旅限無(りょげむ)

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月刊 山と渓谷書評

2006-03-20 15:37:50 | 書想(その他)
チベット文化の伝承のために。ひとりの日本語教師の奮闘記
『チベット語になった『坊っちゃん』』 多賀幹子

書名『チベット語になった『坊っちゃん』』の意味を、すぐに理解することは難しかった。私にはチベットの地図上の位置すらあやふやで、それと夏目漱石の代表作とが結びつかなかったのである。ずっと前の語ではあるけれど、大学の国文学科で夏目漱石を卒業論文に選んだ。小学生の時に出会った雰っちゃん』の歯切れの良い文体、ユーモアあふれる内容に取り付かれたからだ。それ以来、漱石の作品を繰り返し読んできたが、チベットとの関わりについては初耳だったのだ。しかしいったんぺージをめくり始めると、たちまち引き込まれた。文字通り、『坊っちゃん』はチベット語になったのだ、と合点がいった。

 本著では、チベットの学生が『坊っちゃん』の文章を具体的に訳し始める第4章あたりから、面白さに一段と拍車がかかる。まず「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ぱかりしている」の冒頭部分は、「父母の慎重さを欠く気質を受け継いでいたので、子供の時から損ぱかり受けている」と学生たちから慎重に訳された。続けて、坊っちゃんが悪友の挑発に乗って校舎の2階から飛び降りる。自慢のナイフに難癖を付けられて自分の親指を切り落とそうとする。こうした場面は、まるで坊っちゃんの姿が目に浮かぶようだと学生たちは笑う。羊肉をナイフで切って主食とするチベット人であることもあってか、売り言葉に買い言葉で白分の指を切って見せる坊っちゃんの姿は、想像を掻き立てるらしく、万年筆をナイフに見立てて即興芝居まで演じたという。

 チベット語にない「栗」やチベットに存在しなかった野菜の「人参」に頭を抱えることがあったし、「茶代」や「色町」の訳には苦しむが、学生たちの理解力と想像力はすばらしく、嬉々として翻訳を続けたのだった。そのシーンは、まるで奇跡に立ち会っているかのような感動を呼ぷ。漱石は草葉の陰から、学生たちの純粋で真摯な学ぷ姿勢と翻訳への情熱をさぞ喜んでいることだろう。

 著者の中村吉広さんは、写真で拝見するとあごひげの似合う優しげな先生だが、そもそもはチベットにはチベット語を学びに行っている。チベット仏教への関心から中国・青海省チャプチャの青海民族師範専科学校に留学したのだ。かつてよりイスラエルのキプツに行かれたりしているとはいえ、なんという実行カだと感嘆する。語学留学といえぱまだ欧米が中心の日本では、とても新鮮な印象を受ける。

 それがさらに、逆にチベットの学生に日本語を教えることになる。そのときに逃げもせず臆することもなく、著者は正面から受け止める。学校には、日本からプレゼントされた子供向けとはいえ多くの文学全集が揃っていた。しかし利用者はほとんどいなくて、いわぱ死蔵されていたのである。著者はそこから芥川龍之介の本などともに、『坊っちゃん』を選ぷ。しかも、チベット語文法と日本語文法の共通点に目をつけ、チベット語を介して日本語を教えたのだった。チベット語の文法と日本語のそれとが似ていることを私は知らなかったが、著者の説明によると、驚いたことに共通点が多く存在するのである。それをたくみに生かして翻訳作業を進めるが、そこにはチベット語と学生たちの豊かな可能性を伸ぱしたいとの著者の熱い思いが働いていたのだ。

 翻訳は順調に進むのだが、壁になったのは中国共産党サイドだった。チベットは、民族教育の名前のもと漢族への同化を進められている。チベット語の学習を声高に叫ぷことは、独立運動に通じるとみなされる危険がなくはない。お世話になっている人々に万が一でも迷惑がかからないように、十分に注意を払わなくてはいけなかった。「海外からの資金援助を受けて日本人が日本語を教えるという看板だけが大切な学校と、その看板でチベット語が秘めている可能性を広げようとする私」と、著者は孤軍奮闘ぷりを端的に描いている。

 さらに「少数民族の言語という箍(たが)を嵌められたチベット語は、政治力と経済力を奪い取られてしまったのも同然なのだが、貴重な文化を伝承する唯一の手段としての役割は失われていない。従って、チベット語が担っている文化的価値を、チベット人が捨てたり、忘れたりした瞬間にチベット語の命脈が断たれるのは疑いの無い事である」との信念を述べているのだ。

 日本語教師の役割を1年ほどで終え、著者は借しまれながらもこの地を去る。涙をこらえたチベットの学生たちから「見棄てないでください」と懇願されるところでは、思わず目頭が熱くなった。それは、日本ではこのような純粋な師弟愛をなかなか目にすることが
なくなったからだろう。たとえ著者は帰国しても、サブタイトル通り「草原に播かれた日本語の種」は、いつかきっと実を結ぷ日が来るに違いない。読後感のさわやかな、しかも教えるところの多い良書として、ぜひ一読を勧めたい。