オールドゲーマーの、アーケードゲームとその周辺の記憶

コインマシンやギャンブルゲームやカジノの歴史的エピソードとか、時々カジノ旅行記とか、たまにスポーツやマンガとか。

ローゼン・エンタープライゼス1961(4)ベンディングマシン

2024年06月16日 18時36分56秒 | メーカー・関連企業

セガの前身となった企業の一つ、「ローゼン・エンタープライゼス」が1961年ころに作成したと推察されるカタログシリーズ4回目は、「ベンディングマシン」のページです。

ベンディングマシンとは、つまり自動販売機です。日本では、明治時代に郵便切手の自販機が登場しています。そこで販売される切手は、機械の中ではトイレットペーパーのようにロール状に収納されているため、側面に目打ち(切り取り線)がありません。このような切手は、収集家の間では特に「コイル切手」と呼ばれています。

後に日本のアミューズメント業界をリードする日本娯楽機(後のニチゴ)は、大正から戦前の昭和にかけて自販機を精力的に製造しています。

日本娯楽機が戦前の1936年ころに頒布したカタログに掲載されている自動販売機のページ2つ。香水や飲料水の販売機や、菓子販売機を謳うゲーム機が見える。

しかし、日本が「自販機大国」などと呼ばれるようになるのは、これら先行する国産自販機の躍進によるものではなく、1960年代の早い時期コカ・コーラの海外製自販機が全国に設置されてからのようです。1970年3月15日付の朝日新聞には「1967年から3年間、自販機の伸びは30%以上」との記事があり、この時期に既に社会的な注目を浴びる勢いで増加していたことが窺えます。

ローゼン・エンタープライゼスは、自動写真撮影機の成功から、日本における自販機の可能性を予期していたであろうことは想像できます。このカタログにも10ページに渡って各種自販機が紹介されています。

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★画像は例によって縦に二分割しています。

 

自販機その1。ホットサンドイッチの自販機。機械内の冷蔵庫に保存されているサンドイッチを電子レンジで加熱しているらしい。文字が潰れていて判読が難しいが、1個25セントから35セントまで、5種類を販売している。

自販機その2。コーヒーとココアの自販機。

コーヒーは「先進国」米国では当たり前の習慣でしょうが、1961年ころの日本にどれだけ馴染んでいたかはわかりません。ウィキペディアによれば「普及には1960年に森永製菓が国内生産を開始して以降、国産化が進展するまで時間を要した」とのことなので、認知はされていたようです。

自販機その3。これもコーヒーとココアの自販機。

自販機その4。牛乳の販売機。能書きには「Rudd-Melikianによる大容量牛乳ディスペンサーは、工場、オフィス、それに学校で、完全な殺菌とトラブルフリーの問題への答えです。従業員や学童は、昼食時やいつもの3時のおやつ時に、R-M 社が提供するさまざまなフレーバーの発泡スチロールカップに入った新鮮な冷たいミルクを好みます」とある。

自販機その5。130の品物が入るという自販機。選んだ商品が運ばれてくるシステムを「The magic touch」と呼んでいるが、何をどうするとどうなるのかはよくわからない。

自販機その6。コカ・コーラの自販機。冒頭で述べた「1960年代の早い時期全国に設置されたにコカ・コーラの海外製自販機」にはこれも含まれていたのだろうか。

自販機その7。コーヒーの自販機。スイッチの切り替えで、豆から淹れるコーヒーかインスタントコーヒーか、冷蔵されたフレッシュクリームか粉クリームかが切り替えられるらしい。普通に考えれば豆から淹れるコーヒーにフレッシュクリームがいいに決まっているが、選択によって値段が変わるのだろうか。

自販機その8。菓子やたばこの自販機。キャプションの「CAUDY」は意味不明。「CANDY」の事だろうか。

自販機その9。10セントの商品を販売する「U-SELECT-IT」は、10セント硬貨の他に5セント硬貨が使用可能であることが売りらしい。

自販機その10。これも「U-SELECT-IT」。188個の商品を収納可能な自販機で、客は店に行くのと同等の選択肢を提供できるとある。

次回「ジュークボックス他」(たぶん最終回)につづく。


ローゼン・エンタープライゼス1961(3)ピンボール

2024年06月09日 18時13分59秒 | メーカー・関連企業

セガの前身となった企業の一つ、「ローゼン・エンタープライゼス」が1961年ころに作成したと推察されるカタログシリーズ3回目は、「ピンボール」のページです。

このカタログにはピンボールのページが7ページありますが、そのうち4ページはページを横にして見るようにレイアウトしてあります。そういうわけで、通常の縦レイアウトのページは前回通り上下二分割ですが、横レイアウトのページは左右二分割として少しでも大きく表示できるようにしています。

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1961年ころに作成されたと思しきこのフライヤーには、まだ得点表示をリールではなくランプで行う1950年代半ばの機械が多く含まれています。IPDBを調べると、GottliebもWilliamsも得点表示にリールを使用するようになったのは1955年からで、しかも一気にではなく徐々にでした(Ballyはこの時期、ビンゴ・ピンボールしか作っていない)。

 

ピンボールその1。カタログの8ページ目。シャッフルボードが混じっているが、GotliebとWilliamsの、得点表示をランプで行う旧型機が14機種掲載されている。

ピンボールその2。カタログの9ページ目。上半分のGottlieb製ピンボールリストは、1954年から1961年までのリリース時期まで記載されており、貴重な資料となる。下段の機械4機種はいずれも得点表示がリールになっている。

 

ピンボールその3。カタログの10ページ目。横に見るレイアウトのため、左右二分割にしてある。

 

ピンボールその4。カタログの11ページ目。このページも左右二分割にしてある。右下の「EASY ACES」のバックグラスには、Gottliebが1960年代初頭まで使い続ける「Amusement Pinballs as American as Baseball and Hot Dogs!」のキャッチフレーズが登場している。

 

ピンボールその5。カタログの12ページ目。左右二分割。

 


ピンボールその6。カタログの13ページ目。左右二分割。

横に見るレイアウトの4ページのいずれにも、最下部に「FIRST」で始まる宣伝文句が添えられています。

P.10 ”FIRST" is always second to none for values! (一番の価値は常に他の追随を許さない)
P.11 FIRST prize for FIRST class equipment! (一等賞は最高級の備品から!)
P.12 Always FIRST in qualiity! Satisfaction guaranteed" (常に品質第一! 満足を保証!)
P.13 ”FIRST" always brings you the best-FIRST! (一番は常にあなたにベストを最初にもたらす)

これはつまり、「だから躊躇せずさっさと(我々から)買え」と言いたいのでしょうか。60年代初頭と言えばまだどライバルが殆どいなかったはずと思うのですが、それ以上にそれほど多くのゲーム場があったとも思えません。この当時のローゼン・エンタープライゼスは一種のベンチャー企業だったと言えるのではないでしょうか。

ピンボールその7。カタログの14ページ目。ここから縦に見るレイアウトに戻る。

 

次回「各種自販機」につづく。


ローゼン・エンタープライゼス1961(2)ガンゲーム

2024年06月02日 20時28分44秒 | メーカー・関連企業

セガの前身となった企業の一つ、「ローゼン・エンタープライゼス」が1961年ころに作成したと推察されるカタログの中から、今週は「ガンゲーム」のページをご紹介したいと思います。

しかし、ただでさえ画質が悪いモノクロコピーを、gooブログが推奨する画像サイズ(長辺640、短辺480)まで縮小してしまうと、書かれている文字が判然としない部分が多くなってしまっておりました。

そこで今回の「ガンゲーム」では、多少なりとも画像を大きく表示できるよう、1ページを上下2段に分割しています。見づらいことには変わりありませんが、なにとぞご理解いただきますようお願い申し上げます。

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今でこそビデオゲーム化されているガンゲームも、この時代は当然ながらエレメカ技術で作られていました。物理的制約が多かったにもかかわらずメーカー各社は様々な工夫を凝らして多くのタイトルを開発し、このカタログの時代はピンボール機と並んでゲーム場の中核を成していました。ガンゲームは日本国内でも早い段階から作られ、「ウルトラガン」(関連記事:大阪レゲエ紀行(7・最終回)) DAY 2・その2:大阪駅前第2ビルB1「ZERO」や「チューハンター」(関連記事:セガのエレメカ機「MOTOPOLO」 (1968)などが人気を博しました。

ガンゲームその1。据え付け型のライフル銃で、筐体奥で鏡に映し出しいる標的を狙うものが多いが、右上(No.171 Genco社・SKY GUNNER)のように、ガンの中に標的のギミックを詰め込んだタイプもあった。

ガンゲームその2。中段左から2番目(No.188 Exhibit社・SILVER BULLETS)は2P同時プレイ可能。説明には、50フィート向こうで素早く出現したり隠れたりする酒の密造業者をリアルなコルト45口径で撃つ、とある。また、下段の右2機種は、小型で安価であることをアピールしている。

ガンゲームその3。上2機種は屋外でのハンティングをテーマとするSeeburg社のガンゲーム。おそらく光線銃。Seeburg社はジュークボックスで良く知られるが、アーケードゲームやスロットマシンも作っていて、ピンボールの三大メーカーの一つWilliams社の親会社だったこともある。

ガンゲームその4。中央(No.158 Bally社・PACE GUNNER)や下段右(No.155 Exhibit社・POP GUN)のように、ボールやピンポン玉を発射するガンゲームもあった。

ガンゲームその5。「1961年のベストガンゲーム」と謳って3機種を紹介している。左の「SATELLITE TRACKER」は上述「ガンゲームその4」の左上の機種。ロケットを月に送るとのことだが、どんなゲームなのかよくわからない。右下(No.202 Midway社・SHOOTING GALLERY)は、「初の本物のガン・11/16インチのプラスチックボールを発射する」とある。

次回「ピンボール」につづく。


ローゼン・エンタープライゼス1961(1)アーケードゲーム

2024年05月26日 17時55分04秒 | メーカー・関連企業

ワタシの手元に、「ローゼン・エンタープライゼス」のカタログのモノクロコピーがあります。表紙に「1960年」との書き込みがありますが、ピンボール機各社のマシンリストには1961年の機械が掲載されているので、実際にこのカタログが作成されたのは1961年以降と思われます。画質は悪く、不満の多いものではありますが、それでもこの時代のAM関連の資料は殆ど残されていないので貴重です。

ローゼン・エンタープライゼスのカタログの表紙。所在地は千代田区竹平町(現在の千代田区一ツ橋)の「リーダーズダイジェストビルディング」とある。左下に「1960年」との書き込みが見られるが、掲載されている機械には発売年を1961年としているものもある。

ご存じの方には今さらのことですが、「ローゼン・エンタープライゼス」は、後の「セガ・エンタープライゼス」の前身となった企業の一つです(関連記事:セガの歴史を調べていたら意外な話につながった話(1))。社長の「デイビッド・ローゼン」氏は元々米空軍に従軍しており、朝鮮戦争(1950~1953)時には日本及び極東に駐留しました。除隊後の1953年(1954年とする資料もある)、「ローゼン・エンタープライゼス」を立ち上げ、町の写真館で撮影するよりも安くしかもその場で出来る証明写真を提供する自動撮影機をオペレートして大成功しました。

日本の戦後復興が進み、1950年代も後半になると、それまではその日を生きるのに精いっぱいだった日本国民の間にも徐々にですがゆとりが生まれてきました。そこでローゼンは米国からAM機や自販機を輸入し日本で展開しはじめます。このカタログはそれから間もなくのもので、1ページ目には「各地営業所」として「日比谷ガン・コーナー」、「池袋西武屋上」、「梅田ゲーム・オ・ラマ」の画像が掲載されています。

画像:ローゼン・エンタープライゼスのカタログの1ページ目。日比谷ガン・コーナーには「2分で出来る写真」の文字が見える機械がある。池袋西武屋上には3台のキディライド、梅田ゲーム・オ・ラマには夥しいガンゲーム機と思しき機械が見えるが、ピンボール機が見当たらない。

カタログは全部で44ページあり、一度に全てはご紹介しきれません。今回は1回目としてアーケードゲームのページの一部をご紹介し、残りは次回以降としたいと思います。

【ローゼン・エンタープライゼスカタログより、アーケードゲーム編】

主にホッケーゲーム。日本でも三共などが類似機種を作成したが、これほどのバラエティはなかった。

バスケットボールや米式蹴球などスポーツテーマのゲーム機。下段右はゴルフのパッティングのゲームで、日本でも1980年代初頭頃に多く作られたが、この時代から既にあったことがわかる。

 

操り人形(上左)、キディライド(上中、中左)、ドライブゲーム(中央)、ガンゲーム(上右、中右)。左下は「Kiddie Football」とあるが、よくわからない。

左半分はユナイテッド社のピンボールの年代別リストで、1953年から1961年まである。右はボウリングゲーム。

ユナイテッド社のボウリングゲーム。ボールを転がすのではなく、シャッフルボードで使用するパックを滑らせるタイプらしい。

前ページに続き、ユナイテッド社のボウリングゲーム。上段右から二つ目は「SKEE BALL」系のゲームに見える。

シカゴコイン社のボウリングゲーム。

同じくシカゴコイン社のボウリングゲーム。こちらはボールを転がすタイプに見える。日本でも1970年代までは遊園地や温泉ホテルのゲームコーナーでよく見かけた。同一機種ではないが、類似機種は現在「デックス東京ビーチ」内の「台場一丁目商店街」にある「一丁目プレイランド」で遊ぶことができる。

同じくシカゴコイン社のボウリングゲーム。下段の中央と右は「スキーボール」の類似品。

次回につづく。


GAUNTLET(ATARI, 1985)で思い出した話

2024年05月19日 19時10分02秒 | ビデオゲーム

昔収集したゲーム関連のファイルブックを25年ぶりくらいに開いたら、「ガントレット」(ATARI,1985)のフリーペーパーが出てきました。

ガントレットのフリーペーパー。二つ折り4ページで構成されており、上が表紙と裏表紙、下が中の2ページと3ページ。

ワタシが熱中したビデオゲームはたくさんありますが、「ガントレット」はその中でも上位5作に入る思い出深いゲームです。「ガントレット」とは、西洋の鎧の籠手のことだそうですが、その響きが滅法カッコ良く感じられました。

最大の特徴である、最高4人のプレイヤーがどのタイミングでもゲームに参加、もしくは離脱できるシステムは、インカムを上げるには絶好の方法で、米国で大ヒットしました。また、それぞれ特徴が異なる「戦士」、「女戦士」、「妖精」、「魔法使い」の4種類のキャラクターから一人を選択するシステムはゲームの世界観を広げ、さすがアタリ、発想がとびぬけていると感心したものでした。

機を見るに敏なセガは、翌1986年に、やはり最高4人が同時にプレイ可能な後追い企画「カルテット」をリリースしました。ワタシは残念ながらこちらにはのめり込むことができませんでしたが、そこそこヒットしていたように思います。

「カルテット」のフライヤーの表裏。登場人物の画風がいかにも80年代っぽい。

「ガントレット」は日本でも広範囲に渡って設置されました。しかし、米国のように知らない者同士でも気軽に一緒に遊ぶ文化がない日本では、もしかしたら筐体の大きさのわりに稼げなかったのではないかと余計な心配をしていますが、実際のところどうなのでしょうか。

セガはさらに、1988年に3人が同時にプレイできるアップライト筐体の「ゲイングランド」をリリースしましたが、テーブル筐体が主流の日本国内ではもっぱら2人同時プレイ機として稼働していました。リリース当初はクソゲー扱いされたようですが、アーケードゲーム雑誌「ゲーメスト」が根気よく攻略記事を掲載したこともあってか、その戦略性の面白さが理解されるようになり、多くのプレイヤーの記憶に残るゲームとなりましたが、米国では逆に難し過ぎたのか、ヒットはしなかったようです。

「ゲイングランド」のフライヤー。裏面はシステムボード「システム24」と「エアロシティ」及び「エアロテーブル」筐体の紹介だった。

1990年代に入ると、日本では「ストリートファイターII」に代表される2P対戦格闘ゲームが爆発的に広まって、ガントレットのようなプレイヤー同士で協力して進んでいくゲームは(少なくともアーケードゲームとしては)作られなくなってしまったのは残念なことです。