富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「山上で神の栄光に輝くイエス」

2015-03-15 16:39:09 | 聖書

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

   受難節第4主日 2015年3月15日(日)   5時~5時50分 

礼   拝    

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  132(涸れた谷間に野の鹿が)

交読詩編       2(何ゆえ、国々は騒ぎ立ち)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

聖 書   ルカによる福音書9章28~36節       

説 教  「山上で神の栄光に輝くイエス」  辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 285( 高き山の上)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

 

               次週礼拝 3月22日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分 

                聖 書  ルカによる福音書20章9~19節

                説 教    「十字架の勝利」

                讃美歌    152、411

本日の聖書 ルカによる福音書9章28~36節

  28この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。29祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。30見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。32ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。33その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのある。34ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。35すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。36その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

    本日の説教

 イエスはペトロの信仰の告白の後、弟子たちに、自分がメシアとして受けなければならない苦難と死、そして復活について語り、十字架を背負ってイエスに従うとき、永遠の命が与えられる話をなさいました。福音書記者マルコやマタイは、その場所がフィリポ・カイサリアであったと記しています。

それから八日ほどたったとき、主イエスは弟子の中でも中心的な位置にあるペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人を連れて、祈るために山に登られました。その<高い山>(マルコ9・2)は古来、ガリラヤのタボル山(ガリラヤ湖の南西約16㎞、標高588m)とされてきたが、当時その頂上には要塞がったので、変容の場所としてはふさわしくありません。その山はフィリポ・かイサリアの北東約19㎞に位置するヘルモン山(標高2815㍍)であったという説もあるが、確かではありません。マルコの文脈では、<一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った>(マルコ9・30)とあるので、フィリポ・カイサリア周辺の山です。

 イエスは祈るために…山に登られた。

 イエスは<人里離れた所に退いて>(ルカ5・16)祈られたり、<祈るために山に>(ルカ6・12)行かれたり、ひとりで祈ったり(ルカ9・18)されています。イエスにとって、父なる神との祈りの交わりは、その使命遂行のための力と確信とを与えられるために欠くことのできない大切のものでした。特に十字架の死の前夜、オリーブ山のゲッセマネの園(その)での祈りは、神のみ心を確認して歩むために、必要な祈りでした。イエスは祈りによって、神のみ心を知り、そのみ心に従ったのです。今日の聖書の個所でも、苦難の道を歩み出すに当たって、神との霊的交わりを求められたのです。

祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました。栄光に輝く主イエスのお姿がここに示され、三人の弟子たちはそれを見たのです。イエスは今や弟子たちの前に神的存在として現れたのです。イエスの顔の肌は、モーセを思わせるように光を放っていました。(出エジプト記35・30)イエスの服は<この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く>(マルコ9・3)なりました。この白い着物という言葉で、神のような姿を描写しています。イエスは天に属する者であり、本質は神である徴です。

 見ると、二人の人がイエスと語り合っていました。旧約時代のはるか過去の人物であるはずのモーセとエリヤがその場に現れてイエスと話し合っていました。エリヤは死なずに天に上って行ったとされている預言者です(列王記下2・11)。モーセは、ユダヤ人のあいだでは、だれも彼の墓を知らないという申命記34・6の記述から、死なずに天に上ったという伝承が生じたと言われます。イエスと語り合うのにふさわしい天の世界の二人の人物です。この二人は旧約聖書の律法と預言書を代表する人物です。これはイエスが彼らの果たした役割を受け継ぎつつその成就者であることを示しています。エリヤは終末時に再来すると期待されていた人物なので、終末がいよいよ近いことを間近いことを示しています。

二人は栄光に包まれて現れて、イエスが<エルサレムで遂げようとしておられる最期>について話していました。モーセは、シナイ山で神に会って、神の栄光を自分の顔に受けました(出エジプト記34・29~35)。弟子たちが見た栄光に輝くイエスは、かつてモーセが顔に受けた神の栄光でした。イエスはここでモーセに優る神の人であり、神の子です。

夜のことだったのか、ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えました。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言いました。

先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。

 ペトロの提案は、天的存在としてのイエス、エリヤ、モーセを地上にとどめておくことができると考えたのです。ペトロは思わず口走ったのです。自分でも何を言っているのか、分からなかったのです。ペトロの思いは、三つの小屋を建てて入ってもらい、栄光に輝く主イエスの御姿とモーセとエリヤも、いつまでもそこに居てもらいたいと思ったのです。

 ペトロがこう言っていると、雲が現れて栄光に輝く三人は雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れました。雲は神の臨在を表わす象徴です。すると、雲の中から神の声が聞こえました。

これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられました。<これはわたしの子>は詩編2・7に由来し、イエスが神の子であり、メシアであることを示しています。<選ばれた者>はイザヤ書42・1の受難の主の僕を示しています。主イエスこそ、栄光に輝く神様の独り子、神様が選び、遣わして下さった救い主であられるのです。イエスの受難予告が、天の声によって確認されました。<これに聞け>は、イエスの言うことを聞けと弟子たちに言われた言葉です。<これに聞け>は、申命記18・15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わなければならない。」が言及されていると思われます。イエスは、イスラエルの同胞の中から立てられた預言者ではありません。イエスは神の子であり、「モーセ以上の預言者」なのです。モーセは神の民を奴隷にされていたエジプトの地かあ導き出した指導者でした。神の子は、罪の奴隷になっている人々をこの世から神の国へと導かれる方です。

弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話しませんでした。イエスの変貌は、イエスがこの世の人ではなく、神の子であることを弟子たちに明らかにされた出来事でした。しかし、弟子たちはその意味を、この時は理解できなかったと思われます。イエスの生涯が死をもって終わるのではなく、復活する神の子であることが明らかになるのは、イエスの復活後、聖霊を与えられて初めて分かることでした。

三人の弟子たちは生きたままでイエスと一緒に天上界に引き上げられたような体験をしました。神自身が輝く雲の中からイエスのことを<わたしの愛する子>と宣言したのを聞いたのです。これはたしかに異象というべきものです。この変貌(へんぼう)の出来事は、イエスが人間の姿から神の姿へ変化したのです。

これは一つの奇跡であって説明することはできません。

この変貌の意義は、第一に、苦しみを受けるためにエルサレムに上ろうとするイエスの決意を強めるものでした。神はイエスに十字架の道を示し、復活することを保証したのです。

第二に、弟子たちは、世の終わりに現れる神の国の力、主イエスの栄光を、今のこの世を生きる中で、垣間見ることを許されたのです。

この記事が私たちに教えていることは何でしょうか。イエスは神であるにもかかわらず、人間の罪を救うために、私たちと同じ人間の姿を取り、苦難の道を歩み、十字架にかかって死んだくださった、ということです。

地上に来られたイエスは、どこまでも、私たちに対する愛のゆえに、イエスのへりくだった姿でした。地上の生涯においては隠されていたけれども、本当は栄光に輝く神の独り子であられるということです。人としてのイエスの中にも、神としての威光が輝いているのであり、イエスの変貌は十字架の死に至るまで従順であったキリストを、神が高くあげた栄光の姿を一時的に表した現象でした。イエスは死より復活して、天に上り、神の右に座し、父なる神と共に世を支配したもう神なのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いこそが、私たちの罪を贖い、神の子とし、聖霊を与え、永遠の命に生きる恵みを与える救いとなったのです。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「メシアの受難の予告とイエ... | トップ | 「ぶどう園と農夫のたとえ」  »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

聖書」カテゴリの最新記事