIという概念は、現在はもうなくなっているとのことでした――2017.04.24修正)四個を用いており、心臓部は四則演算、指数計算、大数計算、数値制御、比較制御や、三元連立方程式などの演算能力を持っているという」のだそうです。当時と言えば、ただの電卓ですら1万円(現在の数万円くらいに当たる)もした時代でしたので、それを聞いて「よくわからないけどすごい! さすがNASA!」と感心してしまうのもやむを得ないゲーム機でした。
ウィナーズ・サークルを開発したのは、拙ブログではもう馴染み深い名前となっている米国バーリー社(関連記事:【歴史】米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(1)など)で、1973年の製品とされていますが、先述のアミューズメント産業誌の記事では、「直接の開発担当者は米国航空宇宙局(NASA)を失業した技術者二人」とあり、パソコンなどというものがなかったこの当時は、コンピューター技術はまだまだ民間には遠い存在であったことが伺われます。
ワタシはこの「ウィナーズ・サークル」を、1977年±1年くらいの時期に、渋谷のゲームファンタジアで見ています。しょっちゅう大量のメダルを払い出していた印象があるゲーム機で、自分もこれでメダルを稼ぎたいと思うのですが、二つの席はいつもメダルを大量に持っている常連と思しきおやじに占有されており、遊ぶことができませんでした。
sigmaが、後に同社のシグネチャータイトルとなる「ザ・ダービー」シリーズの第一作目「VΦ」を発表したのは1975年のことです。10席を備えたメカの競馬ゲーム機で、制御はYHP社のミニコンを搭載して行っていました。コンピューター技術の投入と今の時代でも通用しそうな洗練された筐体デザインは、ウィナーズ・サークルを大いに意識していたものと思われます。開発費用に糸目を付けなかった結果、「VΦ」の価格は5000万円にまでなったと伝えられていますが、この機械が他社のロケーションに設置されたという話は聞いたことがありません。
「ザ・ダービー・VΦ」1975年7月発表。ウィナーズ・サークルと同様8頭立て。レースプログラムは8レースが用意されている。通常は単勝のみベットでき、いくつかのレースは「エントリーレース」と称し、特定の3頭のいずれかが1着になれば単勝で当たったことになるというルールがあった。また、単勝に20枚以上ベットすると、連勝複式にもベットできるというシステムだったと記憶しているが、ワタシは1枚のメダルを惜しみながらベットするようなプレイヤーだったので、連勝複式などベットしたことはない。
今、ワタシが仕事やプライベートで使っているパソコンは、たぶんウィナーズ・サークルやザ・ダービー・VΦに搭載されたYHPのミニコンなど比較にならぬくらい高性能になっていると思われますが、その割に、オフィスソフトによる文書作成か、ラスベガスに行く際のホテルの価格比較か、あるいはエログロサイトの巡回に使う程度で、人を月に送るくらい偉大な大仕事なんてことにはまったく使っていないことを思うと、なんだか少しだけ申し訳ない気になります。
1974年、sigmaは、「ウィナーズ・サークル(Winners Circle)」と称する、約2000万円もするというゲーム機を2台輸入しました。二人同時プレイが可能なこの競馬ゲーム機もまた、NASAの落し子だったそうです。
業界誌「アミューズメント産業1974年8月号に掲載されたウィナーズサークルの広告。
業界誌「アミューズメント産業」1974年6月号によれば、「電子技術をフルに応用して、競馬を再現する機械」として、「制御器にはIC千二十個とMSI(
ウィナーズ・サークルを開発したのは、拙ブログではもう馴染み深い名前となっている米国バーリー社(関連記事:【歴史】米国「Bally(バーリー)」社に関する思い付き話(1)など)で、1973年の製品とされていますが、先述のアミューズメント産業誌の記事では、「直接の開発担当者は米国航空宇宙局(NASA)を失業した技術者二人」とあり、パソコンなどというものがなかったこの当時は、コンピューター技術はまだまだ民間には遠い存在であったことが伺われます。
ワタシはこの「ウィナーズ・サークル」を、1977年±1年くらいの時期に、渋谷のゲームファンタジアで見ています。しょっちゅう大量のメダルを払い出していた印象があるゲーム機で、自分もこれでメダルを稼ぎたいと思うのですが、二つの席はいつもメダルを大量に持っている常連と思しきおやじに占有されており、遊ぶことができませんでした。
sigmaが、後に同社のシグネチャータイトルとなる「ザ・ダービー」シリーズの第一作目「VΦ」を発表したのは1975年のことです。10席を備えたメカの競馬ゲーム機で、制御はYHP社のミニコンを搭載して行っていました。コンピューター技術の投入と今の時代でも通用しそうな洗練された筐体デザインは、ウィナーズ・サークルを大いに意識していたものと思われます。開発費用に糸目を付けなかった結果、「VΦ」の価格は5000万円にまでなったと伝えられていますが、この機械が他社のロケーションに設置されたという話は聞いたことがありません。
「ザ・ダービー・VΦ」1975年7月発表。ウィナーズ・サークルと同様8頭立て。レースプログラムは8レースが用意されている。通常は単勝のみベットでき、いくつかのレースは「エントリーレース」と称し、特定の3頭のいずれかが1着になれば単勝で当たったことになるというルールがあった。また、単勝に20枚以上ベットすると、連勝複式にもベットできるというシステムだったと記憶しているが、ワタシは1枚のメダルを惜しみながらベットするようなプレイヤーだったので、連勝複式などベットしたことはない。
今、ワタシが仕事やプライベートで使っているパソコンは、たぶんウィナーズ・サークルやザ・ダービー・VΦに搭載されたYHPのミニコンなど比較にならぬくらい高性能になっていると思われますが、その割に、オフィスソフトによる文書作成か、ラスベガスに行く際のホテルの価格比較か、あるいはエログロサイトの巡回に使う程度で、人を月に送るくらい偉大な大仕事なんてことにはまったく使っていないことを思うと、なんだか少しだけ申し訳ない気になります。