富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「ゲッセマネの祈り」 

2015-03-29 02:02:13 | 聖書

    ↑エルサレムのイエス受難週の木曜日と金曜日 バイブルワールド(地図でめぐる聖書p.99)

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

            日本キリスト教 富谷教会 週報

年間標語 『いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しましょう。』

聖句「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)

  受難節第6主日   2015年3月29日(日)  5時~5時50分                                 (棕櫚の日曜日)         

              礼   拝    

前 奏                  奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  309( あがないの主に)

交読詩編      22(わたしの神よ、わたしの神よ)

主の祈り    93-5、A

使徒信条    93-4、A

讃美歌(21)  302(暗いゲッセマネ)

聖 書   ルカによる福音22章39~46節       

説 教    「ゲッセマネの祈り」   辺見宗邦牧師

讃美歌(21) 311( 血しおしたたる)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)     24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                                   次週礼拝 4月5日(日)イースター夕礼拝 午後5時~5時50分 

                                     聖 書  ルカによる福音書24章1~12節

                                     説 教    「キリストの復活」

                                     讃美歌     517 72 327

            本日の聖書 ルカによる福音書22章39~46節

 39イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。 40いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。 41そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。 42「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔 43すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 44イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕 45イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。 46イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」

               本日の説教

 2月18日から始まった受難節は、いよいよ今日から最後の一週間に入ります。受難週の第1日は棕櫚の日曜日と呼ばれています。

日曜日は、キリストが子ろばに乗って弟子たちと共にエルサレムの町に入ってこられるときに、エルサレムの市民たちが歓迎の気持ちを表すために棕櫚(なつめやし)の枝を道に敷いて、ホサナ、ホサナ(救い給え)と叫んでキリストを迎えたことによります。

 月曜日は、主イエスは「宮浄め」をなさいました。エルサレム神殿を祈りの家とするため商売人を追い出しました。

 火曜日は、祭司長たちと権威についての問答をし、主イエスは「ぶどう園と農夫のたとえ」を話されました。

 水曜日は、オリーブ山の麓のベタニヤで過ごしました。一人の女が高価なナルドの香油をイエスに頭に注ぎました。

 木曜日は、夕方から始まる過ぎ越し食事の準備をするためにエルサレムに行きました。夕方になると十二人の弟子と最後の晩餐と呼ばれている食事をしました。この食事の後に、イエスはエルサレム郊外のゲッセマネの園で祈りの時を持たれました。そこでイエスは逮捕され大祭司の屋敷に連れて行かれました。

 金曜日は、夜が明ける前、最高法院の全員による裁判で、イエスは死刑の決議を受けました。夜が明けるとローマ総督ピラトのもとに連れて行かれ、尋問の後、死刑の判決を受けました。イエスはゴルゴダへ連れて行かれ、午前9時に十字架につけられ、午後3時に息を引き取りました。夕方には、アリマタヤのヨセフが遺体を引き渡しを願い、墓に納めました。

  土曜日は、安息日でした。土曜日の日没後は安息日が終わるので、マグダラのマリアたちは、イエスの遺体に塗るための香料を買い、翌朝に備えました。

  ここまでが、受難週の出来事です。日曜日の朝早く、イエスは復活し、マグアダラのマリアに最初の現れました。

  今日の聖書の個所は、十字架に架(か)けられる前夜の<ゲッセマネの祈り>と呼ばれている個所です。平行記事は、マタイ26章36~46節、マルコ14章32~42節です。

  イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。」

  そこを出て>とは、過ぎ越しの食事をしたエルサレム市内の二階の広間です。イエスと弟子の一行は、この最後の晩餐のあと、エルサレム市街を出てキドロンの谷を経てオリーブ山の方に向かいました。<オリーブ山>は、エルサレムの東側、キドロンの谷の向こう側にある海抜814mの小高い山です。その西側斜面に一つの園があり、イエスは弟子たちと一緒にその中に入られました。<いつものように>とあるように、イエスは、昼は神殿で教え、夜はしばしばこのオリーブ山で過ごして眠ることにしていました(ルカ21・37)。その場所はイスカリオテのユダのよく知っていた場所でした。主イエスは弟子たちと共に過ごす最後の時、苦難に向かおうとされる大切な祈りをするために、この場所を選ばれました。マタイやマルコ福音書はこの場所を<ゲッセマネ>と呼んでいます。「ゲッセマネ」は「油絞り器」という意味のヘブライ語に由来する名です。オリーブの木の植えられた農場であったと推測されます。

  いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、『誘惑に陥らないように祈りなさい』と言われた。」

 ルカ福音書では、誘惑に陥らないように祈っていなさい、と十一人の弟子全員に言われています。イエスは自分の受難の後の弟子たちの試練を心配しているのです。イエスは<主の祈り>の中で、<我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ>と祈るように弟子たちに教えています。誘惑に立ち向かう時の力は、神から与えられるからです。

   そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。」

   マタイやマルコでは、<少し進んで行き>とあります。弟子たちがイエスが祈るのを目にすることが出来る距離です。誘惑に陥らないためには、祈ることが必要である事を、弟子たちに解らせるために、弟子たちから見える場所で主イエスは祈られたのです。

    アメリカの画家ホフマンの「ゲッセマネの祈り」

  当時は立って祈るのが普通だったので、<ひざまずいて>祈るということは重大な危機に直面したような時に祈る姿勢でした。マルコやマタイは、<地にひれ伏し>という用語を用いています。

  「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。」

  イエスの祈りは、<父よ>という言葉で始まっています。マルコ福音書では、その呼びかけは「アッバ」というアラム語です。この愛情あふれる言葉は、通常は小さな子供たちが使用した<おとうちゃん>に当たります。イエスと父なる神との関係の深さと強さが読み取れます。キリストの十字架の贖いによって、<神の子>とされた私たちも、父なる神につながれ、子たる身分の霊を受けて、在天のイエスの名によって祈ることを許され、<アバ、父よ>と呼ぶことができるのです(ローマ8・14~15)。

  <この杯>を取りのけてくださいという、<この杯>とは、旧約聖書では神の救いや祝福の場合もあるが、ここでは神から与えられる審判であり、呪いであり、怒りです(エレミヤ書25・15~16、詩編11・6、75・8)。主は自ら負うべき苦難と十字架を悟り、そのような苦い杯は、出来れば、<取りのけてください>と祈られました。主の受けられた試練・誘惑こそ、主イエスが人間として生きられたことの表れでした。

  主は恐れの中にありました。それは死の恐れではなく、神からの断絶の時が来る恐れでした。イエスは人間の罪に対する神の裁きを受けるのです。それは昔の預言者が「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(イザヤ五三・六)と語り、聖霊によって奥義を示された使徒パウロは「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪とされた」(コリント二、5・21)と語りました。罪のないイエスが人間の罪を負って、罪人としての神の裁きを受けなければならないのです。

  しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

  どこまでも神の<御心>に従おうとする祈りです。主イエスは、御自身の願いの成ることを求めず、神のみこころと一致する事を求めたことの中に、神の救いのみわざが実現する事を知ります。この祈りにおいて、イエスは自ら負わなければならない十字架の贖罪としての死の意義を悟られたのです。主イエスは、このような深い恐れの中で、神のみこころに従う決意をし、神にすべてを委ねたのです。

 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。(43,44節)

  この43、44節は早い時期の写本にはありませんでした。後に写本を書き写す際に、ルカの証言をマタイ、マルコの証言と合うように、書き加えられたもののようです。

 神に仕える天使が現れて主イエスを力づけたことは、神がこの苦しみを知っておられ、イエスに力を与えておられるということです。この天使の力添えは、苦難を取り去るということではなく、苦難に打ち勝ことが出来るようにするためです。主イエスの十字架を前にした葛藤は、ただ超然として十字架への歩みを続けられたのではないことを示しています。その苦しみは、<汗が血の滴るように地面に落ちた>という表現になっています。キリストは、「肉において生きておられた時、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ」(ヘブライ5・7)られたのです。

  福音書記者ルカが、これらの節を用いず、イエスが苦悩し、神のみこころと格闘する姿を描かないのは、絶えず祈りの生活をしている人には、試練の時をむかえても、苦しみ悶える必要はないということです。イエスが杯を受けたくないと思ったのは確かです。しかし、イエスは洗礼を受けた日から、祈りを通じて神の意思の下に生きてきたのです。その祈りの生涯が試練に打ち勝つ力の源となっていたのです。

  イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」

  弟子たちは離れた場所で、主の苦しみの本当の意味が解らないながらも、悲しみのあまり眠っていました。祈ることの大切さを示されていながら、祈り続けることができなかったのです。

  イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。

 誘惑や困難は弟子たちにとって避けることの出来ないものです。主が弟子たちと祈りを共にされたのは、主イエス御自身の十字架への備えのためでありましたが、また同時に、弟子たちが誘惑を克服する道を、また困難に立ち向かう力を、祈りによって得るようにという教訓を与えるためでもありました。

   ゲッセマネの物語は、私たちの意志が私たちの父なる神の意志と一体となるように絶えず熱心に祈ることによって、試みに打ち勝つことができるのだということをイエスから学ぶことができます。主イエスは、ゲッセマネの祈りで、しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。ここに私たちは祈りの究極の意味を教えられます。主イエスが弟子たちに教えられた<主の祈り>に、「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りがあります。私たちも、主の御心に従う祈りをすることが求められています。私たちの祈りは、神様に自分の思いや願いを投げかけているだけということが多いのではないでしょうか。自分の願いを神様に向かって語ることは信仰の大事な要素です。しかし、そういうことだけの祈りは、信仰者の祈りではありません。神様の御心、ご意志はどこにあるのかを求め、それに従っていこうとすることが信仰です。

   更にゲッセマネの物語が告げる重要なことは、このゲッセマネの祈りで、主イエスの父なる神への完全な従順が示されたということです。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり」(ヘブライ5・8~9)ました。イエスは、神の意志を無視して自分の命を救おうという誘惑に打ち勝ち、「死に至るまで従順」(フィリピ2・8)になることができたのです。イエスの最も重要な犠牲は、その贖いの血ではなく、神への従順でした。ヘブライ人の手紙には、<血>と<犠牲>は、イエスが真に神に捧げられた従順を示す比喩にすぎないことを語っています。キリストは罪を贖うためのいけにえを望まれない神のために、神の御心を行うために世に来られたのです。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです(ヘブライ10・10)。」「一人の人の不従順(アダム)によって多くの人(全人類)が罪人とされたように、一人の従順(キリスト)によって多くの人が正しい者とされるのです(ローマ5・19)」とあるように、「キリスト者にとってゲッセマネの園は、エデンの園を逆転したもの」なのです(現代聖書注解、マタイによる福音書p.518)。ここに罪と死の支配から解放されて、すべての人が義とされて永遠の命を得ることになったのです。

 

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